アヘン戦争(1840-42年)/アロー戦争(1856-60年)後の周辺諸国の情勢を詳しく解説
古くから地域をリードしてきた大国・清がヨーロッパの列強にいとも簡単にやられたのを見た周辺諸国である日本、李氏朝鮮、越南といった国々にも大きな影響を与えました。
ここでは清の敗戦後の日本や属国の中軸をなした李氏朝鮮、越南(ベトナム)を見ていこうと思います。
なお清の属国の中軸をなした国のもう一つの国・琉球は薩摩にも従属していた上に海を隔てていたため清の動向に直接的な影響よりも日本の変化による影響を強く受けることになります。
清敗北による日本への影響
1853年のペリー来航以降、日本国内は江戸幕府を倒そうとする勢力が出現。明治維新を突き進み始めます。
清が穏健派と主戦派とに分かれていたのと同様に、異国を倒してやろうとする攘夷派と、国力的に直接対決は厳しいから力をつけてから立ち向かおうとする開国派(主に幕府のお偉いさん)に分かれて大混乱。
最終的に攘夷派も外国の実力を認めて異国の力も借りつつ幕府を倒す方向に向かい、1868年あたりから始まる明治維新に突き進むと近代化を成し遂げました。
なお、1871年の版籍奉還で琉球王国は薩摩藩および鹿児島県の付庸国となりますが、明治政府は琉球王国も版籍奉還させようとしていたようです。明治政府が完全に沖縄県として編入し領有権が確定するのは日清戦争の後の話です。
李氏朝鮮の情勢
そもそも李氏朝鮮は清の前王朝・明に認められる形で建国した国です。
自国が明などの歴代中国王朝の伝統を継承している「小中華」であることを自認し、明が金や清にとって代わられた後に従属しつつも文化的には李氏朝鮮の方が優位だという小中華思想を持っていました。
それは西洋列強に対しても同様だったことから李氏朝鮮の外交政策は鎖国攘夷が基本となっています。
アヘン戦争前の時点の1830年代には李氏朝鮮もまた欧米列強からの開国要求にさらされていましたが
清が宗主国だから勝手に交渉できないよ
という立場にいると伝えて要求を拒絶していたのです。
それでも強引に開国を迫ってきた際には、武力衝突も辞さずに追い返しています。
アヘン戦争・アロー戦争後の李氏朝鮮
アヘン戦争の情報については多少仕入れていましたが、国防に繋がるような情報ではなく、宗主国である清の防衛力に頼ったまま世界情勢の大きな波に突入したのが李氏朝鮮でした。
- 丙寅洋擾(1866年/へいいんようじょう)
フランス人宣教師の処刑を機に起こった戦いで兵力差で勝利 - 辛未洋擾(1871年/しんみようじょう)
アメリカ死傷者3名に対して朝鮮軍350名の死傷者を出しながら、アメリカ側が続く兵を出せないために撤退した
こうした武力衝突がありながらも、かろうじて追い返したことで開国の契機を逃したのです。
アヘンの流入を阻止することは決めても海防意識は形成されず、その後も王朝内の派閥争いが続いていきました。
閔氏と大院君の対立
アロー戦争が終わった3年後の1863年には先王が子のないまま死去し、12歳で高宗が前国王・哲宗の弟の養子の立場から即位すると、実父・大院君が実権を握るようになります。
※英祖・正祖は『李氏朝鮮を全盛期~中興期の治世や思想など詳しく解説』の記事に出てきた国王です。
この時の李氏朝鮮では支配階級身分の両班の派閥争いが常態化しており、大院君はまず初めに老論派の安東金氏を分断し力を削いで協力者を作るところから始め、弱小党派を結集して大院君派を形成していきました。
※老論派とは、かつて勲旧派と対立した士林派が分裂に分裂を重ねて出来た一派です。士林派・勲旧派については『李氏朝鮮を全盛期~中興期の治世や思想など詳しく解説』におおよその経緯が載っています。
なお、安東金氏は23代目国王の王后つながりの縁戚で、勢道政治の代表的な家柄です。
※勢道政治…王の信任を得て政権を独占的に担う政治形態のこと
専横による腐敗撲滅を目指して王権維持に努めて攘夷政策をとった大院君でしたが、高宗の王妃選びの際に様々な考慮をした結果、閔妃を指名すると情勢が変わっていくことになります。
李氏朝鮮、周辺諸国から狙われるように
そんな情勢下、明治維新を終えて近代化を進めていた日本が鎖国を続けていた朝鮮に対して1866年に条約締結を持ちかけますが、大院君の政権下では汽船(異様船)に乗ってきたことを咎めて拒否しました。
