ハプスブルク家の最盛期を作ったカール5世の華麗なる戦歴/フランソワ1世編<人物伝③>
ハプスブルク家の家族関係をまとめた記事と幼少期から神聖ローマ皇帝・スペイン国王の即位までの経緯をまとめた記事を前回まで紹介しました。
カール5世と言えばヨーロッパのサラブレットであったのと同時に、生涯戦いに明け暮れた君主だったこともわりと有名な話だと思いますので、カール5世が生涯に戦ってきた戦歴について語ろうと思ったのですが...
フランソワ1世との関係だけで一記事出来そうなので、今回は対フランスに特記していこうと思います。ほぼイタリア戦争の話ですが、同時進行で宗教問題・オスマン帝国からの防衛も行っていたこともお伝えしておきます。
フランソワ1世(フランス国王)とは?
- 1494年誕生-1547年死没
- 在位:1515-1547年
カールが最も多く戦ったのがフランソワ1世でしょう。ヴァロワ朝第9代のフランス国王です。後述する宗教問題やオスマン帝国との戦いが拗れた裏には大抵フランスが絡んできます。
そもそもカール5世として神聖ローマ皇帝に即位する前からフランスとスペイン、フランスと神聖ローマの関係は良いものではありませんでした。
フランスとスペイン、神聖ローマ帝国との因縁は?
カール5世が生まれるよりも前の1494年~1495年、イタリアのナポリ王国の王位をめぐって第一次イタリア戦争が発生していました。シャルル8世の代ですね。
この時にフランスと敵対したのが直接的にナポリ王位を争ったスペイン王(シチリア王も兼ねる)フェルナンド5世でした。アラゴン王としてはフェルナンド2世。カールの祖父に当たる人物です。
さらに、妻がブルゴーニュ女公だった神聖ローマ皇帝のマクシミリアン1世も共に参戦しています。ブルゴーニュはフランスが国王に権力を集中させる際に立ちはだかったフランスの有力貴族で代々敵対している間柄でした。
妻を通じてブルゴーニュの利権を継承していたため、マクシミリアン1世も参戦したのです。
そんなわけでカールの祖父たちは共にフランスと敵対。ほかにも様々な国がフランスに対抗したため、第一次イタリア戦争ではフランスは破れ撤退しました。
第一次イタリア戦争があれば、当然ながら第二次イタリア戦争もありました。
シャルル8世の息子は夭折していたため、次の代についたルイ12世はナポリ王ではなくミラノ公国の継承権を主張し第二次イタリア戦争に発展します。
なお、ルイ12世がミラノ公の継承権を主張できたのはシャルル6世の弟で彼の祖父・オルレアン公ルイの妻が初代ミラノ公の娘だったからです。
↑仏国王にはシャルル5世→シャルル6世→シャルル7世→ルイ11世→シャルル8世→ルイ12世→フランソワ1世の順で即位
フランスはシャルル7世の頃にようやく百年戦争が終わり、シャルル7世とルイ11世の代になって中央集権化がようやく成立しつつあったのですが、戦争が長らく続いたことで産業的には遅れがちという状況になっていました。
シャルル8世の代以降は本格的に財政にテコ入れできる状況になったため、経済力の強い北イタリアを支配下に入れようとしたようです。
この第二次イタリア戦争は敵味方が入れ替わりややこしいのですが、最終的にスペイン王家がナポリ王の王位に就くことが完全に決定づけられます。カールの祖父フェルナンド2世です。
ということで、第二次イタリア戦争で獲得したナポリ王位はカール(カルロス)が継ぎ、対立関係もそのまま受け継ぐことになったのでした。
第三次イタリア戦争(1521~1526年)
以上のような因縁があったため、ルイ12世の跡を継いだフランソワ1世は
敵対していたスペインの国王が神聖ローマ皇帝を兼任してしまうと、地理的に挟撃される形になってしまう
と懸念し、皇帝選挙に出馬したものの結果は敗選。
そこで1521年に再びイタリアに侵攻し第三次イタリア戦争が再開することになったのですが、カール5世は1525年のパヴィアの戦いでカール5世はフランソワ1世を捕虜にして戦争を終結させました。
