李氏朝鮮を全盛期~中興期の治世や思想など詳しく解説<北朝鮮・韓国各国史>
1392年、李成桂によって建国した李氏朝鮮。約500年もの長期政権を築く中で良い時も悪い時もありました。
前回の朝鮮王朝の記事を書いた時には太宗(テジョン/在位1400-1418年)が王権を強化し、世宗(セジョン/在位1418-1450年)という全盛期を築いた国王がいたことをお話ししました。
ここでは世宗以降、どんな統治が行われたのか、それ以降の統治や思想をまとめていきます。
なお、列強各国から狙われるようになる19世紀は別の記事で書く予定です。
※教科書には載っていませんが、次回以降触れる予定の清の敗北による周辺諸国への影響や壬午軍乱をまとめる際に理解度が深くなると考えて載せています。
世宗(在位1418-1450年)による統治
世宗の父・太宗の代は、まだ前王朝・高麗から李氏朝鮮へ移行する際の猛者たちが生きていた時代です。太宗はそうした猛者たちを即位後に相手にしなければならなかったため、世子時代から軍事力を掌握して口出しできないように備えてから即位しました。
そんな太宗が最初に世子として冊立していたのは長男でしたが、彼の自由奔放さが問題視され、突如、廃位。優秀な三男を世子と決めると、すぐ(2か月後)に譲位し世宗が誕生しました。
世子の長男を突然廃位させて政権から遠ざけた件など強引な手法が多かったこともあって、太宗は軍事力を保持して睨みを利かせたまま世宗の治世に移行しています。
当然ながら政治の実権も太宗が握っており、世宗が親政を行うようになったのは即位から4年後の1422年。父が亡くなってからでした。
世宗による親政
世宗の政治で行ったことといえば
- 武より文を重んじる儒教的な王道政治
→若くて優秀な人材を学士に登用、学問・研究に専念させる - 自然科学分野の発展
・農学書・医学書の刊行
・天球儀/雨量計/日時計/水時計などの 科学機器の開発 - 国防と国土拡張
・倭寇の根拠地となっていた対馬を攻撃
(対馬島遠征・己亥東征/応永の外寇、この時期はまだ太宗が存命中)
・朝鮮半島に入ってくる女真族の排除
(明確な国境がないため、六鎮(要塞)を設置)
などがあげられます。
文を重んじた具体例として民族独自の文字ハングル(訓民正音)を研究し制定した件はよく知られています。中国の漢字をうまく発音できない者のために作ったそうです。
とはいえ、当時は漢字以外の文字を持つことが「蛮夷の仕業」と考える風潮があり一般的には定着しませんでした。
※世宗はその反対を押し切って普及に努めて訓民正音を使用した書籍を残していたため、民族意識が高揚した後世に普及しました。
一方で、李氏朝鮮時代の身分階級のうち良民(両班/中人/常民)と呼ばれる身分の男と婢(賤民)の間に出来た子を奴婢とする「従母為賤法」を制定しており、これを機に奴婢がどんどん増えていくことになります。
※世宗の時代には、末席の官僚でさえ100人以上の奴婢を有していたそうです
世宗の健康問題と制度の変更
上記のような政策を行った世宗でしたが、食べることが大好きなのに運動嫌いということで糖尿病を患っていました。30代で既に眼病を発症しています。
そのため、1436年当時23歳の世子を摂政に据えて自らは政治の一線から引こうとしますが臣下たちが反対。
父の代で王権強化のために整備した「国王が六曹から上がってくる案件に目を通し決済する」制度・六曹直啓制から国王と六曹の間に議政府が仲介する議政府署事制に改めて国王の業務量を大幅に減らしました。
議政府の宰相・領議政(総理)、左議政(副総理)、右議政(副総理)が審議し、結論を出して国王が最終決済する形にしたのです。
ただし、実質的に国事を行うのが議政府になったことで王権は大幅に縮小することになります。
