宗教改革とは?ルターとドイツの宗教改革について詳しく解説!【1517年~】
宗教改革とは、16世紀のヨーロッパで起こった『キリスト教の改革運動』のことを指しています。当時のキリスト教を主導する立場だったローマ=カトリック教会の腐敗が進んだため、批判が起こったのです。
その批判の中心に立ったのがマルティン=ルター。
ルターは教会批判と共にドイツ語に訳された聖書を出版、信者を増やしていきますが、今回はルターがどんな主張したのか?神聖ローマ皇帝との関係、宗教改革による変化でどんな影響が起こったのかをまとめていきます。
マルティン・ルターってどんな人?簡単に
1483年にドイツのザクセン州出身の宗教改革の第一人者です。親からは法律家になるように育てられましたが、雷に打たれて死にそうになった経験から修道士になりました。「神に生かされたから信仰しよう」なんて思ったのかもしれませんね。
かなりストイックな修行の末に
魂の救いは善行によらず、キリストの福音(すなわちキリストの十字架の死によって人間の罪はあがなわれたという聖書の教え)への信仰によるとの確信を抱きつつあった
『詳説世界史研究』木村靖二・岸本美緒・小松久男編 山川出版より
と考えるように。「人の行いじゃなくて信仰が大事だよ」という考え方です。
贖宥状問題
一方、ローマ=カトリック教会では腐敗と堕落がどんどん進んでいました。
時の教皇はレオ10世。贅沢三昧をしたメディチ家出身の教皇です。サン・ピエトロ大聖堂建設のために贖宥状を乱発。中でも影響を大きく受けていたのがルターの住む「ローマの牝牛」と呼ばれた神聖ローマ帝国だったのです。
簡単に言えば「贖宥状を買えば罪が許される」というものですから、ルターは贖宥状の乱用に疑問を覚えます。ルターの考え方だと「贖宥状を買う(=行為)ことで救いを得られる」ことはあり得ない話だったためです。
そこで1517年に発表したのが九十五か条の論題。『九十五カ条の論題』ではカトリックそのものの批判というわけではなく、贖宥状の問題点について言及されていました。
ラテン語で書かれた一枚の文書でしたが、当時はルネサンスで活版印刷が改良され文書を大量印刷できるようになったこともあってドイツ語に翻訳されたその文書は、たちまちドイツ内で広まっていきます。この頃の識字率は大したものではなかったはずなのに、効果は絶大でした。
※宗教改革が起こった16世紀初めのドイツ全体の識字率が3~4%、都市部で約10%と言われています。ただし、統計によってマチマチなのでご了承ください。
救いを得たいがために贖宥状を購入するも、人々は実際のところ教会に対して不信感を持っていたようです。ルターによる「教会にお金を寄付すれば救われるのではなく、信仰によってのみ救われる」という教えは広まり続けました。
逆にビラが国中にばらまかれた教会側は、これまでさんざん贖宥状を売っておいてルターの批判を認めるわけがありません。撤回を要求しますが、自身の考えを曲げなかったルターは破門にされてしまいます。
ルターと敵対した超大物・カール5世と新宗派との関係とは?
