ドイツ

宗教改革が神聖ローマで始まった背景を探っていこう<ドイツ史>

歴ブロ

宗教改革第二弾です。

前回はルターによる宗教改革が起こる前の背景や実際に宗教改革に繋がるローマ・カトリック教会に関係する運動について語りましたが、第二弾では神聖ローマ帝国でなぜ宗教改革が広がったのかについてまとめていきます。

宗教改革は当時の神聖ローマの状況を知ることで、より深く理解できると思いますのでドイツ史の復習も兼ねて良かったらお付き合いください。

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宗教改革が起こった頃の神聖ローマ帝国の状況

マルティン=ルターによる宗教改革が始まったのは神聖ローマ帝国の皇帝がカール5世の時代から。

カール5世の詳しい解説は割愛しますが、彼は神聖ローマ帝国の皇帝の孫であり、アラゴン・カスティーリャ連合王国(スペイン)の後継者でもあり…ということで、ヨーロッパの貴族としても指折りのサラブレッドで、かの有名なハプスブルク家出身です。

カール5世の頃はほぼ世襲のような形で皇帝(王)位を継いでいますが、神聖ローマ帝国では世襲が絶対ではなく、7人の有力諸侯・選帝侯による選挙によってルクセンブルク家ヴィッテルスバッハ家といった有力家門が選ばれる時代もありました。

選挙で皇帝が選ばれるような状況ですから、あまり皇帝の力が強くないことは何となく感じますね。

※選挙に関して古代ゲルマン社会で見られた方式ですが、血統主義も無視していたわけでありません。選挙で選ばれた国王たちは度々世襲制の確立を目指していました。

このような形になった紆余曲折を神聖ローマの始まりと共に見ていきましょう。

神聖ローマ帝国の母体・フランク王国を簡単に

まず元となった国はフランク王国ローマ帝国を分裂させたゲルマン民族の大移動で出来た国家のうち、最も長い間存在した国家です。

主にゲルマン人が信仰していたのはキリスト教の異端と呼ばれる宗派でしたが、現地に受け入れられていた宗派に改宗して受け入れてもらうことで他の多くのゲルマン系の国家とは一線を画した存在になっていきました。

ゲルマン民族による国家

ところが、ゲルマン人の社会経済活動が基本的に牧畜と狩猟。土地を基盤としないことから財産は「分割統治」が基本になります。分割統治ということで兄弟間での争いが絶えず、その間に宮宰という王家(や諸侯)の家政機関を管理する者が台頭します。

フランク王国で最初に起こった王朝メロヴィング朝から政権を奪取した元宮宰のピピン3世が、その正当性を示すために領地を教皇に寄進し教皇の後ろ盾を得てカロリング朝を起こしたのでした。いわゆるピピンの寄進と呼ばれるもので、以後、イタリアには教皇領が成立します。

ローマ教会とフランク王国

詳説世界史図録 山川出版社を改定

そのピピンの息子は、カール『大帝』と呼ばれるほど偉業を達成。水色、橙、黄色の範囲を自らの勢力下に置きました。

カール大帝の獲得した領地

父親の代で寄進して教会との距離が近づいた中でのカールの偉業達成により、教皇に戴冠されるという新たな局面に入ります。

教会側としては

フランク王国の軍事力をあてにしたい

一方のフランク王国は他の遊牧民と同じような特徴が強く、それぞれバラバラになりがちなため

教会の威光で、少しでもまとまって欲しい

そんな意図を互いに持っていたようです。

それでも、やはり最後には西フランク王東フランク王国イタリア王国の三つに分かれてしまいます。神聖ローマ帝国は、そのうち東フランク王国を母体として出来上がっていくことになったのでした。

分割後のフランク王国

オットー1世の戴冠と神聖ローマ帝国の誕生

やがて、その東フランク王国でカロリング朝が断絶すると最後の国王の甥っ子が即位。ところが、彼は部族のトップ達から中々認められません。

嫡子のいなかった国王が戦いに赴いた時のケガが原因で死の淵に立つと「部族と国王が敵対関係を続けたままだと不味い」と自身の反対勢力代表のザクセン公・ハインリヒ1世を後継者に指名したのでした。

※当時の東フランク王国は、西フランク王国に土地を奪われたりしていました

ハインリヒ1世とオットー1世

ハインリヒ1世は、これまでの「フランク王国の弱体化の原因は、分割相続にある」と見抜いたため、後継者をオットー1世にのみ単独指名しています。

ヴァイキングのヨーロッパ進出

このオットー1世が

  • 西進して辺境を脅かすようになった遊牧民マジャール人(上の地図でいうオレンジ色の矢印)を撃退
  • イタリアのブルグント(現在のスイス西部とフランス南東部)を服属

