明治維新に活躍した人物と幕末からの流れ
よく明治維新と言いますが、ザックリした説明はできるがいつから始まり、いつまでの事をさすか、どんな人物が活躍したのかはよくわからない人が多いはずです。
活躍した人物を一人上げるだけでも、一つの記事になるくらい内容の濃い人物たちが活躍しました。そこで今回は、明治維新について簡単にまとめてみました。
明治維新とは??
鎌倉時代より続いた700年の武士の時代が終わりを告げ、天皇による親政が復活し日本近代化の一連の流れを明治維新と呼ばれています。
その始まりは、ペリーが浦賀に来航したころに始まり、戊辰戦争が終わり五か条の御誓文を発表して、近代国家の基礎作りまでの事を言います。
その後、日本は近代化が進み、世界の列強国へと駆け上がっていくのでした。
明治維新までの簡単な流れ
復習の意味も込めて、ここでは幕末から明治維新までの流れを紹介します。
1853年に浦賀にペリーが来航します。
ペリーは、太平洋における捕鯨の補給地点を確保するために、日本を開国させて日米和親条約を結ばせます。こうして、日本は下田と函館を開港して長年続いた鎖国体制が終わりを告げることになります。
さらに、日本は不平等条約である日米通行通商条約を結ばされることになります。
尊王攘夷運動
この日米通商条約によって外国産の安い商品が輸入され、日本の産業に大打撃を受けました。これに不満を持った武士たちは、外国人を追い払う【攘夷論】を支持するようになっていきます。
さらに、日米通商条約が天皇の承認のない条約だった事で「幕府は天皇をないがしろにしている」と言う人たちが増加。こうした人達によって天皇を敬うのが正義と言う思想である尊王論が出てきます。
この二つの考え方が、世の中にマッチして尊王攘夷運動として新しい運動に繋がっていくのでした。
外国に屈した幕府を潰し、天皇中心の政治を敷いて行こう言う運動です。
薩長同盟
尊王攘夷運動の中心にいたのが、長州藩でした。
しかし、幕府や薩摩藩はこの思想を持っている長州藩を京都から追い出す八月十八日の政変を起こします。これに反発した長州藩は禁門の変で京都御所の蛤御門付近で戦を起こして朝敵とされ、幕府軍から攻めこまられた長州藩は降伏。
そこに外国からの報復として下関戦争が起こり長州藩は譲位不可能と悟ります。そして、長州藩は攘夷運動から倒幕へシフトします。さらに坂本龍馬の活躍により、薩摩藩は褚週販と結ぶことになり、第二次長州征伐で幕府軍が敗れると、その権威は地に落ちていきます。
こうして最終的には、倒幕が行われるようになります。
大政奉還と鳥羽伏見の戦い
長州藩の勝利によって、倒幕の動きはさらに強くなりついに朝廷から倒幕の密勅が出されました。これによって追い込まれた江戸幕府15代将軍・徳川慶喜は、政権を天皇に返す大政奉還を行いました。
慶喜は大政奉還しても結局、政権は徳川に戻ると踏んでいたのですが、薩摩と長州藩は王政復古の大号令を出して武士が政治をできなくする事を決めました。
困った慶喜はついに京都近くの鳥羽・伏見で新政府軍と戦いを仕掛けますが、敗れ朝敵とされてしまいした。
江戸無血開城と明治維新
朝敵・徳川慶喜を倒すために、長州・薩摩藩は江戸に侵攻開始。しかし、100万人都市の江戸を潰したら、外国に攻められるのは確実でした。そこで、勝海舟と山岡鉄舟は新政府軍の西郷隆盛と会談して、江戸城を新政府軍に明け渡す事を決定します。
この江戸城無血開城を実現された事で、慶喜は行き場を失い水戸へついに江戸幕府は滅亡しました。
一方で新政府軍は、旧幕府軍の残党を次々と倒していき、函館で榎本武揚を降伏させ一連の戊辰戦争は終わりを告げるのでした。
その後に新政府は、五か条の御誓文を発表。富国強兵をスローガンにドンドン近代化を図りました。
明治維新の立役者
上記が明治維新の一連の流れです、次に明治維新の立役者を紹介していきたいと思います。
ここでは明治維新を成し遂げた有名な偉人たちをピックアップして紹介して行きたいと思います。
明治天皇
第122代天皇で、倒幕の象徴となった人物。
明治に入ると五か条の御誓文を発表し、日本近代化の象徴的な人物として現在も尊敬されています。
西郷隆盛
大河ドラマ【西郷どん】の主役。
薩摩藩代表として活躍し、明治維新三傑と呼ばれるように。江戸侵攻では、新政府軍のトップとして江戸城無血開城を交渉した人物です。
明治新政府が発足すると、征韓論問題で明治政府を辞めて、最後は西南戦争を引き起こし自害しました。
大久保利通
明治三傑の一人。西郷隆盛の相棒として活躍しました。明治新政府では重鎮となり、殖産興業を指揮して日本を近代化させますが、道半ばで暗殺されることになります。
木戸孝允
明治以前は【桂小五郎】として、長州藩のリーダ的存在だった孝允は、幕府軍【新選組】に命を狙われていました。この時代は、武士は敵に背を向けるのは恥だとされていましたが、桂は【逃げの小五郎】と言われるほど、危険を察知してその場から立ち去っていました。
池田屋事件でも、新選組の襲撃をかわして逃げ延びています。
明治に入ると、木戸孝允に名を変えて様々な政策を打ち出し、西郷・大久保に並ぶ維新三傑に数えられます。
高杉晋作
松下村塾で学んだ一人で長州藩の尊王攘夷運動を指揮していました。
そして身分関係なく集めて作られた軍隊である奇兵隊を作り、第二次長州征伐で幕府軍に勝利しました。この戦いで、彼が九州・小倉城を攻め落とさなければ、長州藩は幕府に恭順する家臣が支配する藩で終了していたかもしれません。
勿論、その後の明治維新なかったかもしれません。
岩倉具視
公武合体派の公家でしたが、倒幕へと変わり朝廷における倒幕運動を指揮していました。
明治に入ると、岩倉使節団のトップとして欧米各地を訪問し、日本の近代化に一役買っています。
坂本龍馬
日本初の亀山社中と呼ばれる貿易会社を作り薩長同盟の立役者として活躍。しかし、大政奉還直後に近江事件にて暗殺されました。
徳川慶喜
日本の近代化の立役者としてはその功績は素晴らしいですが、幕府側の視点で行けば滅亡に追い込んだ無能な将軍として賛否両論のある人物。明治政府発足後は静岡に移り住み残りの人生を謳歌したと言います。
明治維新後の日本は、日本の国を西欧諸国に負けな程の強い国にすることをスローガンに様々な政策を打ち出していきました。そのために必要だったのが、不平等条約の改正でした。
不平等条約改正をするために明治政府は、富国強兵を打ち出し経済力・軍隊強化をする努力を続けていくのでした。
そして、それが報われるのが日露戦争勝利後の1911年の事でした。