13人の合議制の始まりが御家人同士の内乱の始まりだった
カリスマである源頼朝の死後、2代目鎌倉殿となったのが源頼家でした。
頼家は、父・頼朝と同じように専制的な政治を行おうとしましたが、その若さからか政治能力に不安を感じていた有力御家人たちは、それを良しとしませんでした。
そこで、頼家が鎌倉殿となってわずか3か月で直接政治の機会を奪われ、13人の有力御家人が合議によって訴訟を行う事が決められました。
御家人たちは、頼家の生母でもある北条政子にも根回しをし、13人の合議制を実現させました。
合議衆に名を連ねた13人は他の記事で取り上げているので省略しますが、補足をするとこの時の北条義時は【北条】を名乗っておらず【江間】を名乗っていたそうです。
前置きが長くなりましたが、今回は頼朝死後の幕府内の御家人による権力争いについて書いて行きたいと思います。話が長くなるので、この記事では北条時政が失脚するまでを書きたいと思います。
13人の合議制が権力争いのスタートに!!
合議制が始まってわずか4か月後に、合議衆の安達盛長の子・景盛が頼家によって暗殺されかけると言う事件が起こります。
事の経緯は、頼家が景盛の妾に手を出したことから始まります。
そのうえで頼家は、妾の件で恨みを抱いている景盛が謀反の疑いを企てているとの讒言※を信じ込み討伐命令を出すのでした。この讒言もきっと景時が絡んでいるに違いありません。
実際に兵が集められ、一色触発の事態になるのですが、北条政子が安達邸に乗り込み頼家を制止した事で、この事件は未遂に終わります。
この事から、北条政子は徐々に政治の世界に足を踏み入れるようになっていくのでした。
また、この事件以降、安達氏と北条氏はより親密な関係となるのでした。
この出来事をキッカケに、将軍家ならびに御家人の間における壮大な権力争いの始まりでした。安達景盛事件からわずか2か月で今度は、御家人同士の争いが始まります。
この時まだ、13人の合議制が始まって1年もたっていませんでした…
梶原景時が失脚し、京へ逃れるも…
かつての石橋山の戦いで、逃げ隠れていた頼朝の危機を救った梶原景時も合議衆の一人として名を連ねていました。しかし、彼は源義経の事を頼朝に讒言した事が知られており御家人たちの評判は良くありませんでした。
その景時が、頼朝の乳母子である結城朝光に謀反の疑いがあると、頼家に対してまた讒言をしました。この事を北条時政の娘・阿波局から聞かされた朝光は、他の御家人に相談。
すると66人の有力御家人が協力して梶原景時の弾劾状を連名でしたためました。
この中には、長老・千葉常胤、三浦義澄を始め、和田義盛や比企能員らも名を連ねていた事から、弾劾状を受け取った頼家も無視できませんでした。その結果、梶原景時は鎌倉から追放される事になりました。
こうして合議制スタートから1年も待たずに一人脱落するのでした。
鎌倉から追放された梶原景時とその一族は、名誉回復のために京都へ向かう事に…
甲斐の武田氏を次期将軍として幕府に反乱を起こそうとしたのですが、道中の駿河国で地元の武士らに誅殺されてしまいます。1200年の事でした。
ちなみに駿河国は、北条時政の領地だったという事を付け加えておきます。
頼家将軍最初の仕事は、粛清だった!!
1202年に頼家は、正式に征夷大将軍に任命されました。
新将軍・頼家が就任間もなく行ったのが、叔父である阿野全成の粛清でした。大河ドラマを見ている人は全成の方がシックリくるかもしれません。
源義経の同母兄で頼朝の異母兄弟であった全成は、北条政子の妹・阿波局と婚姻していました。この阿波局こそ、梶原景時が失脚するきっかけを作った人物でもあります。
梶原景時を信頼していた頼家は、景時失脚の原因を作った阿波局に恨みを持ち捕らえようとしますが、母・政子がそれを許しませんでした。その結果、怒りの矛先が夫である阿野全成に向けられ粛清されたのです。
この阿波局は千幡【実朝】の乳母でもあり、この事件を機に実朝を擁する北条時政と将軍・頼家との確執が生まれていくのでした。
比企氏の失脚と北条氏の台頭
全成粛清の2か月後に、源頼家が病になりました。(全成の呪いかもしれません笑)
その病状は深刻で、頼家は遺産を弟・千幡(実朝)と実子・一幡に分割しました。
千幡(実朝)の後見人は北条時政、一幡は比企能員でした。
こうして、北条氏と比企氏の対立構造が鮮明になっていきます。
吾妻鑑によれば、この遺産分割に比企能員が不満を持ち、密かに若狭局を通じて頼家に北条時政追討を働きかけたのです。頼家はその話に乗り、能員を自室に呼び、時政追討の計画を練りました。
