水野忠邦の天保の改革
江戸の三大改革の最後は水野忠邦がおこなった天保の改革について書いていきたいと思います。
天保の飢饉や大塩平八郎の乱、さらに追い打ちをかけるかのように、日本近海に出現した外国船。そんな社会情勢の不安が募っていく中で将軍家斉が亡くなり、水野忠邦が老中になります。
この様な社会情勢で幕府の政治は動揺します。また、慢性的な財政悪化でさらに不安定な状況でした。そこで、老中・水野忠邦は享保の改革や寛政の改革を参考に政治改革を行います。
人返しの法
江戸にいる出稼ぎ労働者を農村に返す政策。
江戸の人口を増やし農村部に人口を増やすことによって、米の収穫量を増やしその結果、幕府の年貢収入をあげるのが狙いでした。しかし、そもそも江戸に出稼ぎに来ていたのは農村に仕事がないからであって、無理やり帰したところで、米の収入が上がる訳もなく失敗に終わります。
株仲間の解散
株仲間とは、幕府お墨付きの営業の独占権を得た商人の集まりです。
当時、物価が高騰して庶民が苦しめられていました。そこで、水野忠邦は株仲間が独占している事が物価高騰の原因と考えて、株仲間の解散を命じます。
この制度を廃止し、市民に自由に商売をさせることで物価が下落していくと考えました。しかし、この政策がかえって江戸市民の混乱を招く事態になり、忠邦の思いとは裏腹に物価がさらに高騰してしまいました。
数年後、結局また株仲間が結成されたことから、この政策も失敗と言えるでしょう。
上知令(じょうちれい)
1843年に、上知令という法令を出します。
これは、江戸や大阪周辺の大名や旗本に土地を幕府に差し出させるというものです。
幕府の領地よりも豊かな土地を幕府の管轄内に置き、税収を増加させたいという狙いがありました。しかし、この法令は一見幕府の一方的な法令の様に見えますが、当時の大名が抱えている領地というのは、飛び地が多く十分な管理、支配がなされていない
という状況なので、返還させた土地に代わり、なるべくまとまった土地を再分配するというものでした。
大名は自分の管理のしやすい条件で土地が分配されるならと最初のうちはその法令に
従う者もいました。その反面、豊かな土地を手放すのは誰だって嫌ですし、大名や旗本になかには農民から借金をしている者もいたため、土地の配置換えがあったら借金を回収できなくなる可能性もあったため、債権者の立場でいうと踏み倒される前に回収しようとします。
しかし、大名や旗本からすればそんな醜態を公の場でさらすわけにはいかないとして、上知令に反対するものも出てきました。その勢いはやがて老中の間でも反対者が出てくる始末で、忠邦は内外から反発を受けるようになります。
以上のように、様々な改革をやってはみるものの、失敗に終わります。
この水野忠邦の天保の改革はたった2年という短さで終わりを迎えることになります。
この改革の失敗によって、幕府の弱さが露見した形になり、これが幕末の動乱へと繋がっていくのです。