大航海時代のキッカケになった出来事
タイトルは思いっきり世界史ですが、18~19世紀に外国船が頻繁にやってきたことに繋がる出来事でもあります。その度重なる外国船来航により水戸藩から尊王攘夷思想が生まれ、薩長へと伝わり明治維新に繋がったことを考えると、そのキッカケになった大航海時代を理解しない訳には行きません。
幕末に入る前から本気で交渉してきたのがロシアとアメリカなので両国の状況もお伝えしたいのですが、まずはロシアにとってはヨーロッパとの関係性と、アメリカにとっては国の始まりに関わる大航海時代に焦点を当てていこうと思います。
ヨーロッパ諸国が世界を目指した大航海時代
大航海時代に繋がる出来事の中でも
- 13世紀末・・・アナトリアでオスマン帝国が成立
- 14世紀・・・ヨーロッパでペストが大流行
- 15世紀・・・イタリアを中心にルネサンス
- 16世紀・・・宗教改革
が大きな出来事として挙げられます。
正確に言うとペストについては、宗教改革の遠因やヨーロッパの食糧事情を変化させたということなので他の二つとは多少意味が異なりますが、非常に大きな出来事なので記載しています。
ペストの大流行
ペストが流行った背景を見ていくと
- 13世紀以前に農耕具が発達し、人口が増加
⇒ 開拓され、人が密集する地域が増加
⇒ ごみ処理問題(=衛生面が非常に悪かった) - 14世紀頃から始まった世界的な寒冷化
⇒ 飢餓が増え、栄養状態が悪くなった
これらの要因が重なり、大流行へとつながったようです。
ペストの原因は貿易船に乗っていたネズミについたノミ。この少し前にモンゴル帝国が出現し東西交易が活発化しているという時代背景がありました。
『開拓をした』ということで天敵であるフクロウなどの生息数は少なかったと思われます。実際に森林が多くあるポーランドではペストが流行りませんでした(人の行き来も遮断していたそうですが)。
人口はヨーロッパ全体の1/4 まで激減し、流行の中心地・北イタリアでは住民がほぼ全滅したとも言われています。
病気の治療が大航海時代に繋がった?
治療には香辛料が有効とされていました。中でもサフランはペストに効くという噂も出回っていたと言います(『スパイスは天国の食材?! 中世の人々が香辛料を求めた理由』(他サイト)参照)。
ちなみにサフランは東地中海原産で、イランやインド(または古代ギリシア)で初めて栽培されたそうです。ヨーロッパでも栽培されていますが、非常に広い土地が必要で栽培しても高価なままでした。
- その後のペスト治療
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17世紀になってから瘴気(しょうき・悪い空気)を吸うことである種の病気(ペスト・インフルエンザ・コレラ・マラリアなど)になると考えられるようになり、ペストの治療には肌を見せず悪い空気を遮断する服装をして専門の医師が治療に当たりました。
ひょっとするとどこかで見たことがあるかもしれませんね。
※上のペスト医師は大航海時代よりも後の時代に使われた防護服です
食生活の変化
少し前から始まっていた寒冷化で農耕だけでは食べられなくなったうえにペストの打撃が加わり、労働人口が激減。農民達の地位が向上し豊かになると食文化も変化していきました。肉もしっかり食べるようになっていきます。
その後ペストが収まった頃には温暖化が進み人口も増加。肉食文化は残ったまま香辛料の需要は高まります。保存料あるいは臭み消しとして必要だったためです。
需要が増えれば香辛料の値段は上がっていきました。
オスマン帝国の拡大
オスマン帝国とは13~14世紀頃のモンゴル帝国が拡大しつつあった頃、当時アナトリア半島にあったセルジューク朝の地方政権ルーム=セルジューク朝が国内の有力者の作った侯国を扱いきれなくなり独立した国々の一つです(セルジューク朝がイスラーム王朝であったように、オスマン帝国も同様に基本はイスラム教を信仰しています)。
そのオスマン帝国が、やがて力を蓄えてバルカン半島方面へと進出。キリスト教(カトリックと正教会なので教義は異なる)を信仰するビザンツ帝国を滅ぼすなどして地中海を支配下に置いていました。
※下は16世紀の地図なので大航海時代に入る頃の地図とは若干違いますが、15世紀にはバルカン半島に進出済み
香辛料が取れる地域は限られます。香辛料の一大産地・東南アジアとの貿易を支えていたのはヨーロッパと東南アジアの間にあるオスマン帝国やイタリアでした。古くからあるシルクロードが交易手段でアラブ商人やイタリアの商人たちが仲介しています。
多くの人々を介してやってくるので手数料も取られました。あまりにも高額になったため、ヨーロッパの国々は新たな航路を開拓しようとなるのですが、ここでオスマン帝国の存在がヨーロッパにとっては邪魔になったのです。これが別ルート開拓…つまり大航海時代へと繋がる一因でした。