これを機に日本で「武力で開国させるべし」と征韓論が高まることとなります。
そんな中で膠着状態の協議を何とかするために、日本側は測量や航路研究を名目に朝鮮近海に軍艦を派遣して李氏朝鮮を挑発しました。
これに対して朝鮮側は江華島の砲台から攻撃、日本は「正当防衛」を大鯨に江華島に砲撃して砲台を破壊し島の城・永宋城を占拠しています。この一連の流れを江華島事件(1875年)と呼び、江華島事件をきっかけに日本側は朝鮮にさらなる圧力を加えることになりました。
一方の朝鮮政権にも動きがありました。江華島事件の二年前、1873年に大院君が失脚し王妃一族・閔氏が政権を掌握しています。
この政権交代により朝鮮の対外政策はだいぶ軟化しますが、それをより進めたのが日本の台湾出兵(1874年)でした。清からの「日本が琉球漂流民殺害事件を口実に台湾に出兵した」との情報を受けて、対日強硬策を改めはじめます。
ところが、この前後に高宗は様々な失敗で社会を混乱させてしまっていました。広く社会に流通していた清銭を停止し、経済が麻痺。高宗批判の裏返しで大院君復権を求める声が上がると、ますます王朝内は混乱していくのでした。
この後、日本だけでなく、そもそもの宗主国・清や、清と締結したアイグン条約…続く北京条約で一気に南下したロシアが朝鮮を巡ってひと悶着も二悶着も起こすことになっていきます。
越南(ベトナム)
中国でフランス人宣教師を殺害したことを口実に始まったアロー戦争(1856-60年)を仕掛けたフランスのナポレオン3世はボナパルティズム(ボナパルト風)と呼ばれる「ナポレオン・ボナパルトに似た政治」を行いました。
全フランス国民の利害対立を利用しつつ、軍と官僚をめいいっぱい使って独裁的な政治体制を敷いていたのです。
彼はアロー戦争以外にも様々な人気取りのための外交政策を取り入れています。
- クリミア戦争(1853-56年)
vs.ロシア - イタリア統一戦争(1859年)
サルデーニャ王国の首相カブールを支援 → vs.オーストリア - メキシコ出兵(1861-67年)
アメリカ南北戦争の最中にメキシコの政権交代に介入 - 普仏戦争(1870年)
vs.プロイセン
これらの他に行ったのが、ベトナムにも直接関係するインドシナ出兵(1858-67年)です。
1802年にベトナム全土を統一した越南国の阮朝(げんちょう/グエンちょう)でもアロー戦争の時の清と同様、アヘン戦争・アロー戦争などヨーロッパ列強によるアジア侵略に対して鎖国含む強硬手段をとりました。その際行なわれたのが
- キリスト教禁止
- スペイン人宣教師2名処刑
- フランス人宣教師2名処刑
です。
ちなみに阮朝は清を宗主国として仰いでいます。ナポレオン3世はそんな阮朝に対して
- キリスト教の布教
- 通商の自由
- 損害賠償
を要求し、スペインと共に艦隊を派遣しました。
インドシナ出兵(1858-62年)
実際にフランスが越南国に侵攻したのはアロー最中の真っ最中。
もともと阮朝のベトナム全土統一をする際に深く携わっていたのがフランス人宣教師のピニョー。その繋がりからフランスはベトナムに興味を擁き、進出を狙うようになっていました。
そんな中での阮朝による強硬手段だったため、ナポレオン3世はインドシナ出兵を開始したのです。
結果、1862年のサイゴン条約で
- キリスト教布教の自由
- 通商の自由
- ダナンの開港
- カンボジアへの自由通行権
- コーチシナ(南ベトナム)を獲得
を決めています。
なお、自由通行権を認められたカンボジアは翌1863年にフランス=カンボジア保護条約の締結によりフランスに保護国化されています。
フランスによる保護国化
フランスがプロイセンと戦った普仏戦争に敗戦し、ナポレオン3世が捕虜となったことがキッカケで第三共和政に移行した後もベトナムは侵略され続けました。
- 1883・84年 第一次・第二次ユエ条約
アンナン(中部ベトナム)/トンキン(北部ベトナム)の保護国化
これに対して元祖宗主国の清が抗議して清仏戦争が勃発。戦いは清の不利ではありませんでしたが、朝鮮で甲申政変が起こり、日本との緊張が高まったことを受けて講和を急ぎます。
こうして天津条約が結ばれ
清はベトナムの宗主権を放棄する
ことが決まったのでした。
以後、ベトナムは南がフランスの直轄領に、中部と北部は保護国となっていったのでした。