させるなどして名声を高めていきました。

結果、フランク王国が分裂して軍事的な後ろ盾のなくなっていたローマ教皇が、その名声を高めたオットー1世に戴冠することに。

こうして、962年に皇帝として即位したオットー1世以降、呼称や領域を変えつつ19世紀まで存続することになる神聖ローマ帝国が誕生したのです。その後、オットー1世含むザクセン朝は断絶し、ザーリアー朝に。このザーリアー朝時代のハインリヒ3世の時代が『神聖ローマ帝国としての』最盛期になりました。

イタリア政策

一方の同じフランク王国が分裂して出来たフランス王国。こちらは同じく部族が多かったにもかかわらず、後世に絶対王政を行う時代も出てきます。その違いがローマ教皇による戴冠の有無

ローマ=カトリック教会の教皇がカール大帝へ戴冠を行う理由を、古代ローマでキリスト教を国教認定した皇帝による「コンスタンティヌスの寄進状」があったからとしています。コンスタンティノス帝が送ったとされる寄進状の内容を意訳すると「ローマ司教と後継者が西ローマの支配者決めて良いよ。自分(コンスタンティヌス)は東のコンスタンティノープルで隠居するから。」というもの。

結局、後世に偽書と分かったわけですが…

こうした経緯でオットー1世が戴冠したことから、神聖ローマ帝国の理念に「古代ローマやカール大帝の築いた(イタリア方面の領地も含む)国家を継承していこう」とする意識が生まれたのです。

それなのに「イタリア方面を手に入れてないなんて何事だ」というわけで、10~13世紀にかけてイタリア支配とローマでの戴冠を目指して出兵する事が多くなりました。いわゆるイタリア政策です。

遠征回数が増すにつれて本拠地では諸侯たちが力をつけ、半分独立国家のような領邦がどんどんと出来上がることになったのでした。

大空位時代

神聖ローマ帝国の成立した初期の頃は互いに利のある関係を築けており、皇帝は叙任権を使って諸侯を抑え込むための聖職者を諸侯たちの領地に送り込んでいました。

※叙任権…聖職者を選ぶ権利のこと。古くから土地を有する領主が修道院長を選ぶ権利を持っていた。

ところが、世俗の権力者による聖職者選びではゴマすりが上手な人や利に敏い者たちが入り込むようになってしまいます。ということでハインリヒ3世までの歴代皇帝たちは、そうした相応しくない聖職者を追い出す『教会改革』を積極的に行いました。

が、教会改革を通じて教会や教皇たちは「皇帝が教会組織を掌握しすぎるのが良くなかった」と考えるようになり、皇帝に抑え込まれていた諸侯たちと手を結びつつ叙任権闘争が始まります。

諍いが長らく続いて王朝が断絶すると、皇帝位の空白となる時代・大空位時代が到来。この時期には、ますます諸侯たちが力をつけるようになりました。

「実力と正当性を持っている王権がないのは問題」として、有力諸侯たちで構成された選帝侯による選挙でハプスブルク家のルドルフがトップに選ばれたのでした。以後、選帝侯による選挙で皇帝が選ばれる時代が続きます。

ほぼ世襲性になった後も、結局、領邦の諸侯たちの力を抑えきれるほど皇帝が大きな権力を有するわけでもなく、政治的に不統一なままの状態だったのです。

結局なぜ神聖ローマ帝国で宗教改革が始まったの?

領主たちの力が強いうえに、これまでの経緯から諸侯と教会の結びつきの強さから聖職者の所領も多くあったようです。そのため、神聖ローマ帝国ではローマ教皇の言うことを素直に聞く諸侯が多くいたと言われています。

フランスだと1303年のフィリップ4世治世下において起きたアナーニ事件、スペインだと1478年のカトリック両王の時代に異端審問の権利を教会から獲得するような出来事を神聖ローマ帝国が起こすことはありませんでした。皇帝の権力があまり強くなかったためです。

一領主としてはスペイン国王や神聖ローマ帝国皇帝に着くほどで非常に大きかったのですが、挟撃される場所にあるフランスとは長年敵対中。内部の諸侯たちを敵に回すわけにはいかなかったとも考えられます。

そうした背景があったものですから、カトリック教会は他国に比較して好き勝手ふるまうことが出来ました。

そこで、ローマ教皇は神聖ローマ帝国で多くの贖宥状を乱発し、ドイツの農民たちからお金を巻き上げようとしたわけです。この神聖ローマ帝国の農民たちがローマ教会によってお金を吸い上げらる様子を牛から乳を最後まで搾り取る様子に例えて「ローマの牝牛」と言うようになったのでした。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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