しかし、その話を北条政子が聞きつけ、それを父・時政に伝えられることに…
命の危機を知った北条時政は、先手を打ち仏事を名目にして比企能員を自邸に呼び込み謀殺したのです。そして、その日のうちに、比企一族が籠る御所を北条義時が襲撃しました。
逃げ場を失った比企一族は、自害。屋敷は焼け、その焼け跡から一幡らの死を確認されました。
と言うのが、吾妻鑑の内容で、これには少し脚色されているようで、別の史料では若狭局と一幡は、辛くも脱出したが北条義時の家臣に見つかり殺されたとも言われています。
この比企の乱自体も、北条時政排除を企む比企能員に対する北条氏側の正当防衛のように書かれていますが、実際には北条時政側が比企氏を殲滅させるために起こした謀略だと言われています。
※吾妻鑑は、幕府の権力者である北条氏を美化する傾向にあります。大切なので何回でも言います。
比企の乱の数日後、重体と言われていた頼家が意識を取り戻します。
しかし、その時には妻も子も殺されて、怒り心頭の頼家は、和田義盛と仁田忠常に北条時政誅殺を命じますが、和田義盛は熟慮の末にこの事を時政に報告しました。
これにより、北条時政暗殺は未遂に終わり、逆に頼家は母・政子の命により出家し、伊豆の修善寺に流されることになります。
将軍職は、3代目・実朝が継ぎ、その後見人である北条時政が、大江広元ともに政所別当に就任し、幕府の実権を握ることに成功しました。しかし、時政と後妻・牧の方の権力暴走を懸念した北条政子は、将軍・実朝を時政の館から予め引き取っていました。
北条時政の暴走と畠山氏の最後
御家人による粛清はさらに続きます。
北条時政の権力が増大する中、次の犠牲者は畠山重忠・重保親子でした。
キッカケは、宴席での畠山重保と平賀朝雅の口論がきっかけでした。その場は、おさまりましたが、やがて平賀が妻の母・牧の方に訴え、それが時政に伝わりました。
すると、畠山重忠・重保に謀反の疑いがありとして、時政は息子・義時に討伐の命令を下しました。しかし、義時には重忠が謀反とは信じられず、ましてや重忠は時政の娘婿、そして義時にとっては義兄弟であり、よき友でもあったのです。
しかし、父・時政は許さず、やがて畠山重保は、由比ガ浜に誘い出され誅殺されました。
一方で、重忠も鎌倉へと呼び出され、義時が疑念を抱きながらも大軍を率いていました。
両軍は、武蔵国二俣川で対峙するが、重忠が率いていたのはわずか130騎あまりで、本気で謀反を起こそうとしていたのなら、こんな少数で鎌倉に入ろうとしないだろうと悟った義時でしたが時すでに遅し。そう、これは北条時政の謀った事でした。
合戦が始まり、さすがの名将も多勢に無勢では相手にならず、その場で討ち取られてしまいました。頼家の死去した翌年の1205年の事でした。
北条時政にとうとうあの人が反旗を翻す
畠山氏に対しての露骨な陰謀は、義時はじめ多くの御家人の反感を買いました。
畠山重忠が亡くなった次の日に、北条時政の片棒を担いだ稲毛重成が誅殺されました。
この畠山氏の事件をきっかけに、これまで、頼朝や父・時政の命に忠実に仕事をしてきた北条義時の中で大きな変化が生まれてきました。
この時、義時は43歳。
それから間もなく、義時の耳にあるうわさが飛び込んできました。
北条時政と牧の方の二人が、娘婿である平賀朝雅を次の鎌倉殿にしようと3代目・実朝を暗殺を画策していると言うのです。
たしかに平賀は源氏の血を引く名門で、三日平氏の乱平定などで功績も上げていました。とはいえ、彼は無実の畠山親子を殺害に至らしめた人物。このような、謀り事はもはや許すことが出来ないと悟った義時は、姉・政子と共に実朝を保護する事にしました。
こうなると、畠山事件で信頼を失っていた時政らに味方する御家人はいませんでした。窮地に追い込まれた時政は出家して伊豆へと流されました。畠山親子が亡くなったわずか2か月後の出来事でした。
さらに、平賀朝雅も京都の御家人たちに誅殺されました。
時政を排除した北条義時は、政所別当に就任。姉・政子と共に将軍・実朝を後見し、実質的な権力者の地位に座ることになりました。
その後の時政は、伊豆に流されてから二度と復権する事はなく、この地で天寿を全うして68歳で失脚してから78歳まで隠居生活を送っていたようです。一方で牧の方は、しばらく幽閉されていたようですが、伊豆の地でおとなしくしていたようではなく、京都へ戻り贅沢な暮らしをしていたとも言われています。
次回は、北条時政が失脚してからの、義時による粛清劇を書いていきたいと思います。