中国・東アジア

朝鮮王朝(李朝)とは?成立までの流れを簡単に解説<朝鮮・韓国各国史>

歴ブロ
李成桂

1392年、李成桂(イ・ソンゲ)によって始まった518年もの長期政権を築いた王朝が李朝です。かつて日本では李氏朝鮮とも呼ばれていました。

ここでは、李朝を興した李成桂がどんな立場の人物だったのか、どうやって成立していったのかなど詳しいけど簡単にまとめていこうと思います。

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李朝が起こる前の周辺諸国の状況を簡単に

朝鮮王朝(李朝)ができる前の朝鮮半島には高麗という国が存在していましたが、13世紀にモンゴルが台頭し、現中国の辺りでができた後に元に服属しています。

この元も14世紀に入って衰退。中央での権力闘争や腐敗、地方での重税などによる農民たちへの搾取が続いたことで紅巾の乱(1351-66年)が発生しました。

※紅巾の乱以前から紅巾の乱を主導した白蓮教徒たちが小規模な反乱を起こしていたという話もあります

さらに、似たような時期にお隣の日本でも鎌倉幕府が滅亡し、1336年には室町時代が始まりました。それとほぼ同時進行で日本では南北朝時代という混乱期も迎えています。この政治的混乱により統制が効きにくく、倭寇朝鮮半島や中国の沿岸方面で活動を活発化しはじめました。

この紅巾賊と倭寇が朝鮮半島にも入り込み、高麗は衰退していったのです。

李成桂による李朝の成立を詳しく

李成桂高麗の有力武官の一人で

  • 倭寇の侵入を撃退したこと
  • 占領された高麗の首都・開京(開城)で紅巾軍を破ったこと(1363年)

で名声を高めた人物です。

当時の高麗情勢

元が紅巾の乱や他の反乱で弱っていく中、中国では紅巾党から朱元璋が台頭し始めます。この朱元璋が他の反乱を起こした者たちを倒して華南を統一し、を建国(1368年)。朱元璋は洪武帝として即位しました。

建国後、洪武帝はすぐに北伐を開始。元の都・大都に迫ります。

朝鮮半島にあった王朝の高麗は明に攻められているに服属していましたから「元についていくか?」「明との関係を新たに築くか?」と親元派親明派に二分することになりました。

李成桂と朝鮮王朝の成立

李成桂は反元親明の高麗の第31代国王・恭愍王(きょうびんおう)治世下に元討伐(や倭寇討伐)で名を挙げるようになった親明王朝派の一人でした。

その親明政策を行っていた恭愍王が親元派の宦官により殺害されて恭愍王の息子が即位すると、高麗朝廷内が親元派主流となっていきました。李成桂にも明の拠点への攻撃の命が下されます。

李成桂は反対するも出征せざるを得なくなりますが、渡らなければならない川(鴨緑江・おうりょくこう)が季節的な要因で増水中。

多くの兵が流されるのを見た李成桂は全軍撤退を決めて開京に戻ると、そのまま親元政権を倒す軍事クーデター・威化島回軍(いかとうかいぐん)と呼ばれる政変を起こして親明派の国王(恭愍王の孫)を擁立しました。

ところが、この新しい王を「父親が32代国王ではなく、寵臣の子であって正当な王位継承ではない」として殺害。李成桂は再度、別の王・恭譲王を擁立し即位させ、親明政策に転換したのです。

この恭譲王こそが高麗最後の王でした。

李成桂は政治改革が必要と考えていた朱子学者たちと手を結び、1392年に恭譲王に王位を禅譲させると、漢城(現ソウル)を首都に置いた朝鮮王朝を建国しています。

※その後、李成桂は最後の王・恭譲王や彼の子供たちを殺害して後顧の憂いを断っています。

李氏朝鮮の特徴とは?

明との関係を重視していた李成桂は自身を『権知高麗国事(高麗王代理)』として明王朝に使者を送りました。この時に明から新たな国号『朝鮮』を下賜され、李成桂は『権知朝鮮国事(朝鮮王代理)』と認められています。

国内向けには国王そのものでしたが、対外的には『代理』どまりだったんですね。

易姓革命によって李朝は成立

小タイトルに突然出てきた『易姓革命』ですが、もとは儒教の思想が基盤となって生まれた考え方です。

儒教が生まれたのは中国の春秋戦国時代という統一王朝ができる前の頃のお話です。儒教の祖である孔子は

君主は「徳」をもって良い政治を行い、家臣は「礼」を行動によって示すことを重視

一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書より SB Creative 山崎圭一著

したと言います。

その思想をベースに、中国では「天命を受けた天子が国を統治しても徳を失い、国運が尽きれば、新たな徳を持った人物が天子になって天下を統治するようになりますよ」という王朝交代を正当化する理論『易姓革命』という考え方が出来上がっていたのです。