※ヨーロッパはペスト以前にもレコンキスタ(イベリア半島の国土回復運動)や十字軍遠征など膨張の動きは見せています。大航海時代もそうした膨張運動の延長として考えている場合があります。
宗教改革と大航海時代
宗教改革が起こった原因に「死生観への影響」以外の背景として、十字軍失敗による「教会の権威・発言力の低下」が挙げられます(十字軍はユダヤ教・イスラム教・キリスト教の聖地が同じことやイスラム勢力に対する危機感から始まりました)。
※十字軍に関しては失敗しましたが、交易が活性化し香辛料が入りやすくなるという変化ももたらしています
当時の宗教改革直前の教会は権威や発言力が低下したことで、それを取り戻そうと無茶な弾圧をしてますます・・・という負のループに入っていました(もう少し後になると腐敗も重なってキリスト教は16世紀になると旧来のカトリック以外にプロテスタントと言われる新宗派が誕生します)。
そこでカトリックを熱心に支持する国がヨーロッパ以外への布教活動の一環として外へ向かおうとしていたと言われています。
ルネサンスとの関係
14~16世紀、イタリアを中心にルネサンスと呼ばれる古代ローマやギリシアの文化を復興させようとする運動が起こりました。この運動により古代ローマや古代ギリシアの学問にも目が向けられ、古い時代の天文学や地理学を見直して新たな地図が作成されています。
このように過去の学問や技術と当時の技術を結び付けたりした結果、長距離航行が可能な技術が備わっていきました。
大航海時代に優位に立った国は??
地図を見ると分かりますが、オスマン帝国のある地中海を通らず東南アジアへ向かうには大西洋に面した国が有利です。特にスペイン・ポルトガルが一歩リードしました。両国ともカトリックを熱心に支持した国です。
実際、最初に東南アジアへ到達したのはポルトガル。香辛料をはじめ、様々な東方の特産品を交易で扱いました。アフリカにも進出し悪名高い三角貿易も行いながら繁栄していきます。
ところがこの頃のポルトガルの王様。まだ年若く航海などに理解があったのは良いのですが、本人も国政よりも外征を好んだことで国の命運が決まってしまいます。後継者のいない状態で王が戦死したのです。
1580年以降は親戚筋でもあったスペイン国王がポルトガルの王を兼任。およそ60年の間に同じく大西洋に通じるイギリスやフランスが勢力を伸ばしていくことになり、徐々に衰退。両国とも三角貿易の担い手で、後々の産業革命の資金源となりました。
一方のスペインは新大陸と呼ばれるアメリカ大陸を発見。ヨーロッパの食糧事情と貨幣価値を変えることになったのです。
オランダの独立とスペインの衰退
オランダと言えば北海に面しイギリスとフランス・ドイツの間にある地域にあります。ネーデルラントとも呼ばれ、当時はスペインの属領でした。
古くから毛織物の産地として有名で南欧とバルト海沿岸地域との貿易で中継地点として栄えています。つまりは商人優位な土地柄ということでキリスト教の中でも『利潤追求』を認める『カルヴァン派』と呼ばれる宗派に属する人が多数を占めました。
当時のスペイン国王はカトリックの擁護者を自任していたそうです。重税を課しカトリックを強制していましたので、ネーデルラント地方の人々は反発を強めていきとうとう1568年に独立戦争が勃発。戦争は80年にも及ぶ長いもので、結果はご存知の通りオランダが勝利、独立に至ります。
ここからは推測ではありますが…
ネーデルラント地方はバルト海との交易で木材を安く手に入れることができ(=船を安価で作ることが出来る)、尚且つ大西洋に出ることも出来る位置にあることからスペイン側は警戒していたのかもしれません。
なお、宗教の弾圧はカルヴァン派に留まりませんでした。スペインはその場所柄、イスラム教徒やユダヤ教徒も多く滞在しています。そんなイスラム教徒・ユダヤ教徒のうちスペイン経済を担っていたような者は国外追放に、安い労働力と見做されていた者達はキリスト教へ改宗(半ば強制的)させます。
ところが、イスラム教から改宗した者(=モリスコ)達がオスマン帝国やスペインとの敵対勢力と繋がっている疑いがあり、スペイン側は弾圧をますます強めたことでモリスコ達は反乱を起こしたのです。
モリスコの反乱に加え、モリスコの背後に見え隠れするオスマン帝国との衝突、宗教及び商業上の理由から敵対したイギリスとの戦い、宗教と領土問題によるフランスとの戦い・・・とスペインは16世紀から17世紀に複数方面で戦争が続きます。さらにポルトガルが王政を復活するため戦争を起こしスペインは疲弊。黄金時代を終えていくのです。代わりに台頭して行ったのがイギリス・オランダでした。
特にオランダは世界へ進出し、独立戦争を戦いながらも国際商業の中心として栄えていったのです。