大塩平八郎の乱の原因や内容と江戸幕府への影響
江戸時代に、わずか一日で鎮圧された反乱にもかかわらず、小学校の歴史の教科書にも載っている大事件をご存じでしょうか??
1837年の大阪で起きた大塩平八郎の乱です。
【いやみな(1837)】【ひとはみな(1837)】などの語呂合わせで覚えた人もたくさんいることでしょう。
わずか一日で鎮圧された反乱なのに、どうしてこんなに大きく取り上げられるのでしょうか??今回は、小学生でも知っている【大塩平八郎の乱】について書いていきたいと思います。
大塩平八郎の乱とは?
大塩平八郎の乱とは、1837年に大坂町奉行所の元与力だった大塩平八郎が起こした反乱の事を言います。
1837年と言えば【天保年間】で天保の飢饉で人々が苦しんでいました。水野忠邦の天保の改革が行われたのもこの時期です。
この天保の飢饉に苦しむ人々を町奉行所が救わないことや私利私欲を肥やした大阪の豪商などを襲撃しましたが、わずか一日で乱は鎮圧されました。また、平八郎は豪商の多く住む住宅地に火つけたため、一万世帯以上が焼け出され一般民衆にも被害が及んだそうです。
大塩平八郎の乱が起こった背景と原因
1833年に全国的な天候不順や冷害・暴風により天保の大飢饉が起こりました。
全国で食料不足が起こり、20万人~30万人の餓死者が出ました。
都市部では、食料=米の不足により米価が急上昇。これに激怒した民衆たちは豪商など襲撃する打ちこわしが発生しました。また、農村部の事態はさらに深刻で、三河の加茂一揆、甲斐の郡内騒動では米価の引き下げ要求が出ました。
この天保の飢饉は、6年以上に及ぶ長い飢饉でした。
当時、コメなどの各地から物産が集まる【天下の台所】大坂でさえ、食糧不足が深刻で毎日100人以上の餓死者が出たと言います。
米不足により米価の上昇し、豪商たちは値を釣り上げる為にさらに買い占めを行いました。また、在庫で持っている米を中々売らず値が上がるまで出しませんでした。
大丸のような一部の商人は食糧を庶民たちに施しをしていたのですが、こうした例は稀でした。結果的にこのような善良な商人たちは、大塩の乱で焼き討ちを免れています。
この事態に元与力で私塾洗心洞を経営していた大塩平八郎は蔵書を売却して、困った人々に食料を与えたそうです。それだけではなく大阪奉行所に救済案を提案し民衆を助けるようにと働きかけますが、跡部良弼(水野忠邦の弟)が、平八郎の案を却下するだけではなく、豪商から買った米を江戸に送り、自分の評価を上げようとしていました。
こうした、奉行所と豪商たちの行いに激怒した大塩平八郎は立ち上がるのでした。
大塩平八郎とは?どんな人??
大塩家は代々、大坂町奉行所の与力を務めていました。
1820年代に大坂町奉行【高井山城守】の下で、平八郎は賄賂政治を摘発するなどの働きをし非常に有能な人物だったようです。
とても正義感が強い人物で、事件解決だけでなく役人の汚職についても追及の手を弱めませんでした。もちろん当時の役人の多くが受け取っていた賄賂も受け取りませんでした。
ところが、高井が町奉行を辞職すると、大塩も与力の職を息子に譲って隠居しました。
隠居後は陽明学者として私塾の洗心洞を開きます。
陽明学とは、儒学の教えをもとにした中国発祥の学問でありながら、朱子学へ批判的な学問でした。
大塩は学者としても、元与力としても無策な大坂町奉行所や利益をむさぼる豪商たちが許せなかったのでしょう。また、持ち前の正義感と陽明学が理論よりも行動を重視していたことが、大塩平八郎の乱につながったような気がします。
大塩平八郎の乱
飢饉による被害が拡大し、何も手を打たない町奉行に対して大塩平八郎は、乱を起こす決意をしました。平八郎は万一に備え、家族と離縁して覚悟を決め、大砲や火薬・弾薬を購入しました。
また、各地で起こる一気に対応する名目で弟子たちに軍事訓練をさせます。
その合間に近隣の農民たちには【豪商に天誅を与えるべし】と乱への参加を促し、また大阪市中では【火災が起きたら天満に駆け抜けよ】と檄文を配布し、乱の拡大を促しました。
決行は二人の大坂町奉行の顔を合わせる日に設定し、その会合場所を襲撃し爆破するというものでした。
大塩平八郎の乱の経過
ここまで計画通りに進んでいたのですが、決起直前に参加者の一人が裏切って町奉行に通報。この情報を事前にキャッチした平八郎は予定を変更し一気に豪商の屋敷を襲撃し始めました。
しかし、事前に平八郎らの計画を知っていた奉行所側は準備を整えて迎え撃ちました。各所で奉行所側が平八郎の手勢を打ち破り、その結果、乱はたった一日で鎮圧されました。
首謀者の大塩平八郎は辛くも落ち延び、逃亡生活を送ることになります。
乱の鎮圧から1か月後、大阪城代の土井利位が平八郎の居場所を突き止め取り囲むと、平八郎は爆薬を使い自害をしました。その後、首謀者の大半は自害したり捕まったりしましたが、ほとんどが拘留中に死亡したそうです。
死者の遺体は埋葬を許されず、塩漬けにされて保管したうえで刑場にはりつけにされて見せしめとなりました。
大塩平八郎の乱の影響
下級役人とは言え、元幕府の家臣が反乱を起こしたことは、幕府や諸藩に衝撃をもたらしました。下の者が上に従う封建制度が200年以上続いた日本では、とてつもない衝撃が走った事でしょう。
大坂と似たような状況であった越後の柏崎でも、儒学者の生田万が大塩平八郎の乱を受け、数名の手勢で柏崎の代官所を襲撃する【生田万の乱】が発生しました。
生田万の死によって乱は収まりましたが、幕府の代官所が襲撃されたことにさらなる衝撃が全国に広がりました。
幕府領で大塩平八郎の乱と生田万の乱が相次いだ事で、幕府側も何らかの対策が必要だと危機感を持ち始めました。そこで、行ったのが12代将軍の下で老中首座だった水野忠邦で、江戸の三大改革の一つ【天保の改革】を始めることになりました。
しかし、天保の改革は水野の強引なやり方もあって失敗に終わり、かえって幕府の権力は衰退していくことになります。
大塩平八郎の乱の意義
元役人である大塩平八郎の反乱は、農民一揆と異なりはっきりと幕府のやり方を批判した反乱でした。そのため、平八郎の考え方に賛成する者も多く、生田万のように彼に影響を受けたと公言する者もあらわれました。
たった一日で鎮圧された大塩平八郎の乱ですが、幕府の権威が低下するきっかけとなる乱なので歴史の教科書でも大きく扱われているのです。