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【清州会議】で織田家の後継者は三法師に選ばれたが、その後はどうなったのか??

歴ブロ
出典:Wikipedia 織田秀信

本能寺の変前に信長は嫡男・信忠に家督を譲っていました。

しかし、織田信長と信忠は明智光秀によって討たれてしまいます。

織田信長と信忠が同時に居なくなったことで、織田家の後継者を決めるために清州城で宿老・柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興による【清須会議】が行なわれました。

この時、候補にいたのが、次男・信雄と三男・信孝と信忠の嫡男・三法師。

この会議で柴田勝家は織田信長の三男・信孝を推し、羽柴秀吉は織田信忠の嫡男・三法師を推します。様々な駆け引きがあったようですが会議の結果、信孝が後見人となり、三法師が織田家の後継者として選ばれました。

その後の三法師と織田家は、秀吉が天下統治の過程で色々と振り回されて行くことになります。

そこで今回は、清須会議後の三法師の足取りを追っていきましょう。

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清州会議で織田家の後継者となる三法師

羽柴秀吉の推挙で3歳にして織田家の後継者となった三法師。

織田家の遺領近江・坂田郡と安土城を相続し、代官として堀秀政がそばで仕える事になりました。ちなみに、次男・織田信雄は尾張国、三男・信孝は美濃国をそれぞれ相続。四男で秀吉の養子だった羽柴秀勝は、明智光秀の旧領・丹波を相続しました。

三法師は相続後に安土城に入城する予定でしたが、後見人の織田信孝三法師を岐阜に抱え込んでしまい、出てこなかったので秀吉は岐阜城を包囲。信孝は直ぐに降伏すると、安土に入り今度は次男・信雄が三法師の後見人として織田家の家督代行をします。

その後、賤ケ岳の戦いの時に信孝は柴田勝家に呼応し岐阜から秀吉を攻めるが、勝家が敗れると降伏するが、兄・信雄の意向で自害させられています。

13歳で岐阜城の大名に!?

羽柴秀吉と織田信雄の対立が元で、秀吉VS信雄・家康が戦った小牧・長久手の戦いが起こると、幼い三法師は丹羽長秀と秀吉の元をはしごします。1584年11月に秀吉と信雄の和睦が成立すると、家康は手を引き戦いが終了。

秀吉は、織田家の後継者を正式に織田信雄を決めて、三法師は丹羽長秀の元へ...

1588年に岐阜で三法師は、9歳で元服し三郎秀信※と名乗り、従四位下・侍従の位を賜ります。

※以降、織田秀信か秀信と書きます。

1590年の小田原征伐では、わずか11歳で参加したとも言われていますが、その信ぴょう性は低いそうです。大した所領を持っていない11歳が参加するとは考えにくいとのことです。

織田秀信(三法師)に転機が訪れるのが13歳の時で、秀吉の養子であり兄弟の豊臣秀勝が亡くなると、秀勝の居城・岐阜を相続し13万石以上の城持ち大名になります。

清州会議以降、秀吉の都合よく利用されて来た秀信ですが、わずか13歳で大名にまで出世を果たしました。これを見ると、利用はされていますが結構秀吉から優遇されているようにも感じます。

豊臣政権下では好待遇を受けながらキリスト教へ…

1593年の文禄の役では豊臣秀勝の後釜として渡航して出兵しました。

なれないと土地で体調を崩す者も多く死者も出ましたが、秀信は無事に帰国しています。

その後は、秀吉から羽柴姓を賜り、従三位・中納言になり、豊臣政権下でかなりの好待遇を受けています。

この頃から、秀信はキリスト教に入信していました。

当時、秀吉によるバテレン追放令を発していた事で公に活動する事は控え、キリシタンという事も隠していたとも言います。しかし、秀吉が亡くなると、積極的にキリスト教の信仰活動を開始。

岐阜城下に教会や司祭館・養生所などを建設して、尾張や美濃には信者が増えていきました。家臣達の大判が信者であったと当時の司祭たちによって報告されています。

一方で、寺院や寺社の建立にも力を入れ、秀信が岐阜城主になった時代は、一揆や争いがほとんど無かったとされています。

関ヶ原の戦いでは西軍に

1600年に秀信は家康の会津征伐に従軍する予定でしたが、軍備が間に合わず後れをとってしまいます。そうしているうちに、石田三成が佐和山城から挙兵し関ヶ原の戦いが始まります。

秀信は、三成から『勝った暁には美濃・尾張の二か国を与える』と誘われ、西軍に味方しました。秀信が西軍に付いたことで美濃の国衆の大半が西軍へ付く中、家老たちは家康に付くように説得しますが却下します。

秀信軍は美濃を侵攻してくる東軍を迎え撃ちますが、圧倒的な兵力差に敗北。秀信は岐阜城へ退却します。こうして、関ヶ原の前哨戦は、東軍が勝利しました。

岐阜城に籠城する秀信軍は、大垣と犬山城に援軍を要請しますが、犬山城は既に徳川家と内通しており、大垣城からの援軍は出発したのですが東軍と激突し敗走しています。こうして、東軍は本丸以外を落とし包囲をしました。

秀信は抵抗をしますが圧倒的な兵力差に勝てるわけもなく自害を決意しますが、池田輝政と家臣達に説得され降伏。こうして、岐阜城は陥落しました。

池田輝政の父・恒興は、信長と乳兄弟で輝政も秀信には思う所があったのかもしれませんね。

高野山で出家するも追放

東軍勝利で関ヶ原の戦いは幕を閉じ、秀信の処分が言い渡される時がきました。

そんな時、福島正則は『自分の武功はいらないから秀信を助けてやってくれ』と嘆願。こうして秀信は助命され、高野山へ追放される事になりました。しかし、高野山といえば祖父・信長が焼き討ちを行なった場所。高野山側は、信長の孫・秀信を当初入山を受け入れず、さんざん待たせた様です。

入山後も、僧たちから迫害を受け、1605年に下山したと言います。

その後は、どこかの村に住み、そこの娘と結婚して子供をもうけたという話もありますが、26歳の若さでこの世を去ったと言われています。

清州会議以降は、ほとんど名前が出てこない織田秀信ですが、その後は13歳で大名となったりと豊臣政権では好待遇でした。順風満帆に行くかと思えば天下分け目の決断で、最大の失敗をしてしまいました。

『もし東軍についていれば…』と思ってしまいますが、織田家にとって由緒ある地【美濃と尾張】に思う所があったのかもしれません。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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