一方で教皇とは別にヨーロッパ屈指の実力者・カール5世がルターと彼を支持する諸侯たちを警戒するようになっていました。
カール5世(神聖ローマ皇帝)(wikipedia)より
スペイン国王でありながら神聖ローマ帝国皇帝も兼任するなど華麗な経歴を持つ人物です。神聖ローマ皇帝のマクシミリアン1世の子・フィリップ美公と狂女フアナの息子としても知られています。
そんなヨーロッパ屈指の人物が1521年にヴォルムス帝国議会を開催して、ルターに主張の撤回を迫ります。が、この会議でルターは「自分の良心には背けない」とカール5世の要求を拒否したのです。
ルターは『帝国アハト刑』と呼ばれる刑に処されました。
法の保護から離れるというもので、殺されても略奪されても犯人は捕まりません。かなり厳しい刑罰です。
プロテスタントのはじまり
当時としてはルターの主張はかなり危険なものでしたが、彼の出身地ザクセンを治めるザクセン選帝侯フリードリヒがヴァルトブルク城に匿って事なきを得ると、その間に新約聖書をドイツ語に翻訳。1522年にはドイツ語訳された聖書が刊行されました。
※フリードリヒ自身はルターの信者ではなかったようです。
この聖書の刊行は、宗教改革にとって非常に大きな意味を持ちます。
ルターの言う信仰の根拠は「聖書のみ」を対象としたからです。聖書は「神の言葉」であって神の次に権威のあるもので「神と人との間に特権的な聖職者や建築物でしかない教会は介在させない」という感じです。ルター派の特徴的な考え方になってます。
耳の痛い部分に対する指摘だけでなく、「教会も聖職者も権威なんてないよ」「神の次に権威のある聖書のいうことを聞こうね」という考え方をしていたルターなので、ローマ教会が認められるわけがなかったわけですね。
母国語の聖書だけあって、それまでのラテン語の聖書より読める人が多く聖書を手に取りやすくなりました。文字を読める人による口述も盛んになったことでしょう。ルターの教えはどんどん広まって、騎士や市民、農民たちにも多大な影響を及ぼしました。諸侯の中からもルターを信仰する者が出はじめます。
彼らはやがて「抗議する者」を意味するプロテスタントと呼ばれるようになりました(1529年シュパイアー帝国会議以降)。
なお、ザクセン選帝侯フリードリヒの息子は匿っている間にしっかりと熱心なルターの信者に。1525年に父が亡くなると跡を継いだので、プロテスタントを信仰する諸侯の中心人物の一人として活動していくことになります。
こうしたプロテスタントの中から、帝国から分離しようとしたり帝国に反乱を起こしたりする者が出てきはじめました。その戦いが
- 騎士戦争(1522年)
指導者:ジッキンゲンとフッテン - ドイツ農民戦争(1524年~)
指導者:トマス・ミュンツァー
です。
最終的にどちらも鎮圧されていますが、農民たちによる反乱はドイツの約3分の2まで広がる大規模なものでした。
フランスとの諍い
農民戦争と同時期、フランスとイタリアを巡って戦った第3次イタリア戦争が起こっていました。農民による反乱が大規模なものになったのはフランスとの戦いも影響しています。
当時の国王はフランソワ1世。カール5世は生涯にわたって何度も戦っています。
フランスから見れば、国土をスペインと神聖ローマ帝国を統治するカール5世に挟まれる形になるわけで、どうしても譲歩できる相手ではありませんでした。そこでフランスが神聖ローマに対抗するために行ったのが
- ルター派への援助
- オスマン帝国との同盟
でした。オスマン帝国は当時のイスラーム世界の覇者ですね。
ウィーン包囲網(1529年)
見ての通り、ヨーロッパの結構奥の方までオスマン帝国は進出しています。当時、オスマン帝国を率いるのは帝国の最盛期を築いたスルタン(君主)スレイマン1世です。
この包囲戦で相手を撤退させることはできましたが、ハンガリーの大部分がオスマン帝国に支配され国境を接するようになります。イスラームの脅威をより身近に感じる出来事であり、国内を落ち着かせる必要性がますます増えていくのでした。
ということでカール5世は国内の混乱をできる限り抑える必要がありました。さらに、ローマ教皇が代替わりしてハプスブルク家の勢力拡大を恐れフランスに近づいたこともあって、カールは宗教改革を何とか抑え込もうとします。
新旧直接対決
そこで1530年。ドイツ南部のアウクスブルクの国会でカトリックとプロテスタントの和解を目指しますが、思うような結果にはなりませんでした。
ルター派の基本信条「アウクスブルク信仰告白」が公表されただけでなく、翌年にはプロテスタント諸侯と諸都市によるシュマルカルデン同盟が結ばれてしまいます(その中心人物の一人がザクセン選帝侯・息子です)。
※ちなみにシュマルカルデン同盟とフランス国王フランソワ1世は同盟を結んでいる。
その後はドイツ以外にもプロテスタントが広がるように。スイスでカルヴァン(本人はフランス出身)による、イギリスでは国王ヘンリー8世による新たな宗派が誕生していきます。
こうした問題を直視したローマ=カトリック教会は、1545年にカトリック教会の体制見直しをはかるためトリエント公会議を招集しました。この会議でカトリックの結束が強まったのを見て、翌年の1546~47年にシュマルカルデン戦争が勃発。いよいよ直接対決に突入したのでした。
※この時、例のザクセン選帝侯の資格を取り上げ、ザクセン選帝侯の分家出身の味方に褒賞として与えています。
神聖ローマ帝国/ドイツの宗教改革の行く末とは?