フランスはこの大ピンチを切り抜けるため、東の大帝国に目を向けます。捕らわれたフランソワ1世に代わって彼の母がオスマン帝国のスレイマン1世に使節団を送り、スレイマン1世に最後通牒を出させることに成功させています。
そうしたフランスの外交努力があっても、カール5世の優位は変わりません。
- ブルゴーニュ
- ミラノ公国
- ナポリ王国
- フランドル
- アルトワ
などの放棄を約束させる条約を結んだほか、フランソワ1世を解放する代わりに二人の息子(のちのアンリ2世含む)が身代わりになったのでした。
コニャック同盟戦争(1526~1530年)
第三次イタリア戦争が終わったかと思いきや、約3か月後再び戦火が上がります。神聖ローマ帝国の勢力拡大により教皇領が圧迫されることを憂慮した教皇クレメンス7世がコニャック同盟を仲介し戦争を開始したのです。これにもフランソワ1世は参加しています。
コニャック同盟戦争と名前には『イタリア』の名前が入ってませんが、イタリア戦争の一環として起こった戦争です。
このコニャック同盟戦争で有名な事件がローマ劫掠(ごうりゃく)。カールがフランス側についた教皇を圧迫するためにローマへ進軍した際に指揮官が戦死して統制が取れなくなっていたこと、ドイツ人傭兵たちに十分な報酬を払わなかったことが原因で1527年に教皇領でローマ劫掠を引き起こす事態となってしまいました。
この出来事は色んな所に意外な影響を与えます。
ローマ劫掠の影響でクレメンス7世が発言力を落とした一方で、この頃にはカール5世とローマ教皇には共通の対立勢力が出来上がってきていました。宗教改革を支持した農民たちが1524年にドイツ農民戦争を起こしていた他、オスマン帝国からの圧迫も始まっていたのです。
こうした事態を受けて両者は1529年に和解。翌年にはクレメンス7世がカール5世に戴冠しています。
フランソワ1世もまた同年にカンブレーの和約(貴婦人の和約)を結び、コニャック同盟戦争を終わらせました。この和約でフランスが賠償金を払ったほか、過去に人質とされていたフランソワ1世の息子たちが身代金と引き換えに解放されています。
第四次イタリア戦争(1536~1538年)
1535年に子のいないミラノ公が亡くなるとミラノ公妃と縁戚関係にあるカール5世が跡を継ぎました。これ以上、ハプスブルク家に周辺を囲まれたくないフランソワ1世は再度侵攻。
第四次イタリア戦争でフランソワ1世はオスマン帝国と同盟を結び、フランスとオスマン帝国の連合艦隊も参戦。オスマン帝国がフランスに対して通商特権カピチュレーションを与えたとされるのが1535年と言われています。
結局、二正面対決の可能性を否定できなかったカール5世が折れることになりました。
トリノをフランスに割譲するニースの和約を署名し戦争は終結。この後、カール5世はオスマン帝国の対応に追われる羽目になっていきます。
第5次イタリア戦争(1542~1546年)
前回の同盟に引き続き、フランスはオスマン帝国との同盟を締結したうえで宣戦布告。ニースの和約に納得出来ず、再度フランソワがミラノ公国への請求を諦めきれなかったことがキッカケです。
が、どちらも決着がつかないまま両国ともに戦費が尽きていたことから1544年末にクレピーの和約で戦争は終結しました。
カール5世と共に参戦していたヘンリー8世はクレピーの和約に参加せずに独自でフランソワと戦い続け、その戦いが1546年和約するまで続いています。
そんな第5次イタリア戦争が終わった翌年の1547年、フランソワ1世が57歳で突如亡くなりました。死因は梅毒だったのではないかと言われています。
こうしてカール5世のフランソワ1世との戦いはライバルの突然の病死で幕を閉じますが、イタリア戦争はフランソワ1世の息子にも引き継がれていきました(ここではフランソワと関係ないので割愛しますが)。
ということで、彼らの戦いはオスマン帝国の領土拡大を招いたり、こっそりフランソワがルター派に援助していたり…など宗教事情にも大きく影響を与えることとなったのでした。