フランスの宗教内乱・ユグノー戦争とブルボン朝の始まり<16世紀後半>
シャルル7世が百年戦争に終止符を打ってからのフランスは、国内のイギリス領を一掃し中央集権国家への道を歩んでいました。
ですが、そのシャルル7世の孫・第7代国王のシャルル8世から始まったイタリア戦争で泥沼にはまります。フランスとハプスブルク家がヨーロッパの覇権を巡り約2世紀も戦い続けることとなったのです。
その間、神聖ローマ帝国ではカール5世の治世下に本格的に宗教改革が起こります。
カール5世と険悪だったフランス国王フランソワ1世は神聖ローマ帝国内の宗教改革を煽りますが、宗教改革の波はフランスにも入り込み、やがてフランスでも宗教戦争が発生することに。
ここでは、フランスでの宗教改革に伴う内乱ついてまとめていきます。
イタリア戦争の終焉とフランス王家の内情とは?
フランスで広まったプロテスタントの代表と言えばカルヴァン派です。フランスではユグノーと呼ばれています。フランスで宗教改革が始まった頃の国王フランソワ1世と彼の息子アンリ2世は完全なカトリック派でした。
フランソワ1世は当初カール5世との関係もあって寛容さを見せていたのですが、プロテスタント側がカトリックを批判する檄文を諸都市に張り出したことで激怒し、弾圧の方向にかじを切ります。
アンリ2世の代でも厳しい弾圧も行いましたが、イタリア戦争で戦い続けている隙にユグノーはどんどん勢力を拡大。しかも、ユグノーは「蓄財も良し」とする宗派のため、都市で商工業に携わるような市民や有力貴族といった社会的に恵まれた階層が多く含まれており無視できない存在でもありました。
国内の足元がおぼつかない状態だったこともあって、アンリ2世は娘をフェリペ2世と結婚させてカトー=カンブレジ条約を結び、イタリア戦争を終わらせます。が、結婚の祝宴の席で行われた馬上槍試合の怪我が原因でアンリ2世が死去。
生来病弱の息子フランソワ2世が跡を継ぐも2年で死去すると、1560年に彼の弟シャルル9世が10歳で即位することになりました。
母親のカトリーヌ=ド=メディシスはフランソワ2世に続き摂政を務めます。
カトリーヌ・ド・メディシスは出身のイタリア語名だと『カテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ』になります。イタリアの名門、あのメディチ家です。
ただし、カトリーヌはフランソワ2世の治世下では彼の王妃メアリー・スチュアート※の母方の叔父がイタリア戦争で活躍した軍事的英雄ともいえる人物ギーズ公フランソワだったのもあって、フランソワの生前は実権を握ることができませんでした(↓のイラストで言うと「ギーズ公の娘」の弟がギーズ公フランソワです)。
※スコットランド女王でもあるメアリー・スチュアートはエリザベス1世の治世で登場しています。
フランソワ2世が亡くなって、ようやくカトリーヌが摂政として実権を握るのですが、彼女はギーズ家の動向を気にしながら政治を執り行うこととなるのです。
ユグノー戦争
カトリーヌ自身はカトリックであったものの、フランス貴族ギーズ家がカトリック派の重鎮だったことから警戒してプロテスタントに対して融和的な政策を図りました。
ところが、その甲斐もなく1562年にギーズ公フランソワがユグノーを虐殺(=ヴァシーの虐殺)。ユグノー派の貴族ブルボン家を中心に軍事行動が起こりユグノー戦争が始まります。
なお、ギーズ公フランソワはユグノー戦争の翌年に暗殺され、息子アンリに代替わりしました。
融和政策からのサンバルテルミの虐殺へ
カトリーヌ・ド・メディシスは戦いが始まってから10年後、融和策としてブルボン家とギース家の間で婚姻関係を結ぶことを提案しました。
これによりユグノーの指導者でブルボン家のナヴァール王アンリとシャルル9世の妹の結婚式が1572年8月18日にパリで行われることに。結婚のお祝いのため、ユグノー派の貴族たちも多数集まっていたのですが...
その直後の8月24日、サンバルテルミの祝日未明にかけてユグノーに対する虐殺事件が起こります。この事件はカトリーヌが「最初(結婚も含む)からユグノーの有力者を集めて潰そうとしていた」と言われていますが、はっきりとしていません。
パリだけに留まらず、地方でも数千人以上が殺され、中心人物の一部は殺害されたり捕虜となってしまいました。当然ながら、両陣営は新たに戦争再開の準備を始めたのです。
ブルボン朝の誕生とナントの王令
サンバルテルミの戦いで大打撃を受けたユグノーでしたが、1576年にサンバルテルミの虐殺の混乱で捕虜となってしまったナヴァール王アンリが脱出してからは彼を中心にまとまり始めます。
1580年後半に入ると、カトリック派のギーズ公アンリ、シャルル9世から(1574年に)代替わりしていたシャルル9世の弟フランス国王のアンリ3世、そしてユグノー派の中心ナヴァール王アンリの『三アンリの戦い』と呼ばれる三つ巴の戦いになっていきました。
国王アンリ3世には娘と庶子の息子が一人ずついましたが、後継者になるような人物がいなかったことが背景にあったようです。
母親がフランソワ1世の姪だったことから血統的に近いのはナヴァール王アンリでしたが、王家はカトリック派の国王を望んでいたためギーズ公アンリも候補の一人になっていました。こうして事態が複雑になってしまいます。
ブルボン朝の始まり
結局、混乱のさなかにギーズ公と国王二人のアンリ達が暗殺され、ナヴァール王のみが生き残ったため1589年アンリ4世として王位についたのでした。こうして1328年のフィリップ6世から始まったヴァロワ朝は幕を閉じ、新たにブルボン朝が始まったのです。
フィリップ6世と言えば、百年戦争が始まった時のフランス国王です。
ユグノー派代表のアンリ4世が国王に即位することはカトリック派の貴族たちにとっては受け入れがたいものでしたが、カトリックを支援するスペインをはじめとする外国勢力の介入も問題になっていました。そうした外国からの介入に嫌気がさして宗教問題よりも国家統一を優先したいと考える人も増えていたため、穏健派のカトリック貴族も味方に付いています。
これに対してアンリ4世が出した答えが『カトリックへの改宗』でした。
ナントの王令
自身の信仰を捨てて改宗したうえでユグノーに対する信仰の自由も与え、長らく続いた戦争を終わらせました。この信仰の自由を認めたアンリ4世の王令をナントの王令と呼んでいます。
かなりバランス感覚に優れた国王だったのが分かりますね。
アンリ4世は武力弾圧は避け、さらに国民の生活にも配慮するなどかなり有能な君主でしたが、狂信的なカトリック教徒から暗殺されてしまうのでした。