それでも健康状態の悪化から決済すら厳しくなり、世子の李珦(いひょん)に国王代理を務めさせますが、李珦もまた過労で体調を悪化させていきました。そこで1448年、李珦の8歳の息子を世孫に冊立。側近に将来を託したのです。
ところが、ここまで御前立てをしても残念ながら上手くいきませんでした。
世祖の即位(1455-1468年)
世宗も後を継いだ李珦(文宗)もすぐに亡くなり、幼い国王が後を継ぐと状況が一変しました。新たに国王と六曹の間に入った領議政と左議政が実権を握ります。
王位を狙っていた李珦の弟・首陽大君は、この王権の弱体化と議政府の権力増加に対して危機感を擁くと幼い国王を輔弼する名目で接近。権力奪取に意欲を見せた反面、領議政と左議政は首陽大君の弟を担いで牽制し、政治闘争が発展していきました。
クーデター
最終的に首陽大君が議政府の高官たちを殺害し、武力で排除。首陽大君の行動は断罪されても不思議じゃない暴挙でしたが、統率力を持たない当時の国王にはどうすることもできませんでした。
この一連の宮廷クーデターは「癸酉靖難」と呼ばれています。
首陽大君が領議政の地位に就き、吏曹と兵曹という人事と軍事を掌る長官の地位も兼任するなど要職につくことになりますが、その際、強い力を持っていた北方の人物を解任しています。
場所柄、女真族とのつながりの強い人物でもあったため彼らの後援を得て反乱を計画しますが、直前に襲撃され計画は潰されたのです。
統治
結局、幼い国王は叔父にあたる首陽大君に譲位し、首陽大君が世祖として7代目国王に即位しています。
この国王交代劇は義や礼を重視する儒家たちから大きな反感を買って度々クーデター未遂が行われましたが、世祖は太宗時代の六曹直啓制に戻して王権強化に努めました。朝鮮王朝の基本法典「経国大典」を編纂させたのも世祖です。
そんな世祖もライ病(現在でいうハンセン病)にかかって明からの使者に応接することも難しくなったため、世祖は息子を世子とするも即位後すぐに他界して幼君が国王になりました。
全盛期以降の李氏朝鮮事情
幼君の即位により政務を輔弼する必要が出てきますが、功臣に任せれば易姓革命が危惧されます。そこで、王室関係者で人徳があり、なおかつ王位に絶対に就けない歴代王妃たちが矢面に立つことに。
ただし、李氏朝鮮は儒教が国教。女性が政治に口出ししてはいけないという理念が強く働いたため、簾によって空間を分けたうえで国事を行いました。この政治を垂簾聴政(すいれんちょうせい)と呼んでいます。
垂簾聴政が終わった1476年までに権臣たちを牽制するため新進の儒者官僚を多数登用したことで少しずつ力関係が変化していくことになるのです。
士林派と勲旧派の対立
かつての朝鮮王朝では、中央の官僚たちは地方の士族と手を結ぶことで支配力を保っていましたが、やがて中央の官僚が特権階級化して漢城(首都、のちのソウル)に住むことになると地方との関係が薄くなりました。代々漢城に住み、ほぼ世襲制のような形で官僚が受け継がれています。
彼らのような古くから王朝に貢献していた…特に癸酉靖難で世祖の即位に貢献して権力を独占するようになった派閥は勲旧派とよばれるようになりました。
一方で、垂簾聴政が行われていた頃に中央政界に進出してきた知識人官僚たちがいます。彼らは地方で主導権を握り中央に進出してきた人たちで、士林派と呼ばれました。
※なお、明や歴代の中国王朝と同様に李氏朝鮮でも科挙による官僚登用がなされますが、事実上両班という家柄に限られています。
こうした両班の中で派閥が出来るようになり、16世紀には朱子学の理念に基づく士林派が政権の座に就いたのをきっかけに学派争いに加えて政治的な対立が結びつき、さらに闘争が激化したのです。
李氏朝鮮の思想