れきぶろ
れきぶろ

易姓革命には前王朝から王位を譲り受ける形の「禅譲前王朝を武力で倒す形の「放伐という二つの形式があるとされています。

そのうち、より良い継承方法が禅譲でした。

高麗王朝の中には

  • これまでの社会秩序を壊すことや大規模な土地制度改革を進めるのに反対する“穏健改革派
  • 「既に高麗の政治体制は腐敗しきっているから新しい国を作ろう!」とする『易姓革命』を良しとする“急進改革派

に分かれていますが、李成桂は後者に説得されて禅譲の形をとったうえで新たな国を建国したのです。

建国にそんな経緯があったためなのか、高麗の国教であった仏教を否定し儒教を国教化しています。

れきぶろ
れきぶろ

対外的には認められていなかった王朝だったので、国内だけでも上下関係をはっきりさせられる儒教を取り入れて「国王」の権威を高めようとしたのかもしれませんね。

後継者争いの勃発

古今東西、国が長く続くかどうかは二代目、三代目の出来が大きく左右します。李成桂にも先妻の子と後妻の子計8人の息子がおり、だれを後継者にするか悩み続けていました。

第一王子の乱

臣下の多くは既に父・李成桂の片腕として貢献していた五男の李芳遠(イ・バンウォン)がふさわしいと考えており、李芳遠自身も自分が後継者だろうと自覚していました。

ところが…

これまたよく聞く話ですが、李成桂は寵愛した二番目の妻との間にできた末っ子を一番可愛がっていたそうです。後継者をまだ幼い末っ子にしようと考えはじめます。

高麗時代から李成桂を支え、李朝となってからは政治の権限を一手に担っていた鄭道伝(チョン・ドジョン)も末っ子を推したため、最終的には末っ子を跡取りにすることを決めてしまいました。

儒教を推した国だけに兄の誰かが即位するならともかく、異母弟が即位するなんてやり切れません。

李芳遠第一王子の乱を起こし、跡継ぎ候補の末っ子と共に後妻の弟、そして末っ子推しの鄭道伝を殺害しました。

事件にショックを受けた李成桂は譲位、隠居すると、事件を主導した李芳遠も周囲の反発を考慮して王位を辞退。李芳遠の推す兄で李成桂の次男(長男は早世)定宗が第二代国王に就いたのでした。

なお、定宗には側室との間に生まれた庶子は何人もいましたが、王妃との間に子がいませんでした。この点も李芳遠にとって好都合だったようです。

第二王子の乱

第一王子の乱以降、王位にはつきませんでしたが、乱の首謀者である李芳遠(李成桂の五男)が国の権力の多くを握っていました。三男は李芳遠陣営についていましたし、李芳遠に対抗できるのはすぐ上の兄(李成桂の四男)くらいしかいなくなっていました。

ところが、四男は王権に対する野望が強かったと言われ、私兵の廃止や論功行賞をめぐって李芳遠と対立。第二王子の乱を起こすと、李芳遠に並ぶだけの力を持つ者はいなくなります。

次第に命の危機を持つようになった定宗は李芳遠に王位を譲り、第一線から退いたのでした。

対外的に認められるようになったのは三代目から

李芳遠が太宗として王位につくと、

  • 王族の私兵の廃止と国の軍備の強化
  • 国の制度を整備

して王権強化をはかりました。

また、李芳遠の代になってようやく正式に李朝が明の皇帝から認められました。冊封体制下に入ったことで対外的にも国王と認められたのです。第三代明の皇帝・永楽帝の時代のことでした。

冊封とは

君主が臣下に対して王や侯などの爵位名号を与えること。
諸外国の君主たちが中国王朝から自治を認めてもらうといった形式の関係です。

冊封国は毎年、朝貢(朝廷に貢物を送ること)を行うことや中国王朝の元号や暦を使う義務を負うほか、影響力の強い国だと宗主国により出兵命令が出されることもありました。

逆に冊封国は他国から攻撃を受けた場合に宗主国へ支援を求めることや、中国から贈られる朝貢の返礼品を受け取ることがメリットとなっています。

まだ存命中で息子を憎み引きこもっていた李成桂でしたが、太宗として息子の李芳遠が永楽帝から朝鮮国王に封じられたのと同年に漢城に戻ったようです。

こうして太宗の代で王権を強化し基盤を整えた李朝は、太宗の次代国王で朝鮮王朝第一の名君と名高い世宗(セジョン/1418-1450年)の下でさらに飛躍し、長期政権を築くことができたのでした。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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