新旧の戦い・シュマルカルデン戦争がはじまると、カール5世は神聖ローマ以外で統治しているスペイン軍も投入(スペインはカトリック信仰国の代表的な国)。さらに、内部分裂までしていたうえにプロテスタント陣営は戦争中にルターの病死を聞き動揺が広がって戦いに敗北しています。
※カール5世が味方に引き込んだ新たなザクセン選帝侯は中心人物の妻の父親でした。
戦いに勝利したカール5世は一旦、カトリック優位でありながら新旧が共存できる範囲の仮条約を締結。これで終わりかと思われたのですが...
仮条約の締結
戦いに勝ったはいいものの、カール5世が戦いでスペイン軍を参加させた件が神聖ローマ帝国内の貴族たちからの反発を招いていました。また、共存できるような条約を結んだと言いながらもプロテスタントたちに高圧的な態度を取るカール5世に対して、味方に引き入れたはずのザクセン選帝侯が裏切ります。彼もプロテスタントであった為です。
その裏切りによる急な襲撃を受けたカール5世は逃亡しますが、皇帝を支持する諸侯はおらず孤独に苛まれていました。
戦争や疫病の流行で断続的に続いていたトリエント公会議でローマ教皇と歩調が合わなくなっていたため、カトリックを支持する諸侯もカール5世から距離を置いたためでしょう。この襲撃によってこれまでの勝利による優位性を失います。
※トリエント公会議でカール5世は妥協点を探っていたのに対し、教会はカトリックの教義を改めて確認してプロテスタントとの違いを強調させるだけになっていました。
カトリック/プロテスタントの最後落としどころとは?
そこでカール5世よりも穏健派の彼の弟、フェルディナントを間に挟んで新たな条約を結びました。仮条約の時よりも、より融和的なカトリックとプロテスタントの共存を目指したものとなります。
イメージとしては下のような感じです↓
強硬派 ←――――――――――――――→ 穏健派
カトリック教会 > カール5世 >フェルディナント
フェルディナント1世(wikipedia)より
この条約を結んだ裏には、度重なる戦争によるハプスブルク家の財政難も大きく影響していたようです。
この条約を受けて最終的にアウクスブルクの宗教和議が結ばれると、諸侯たちはカトリックかルター派かを選べる権利を獲得しました。領主の宗教がそのまま領地で信仰する宗派となったわけです。
領主と違う宗派の場合は臣民の『移住権』も承認していたり、帝国都市に限り二つの宗派の併存が認められていたりと、神聖ローマ帝国内の宗教事情はかなり複雑な状況になっています。
カール5世は条約締結に反対していましたが、どうにもできないことを悟りドイツを離れてネーデルラント(この頃はスペイン領)に向かいます。長年の戦いや持病、統治に疲れきったカール5世は退位を決意。神聖ローマ帝国を弟のフェルディナントに任せ、スペインを息子のフェリペに任せることにしました。
穏健派で条約を締結したフェルディナント1世の神聖ローマ帝国は、皇帝が旧教側に立ちながらもアウクスブルクの条約を順守していきます。カトリックの領地の隣がプロテスタントという場所も珍しくなく、これまでもバラバラになりがちだった領邦国家がよりバラバラになる契機にもなりました。
やがて領主間の対立は深刻化し、1618年には最大の宗教戦争・三十年戦争を引き起こしていくこととなるのです。