朱子学の話が出てきたので、ちょっとだけ当時の思想についてお話していきましょう。16世紀以降の話も出てくるのでご了承ください。
朝鮮半島の前王朝・高麗を否定するために高麗の国教・仏教を否定し、儒教特に朱子学が国教化。明でも朱子学は国学として大成していますが、本国以上に李氏朝鮮で根付いていました。
その儒教的な価値観から発展した選民思想に、漢民族に昔から根付いていた世界観・中華思想(自国が世界の中心であるという思想)「漢民族が周辺異民族に優越する」という考え方があります。
時間と共に中華思想も形を変え、漢代以降は冊封体制という国際関係に組み込まれた他、契丹や女真、モンゴルなどの北方の異民族も中華思想を持つようになりました。非漢民族でも「中国の民」と考えられるようになってていきます。
一方の李氏朝鮮では、明が倒れた後の1637年に侵攻されて清に服属するのですが、清が漢民族ではなく女真族の建国した国であることを背景に「朝鮮のみが中国古来の伝統を継承している小中華である」という考え方を持ちはじめました【小中華思想】。
李氏朝鮮は清を宗主国とする立場に甘んじましたが、儒者たちは清があくまで「夷狄」の立てた王朝であり、高度な文化を有しているのは自分たちだという自負を持っていたのです。
こうした背景から清は「夷狄」、日本は「倭夷」、西洋は「洋夷」として鎖国攘夷の思想に結びつくことになります。
豊臣秀吉による侵略と明の滅亡
士林派と勲旧派の対立が激しくなった16世紀末。士林派内部でも派閥争いが起こって分党し、様々な派閥が出来上がりつつありました。
そんな折、日本から豊臣秀吉により侵略(壬辰・丁酉の倭乱/1592-93年、1597-98年)され、明も力を失って金、のちに清が建国するという一大変化が起こります。李氏朝鮮はその清に侵攻(丁卯胡乱/丙子胡乱)されて従属しながら、小中華思想を持つという歪な意識を持つようになっていました。
こうした状況の変化があっても、両班層では有力氏族が対立する党争が相変わらず続いていたようです。
18世紀に入ると、王権強化に努めようとする国王・英祖(在位1724-76年)が中興の名君として名を馳せ、いったん立て直しを図ったのですが...
勢道政治(せいどうせいじ)と混乱の始まり
英祖の孫、正祖(チョンジョ/在位1776-1800年)の代になると、勢道政治と呼ばれる政治形態に代わっていきました。
王の信任を得た人物や集団が政権を独占的に担うようになったのです。もともとは士林派の「有能な人物が王を補佐し、世の中を教化する」という思想を基礎に出来た政治形態のようです。
また、天主教(カトリック)が広まったのも正祖の治世下でした。度々、大弾圧を受けることになりました。
正祖の子・順祖以降は諸事情や幼君が続いて垂簾聴政が行われると、外戚や寵臣が政権を握り私物化するという大混乱に見舞われました。政治腐敗が深刻化し、国家財政はますます悪化。
順祖の次代国王は23歳とこのないまま若くして亡くなったため、王位簒奪の危険因子として弾圧を受け、江華島に流されていた正祖の異母弟の家系から哲宗を迎え即位させました。
が、一切教育を受けさせてもらえなかったため、垂簾聴政が行われることになります。
社会不安も増大し、謀反事件が複数起きる危機的状況の中で「清がアヘン戦争に敗れた」情報を手に入れますが、この段階では戦争が起こった場所も清の状況も詳しくは仕入れることが出来ていなかったようです。
あまり海防意識の形成に繋がらないまま、世界情勢の変化が進んでいくことになります。
さらに朝鮮王朝にとってまずい事態が起こります。この社会不安、政治腐敗、外圧といった度重なる世の乱れに乗じて新興宗教・東学が出現し、人々は救いを求めるようになったのでした。