幕府の財政再建と徳川吉宗による享保の改革
綱吉の時代から深刻化していた幕府の財政難。元禄改鋳や正徳改鋳などの対策も行われましたが、米価の低迷や支出の増加などにより、財政の立て直しが大きな課題となっていました。
そんな中、1716年に7代将軍・徳川家継が死去すると、徳川吉宗が8代将軍に就任します。
徳川吉宗は御三家紀伊藩からの将軍で紀伊藩主時代は藩政改革を行い、藩政機構の簡素化や質素倹約を徹底して財政再建を図りました。紀州藩はかつて幕府から10万両を借りるほど財政が悪化していましたが、吉宗の改革によって立て直しが進んだのです。
※10万両は今の価値にして20億円~30億円位の価値があるそうです。
そんな吉宗が将軍となって取り組んだのが、幕府の財政再建でした。
紀州藩主時代の経験を生かして進めた一連の改革を享保の改革と呼びます。
享保の改革は、松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革と並ぶ江戸時代の三大改革の一つです。それぞれの政策の違いは高校日本史でもよく問われるので、しっかり押さえておきましょう。
徳川吉宗による享保の改革
幕府の主な収入源は農民から治められる年貢米でした。その米を現金に換えていたため、米の相場によって毎回入ってくる現金が不安定でした。そんな背景から、幕府や武士たちの財政が厳しいものになっていました。
そこで吉宗は様々な幕政改革を行います。
幕府の権力確立と都市改革
将軍人事では、これまでの新井白石や間部詮房を解任して、紀伊藩の家臣たちを多く幕臣に取り立てました。
都市政策では南町奉行の大岡忠相を改革にあてました。時代劇で有名な大岡越前のあの人。
大岡忠相は、火事の多かった江戸の防火対策に着手します。
対策の内容として、町火消し組合を作ります。これは、現代の消防の基礎になっていきます。当時の火消しは、火事が起こるとその周辺の建物を破壊して燃え広がるのを防ぐ消火方法を取っていました。
実は、江戸の町火消「いろは組」には、「へ」「ら」「ひ」の組がありませんでした。
「へ」は「屁」、「ひ」は「火」を連想させるなど、語呂や縁起がよくないと考えられたため、代わりに「百」「千」「万」が使われています。
その後「本」が加わり、全部で48組となりました。
その他にも、江戸近郊の農政改革に着手します。
穀物の生産を上げるため、新田開発をしたり、水の供給の安定化を図るために治水工事を積極的に行いました。また、飢餓対策として新しい作物の研究も命じてます。
また、幕府は1742年に公事方御定書を制定しました。
上下2巻からなる幕府の法典で、裁判の手続きや刑罰の基準などが定められています。それまでの法令や判例を整理することで、裁判をより公平かつ円滑に進めるための基準が整えられました。
足高の制
この時代に幕府の高い役職につくには、それ相応の身分が必要でした。
要するに、ある程度石高がないと高い役職にはつくことが出来なかったのです。
しかし、吉宗は家禄が少なくても優秀な人材を登用できるように、1723年に足高の制を導入します。
これは役職に必要な石高に届かない場合、不足分を在職中に限って支給する制度です。役職を辞めると支給も終了するため、幕府の財政負担を抑えながら人材を登用できるようになりました。
目安箱の設置
いつの時代も庶民の意見や願いは将軍の耳に届くということは、滅多になかったと言います。しかし吉宗は、庶民の声を聞くために、1721年、目安箱を設置しました。
この目安箱に寄せられた小川笙船の意見をきっかけに、1722年には貧しい人々が無料で医療を受けられる小石川養生所が設立されました。
大奥改革と質素倹約

吉宗の以前の将軍や幕臣たちは、幕府の財政が悪いのにもかかわらず贅沢三昧をしていました。そこで吉宗は、財政を立て直すために、まずは倹約が必要と考えました。
いくら倹約を幕臣たちに訴えても、これまでの贅沢な暮らしを変えるには簡単には行きません。まずは吉宗自ら模範を示すことで家臣たちに倹約をするよう促します。
将軍の身でありながら、着るものは絹ではなく木綿を羽織り、食事は一日二回で済ます生活をしました。その食事も、一汁三菜というとても質素なものでした。
さらに、吉宗は質素倹約だけではなく、大奥にも改革の手を伸ばします。
実を言うと大奥の維持には多額の費用がかかっており、年間20万両、幕府収入の約4分の1に相当したとする資料もあります。そのかかった費用のほとんどが着る物や身につける物だったそうです。
そんな中、大奥の女性の中で容姿端麗でなおかつ25歳以下のものを順次リストラしていきました。一般的にリストラでは年齢の高い人や能力の低い人が対象になりますが、吉宗はその逆の方法を行ったのです。
なぜ、容姿端麗で若い女性ばかりをリストラしたのでしょうか?
リストラ後の吉宗は、「容姿端麗であれば良縁も多いはず」と述べていたそうです。
要するに、若くてきれいな女性であれば、大奥を離れてもきっと良縁に恵まれるに違いないと考えたのです。このような人の心を思いやることが出来た人物であるからこそ、天下の名君と呼ばれたのでしょう。
財政再建策
財政再建をするには、収入に対して支出を減らすと言うのが習いですが、この視点から享保の改革に当てはめていくと…
新田開発で幕府の収入を底上げします。
各大名に対して、参勤交代の緩和の代わりに1万石に100石の割合で幕府に献上させる、
上米の制を導入します。
また、1720年代には幕府領で年貢も五公五民に引き上げを進めました。さらに、毎年の米の収穫に応じて年貢高を決める検見法から、収穫量に関わらず一定の年貢を治めさせる定免法への切り替えも進め、幕府の収入の安定を図ります。
とはいえ、年貢の入りが安定して増えても米の値段が下がっては意味がありません。そこで、吉宗は米価の引き上げを図るため、1730年に大坂の堂島米市場の公認。ここでは、正米取引と帳合米取引が行われるようになります。
分かりやすく言うと、正米取引とは米切手を売買する現物取引、帳合米取引とは先物取引のことです。帳合米取引では証拠金を積むことで、差金決済による先物取引が可能で、世界初の整備された先物取引市場だったと言います。
米切手(こめきって)とは、江戸時代に諸藩の蔵屋敷が発行した、一定量の米と引き換えられる証券のことです。
享保の改革の成果
江戸時代の三大改革の一つである享保の改革は、幕府の財政や政治制度の改善に一定の成果を上げました。
- 年貢収入の増加などによって幕府の財政が一時的に黒字化
- 役人の登用制度や裁判制度などが整備され、幕府の政治体制が強化
その一方で、年貢率の引き上げに伴い農民の生活が苦しくなり、百姓一揆が頻発するようになります。
加えて、1732年には天候不順や害虫の被害によって西日本を中心に享保の飢饉が発生。翌年には米価の高騰によって、江戸で米商人を襲う打ちこわしも起こりました。
このように、徳川吉宗による享保の改革で一時的な財政の立て直しはできたのもも、根本的な解決には至りませんでした。
その後も幕府は財政問題に取り組み、田沼意次の政治を経て、松平定信による寛政の改革、水野忠邦による天保の改革へと続いていきます。



