17世紀の危機と神聖ローマの大ピンチ三十年戦争の裏事情
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悪名高いと言われている十字軍。十字軍遠征による影響と変化の記事でサラッと触れていますが、実際にどんな形で十字軍の遠征が行われていたのか表にしてまとめています。
なお、分け方によって第8回、第9回まで十字軍遠征があったとする場合もありますが、今回は7回説と仮定して解説します。
第1回~第7回までの目的や結果をまとめてみます。
現ドイツやフランスからは陸路を、イタリア、イギリス、フランスからは地中海を通って海路を使ってセルジューク朝へ攻め込みました。色んな都市部に途中寄っているのが分かります。食糧や物資の調達をこういった都市でも行っていたようです。
年 | 目的・軍の構成 | 結果 | |
---|---|---|---|
第1回十字軍遠征 | 1096 ~ 1099年 | セルジューク朝に支配されていたイェルサレム奪還を目的とする。フランス諸侯と神聖ローマ帝国の諸侯たちを中心に組織された。 | イェルサレム王国を建国。聖地巡礼に訪れたキリスト教徒保護を目的に聖ヨハネ騎士団が組織された。 |
第2回十字軍遠征 | 1147 ~ 1148年 | 1144年頃からイスラム勢力が盛り返し、十字軍国家の一つエデッサ伯国が滅ぼされたことから始まった。 神聖ローマ帝国やフランスの国王、多数の貴族・司教・庶民らが参加。 | エルサレム奪還といった明確な目的もなく、参加者らの意識も統一されてなかった。 ビザンツ帝国もイスラム王朝とのバランスがとれるようになっていたため、歓迎せず。ほぼ成果なしで終わった。 |
第3回十字軍遠征 | 1189 ~ 1192年 | 元ファティーマ朝の宰相でアイユーブ朝の始祖・サラディンがイェルサレムを含む十字軍国家を征服。イェルサレム奪還を目的に、神聖ローマ帝国・イングランド・フランス王らで軍が結成された。 | 十字軍に参加した神聖ローマ帝国の国王の事故死や、結成された軍内部の軋轢もあってイェルサレム奪還は出来ず。イェルサレム巡礼に必要な現イスラエル北部の町・アッコンの奪還と巡礼の自由を保障する協定を結ぶという結果に終わる。 この時のビザンツ帝国はアイユーブ朝と協定を結び、十字軍を妨害。非協力的な姿勢をとったためキリスト教の東西の亀裂は深くなった。 |
第4回十字軍遠征 | 1202 ~ 1204年 | イェルサレムではなく、イスラムの本拠地エジプト攻略を目的に挙兵。フランスの諸侯とヴェネツィア(商人)を中心に結成された。 | 諸侯のみの参加で人が集まらず、金銭的に困窮してる中で十字軍参加に手を上げたのがヴェネツィアの商人たち。 渡航費を同じキリスト教国への攻略で補填し、さらにビザンツ帝国の皇位継承争いに首を突っ込んでコンスタンティノープルを陥落させラテン帝国を建国。ビザンツ帝国に攻め込んだのはヴェネツィアが貿易を行う上でビザンツ帝国との確執があったためと言われている。 攻め込んだ際の略奪・暴行が酷く、キリスト教の東西の亀裂が決定的に。 |
第5回十字軍遠征 | 1217 ~ 1221年 | アイユーブ朝の本拠地エジプト攻略を目指した1) ハンガリー、オーストリア、 エルサレム王国国王により結成。ローマ教皇による呼びかけで行った最後の十字軍。 2) 最初の呼びかけで十字軍遠征を渋っていた神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世がアイユーブ朝の内紛を機に遠征開始。 前者を第5回、後者を第6回と分けて考える分類することもある。 | 1) エジプト内部での反乱があるなどして危機に陥ったアイユーブ朝は、イェルサレム王国領の返却を申し出る。が、十字軍内部では返却を受け入れようとする者と首都・カイロに固執した者が対立した結果、アイユーブ朝に敗れた。 2) イスラム教徒と共存していたシチリア島出身の神聖ローマ帝国皇帝がアイユーブ朝との外交交渉を行い、 イェルサレムを奪還した。が、フリードリヒ2世はローマ教会との関係もあって破門にされた状態で向かっていたことや戦わずに手に入れたため、折角イェルサレムを奪還したのにローマ教会からは認められず。 |
第6回十字軍遠征 | 1248 ~ 1254年 | 第5回十字軍で交渉したアイユーブ朝の国王の死後、イェルサレムがイスラム勢力により陥落。敬淑なキリスト教徒であるフランス国王・ルイ9世が提唱し、アイユーブ朝のエジプトを陥落させることを目的に始まった十字軍。 第一回の頃と比較してヨーロッパも豊かになっていたため、賛同者があまりおらず、関係者にも反対されたまま強行した。 | チフスの蔓延等で十字軍は敗退。言い出しっぺのルイ9世は捕虜となった。一方でアイユーブ朝もエジプトでクーデターが発生。マルムーク朝が誕生する。十字軍は占領地の放棄と身代金を支払い撤退した。 |
第7回十字軍遠征 | 1270 ~ 1272年 | 聖地奪還を目的としたが遠征先はチュニジアとアッコンであった。1270年にフランス国王・ルイ9世が再度呼びかけての遠征と、1271年からのイングランド王の息子・エドワードが行った遠征とがある。 | 最後の十字軍。ルイ9世は北アフリカのチュニジアを攻撃したが、暑さと飲み水の質の悪さもあってチフスが蔓延。ルイ9世をはじめ十字軍の中心人物たちも死去したため、一旦ルイ9世の息子は軍をひき、エドワードと再度遠征に行った。 再遠征ではマルムーク朝の将軍との戦闘に勝利するもキリスト教諸国の思惑が一致せず、撤退。 |
なお、特に有名な第一回と第三回、第四回十字軍遠征については別記事に書いています。
結局この7回あった十字軍遠征によって先進国の文化を垣間見た西ヨーロッパでは、様々な要因が重なったこともあって
なり、それぞれの独自の文化を育むようになったのです。