ドイツ

ハプスブルク家の最盛期を作ったカール5世(カルロス1世)の華麗なる家族関係<人物伝①>

歴ブロ

ヨーロッパ史でよく名前の出てくるハプスブルク家の最盛期を築いた人物として知られているのが神聖ローマ帝国の皇帝カール5世です。神聖ローマ皇帝だけでなくスペイン国王カルロス1世としても有名です。

カール5世
カール5世(wikipedia)より
  • 1500年―1558年(享年58歳)
  • 在位:1516年ー1556年【スペイン国王】
       1519年ー1556年【神聖ローマ皇帝】など

1500年にハプスブルク家と父フィリップ美公、母フアナの間に生まれた嫡男で、両親ともにヨーロッパでも名だたる名家出身のサラブレッドだったカール。当時は大航海時代が始まっており、その最前線のスペイン国王ということで本拠地のヨーロッパだけでなく海外領地も持っていました。

そんなカール5世について迫りたいのですが、彼の持つ家族歴なくしては語れません。最初にカール5世の家族関係をまとめた後、2回に分けて人物伝を本格的に始めようと思います。

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祖父母:マクシミリアン1世/マリー・ド・ブロゴーニュ

マクシミリアン1世
  • 1459年誕生-1519年死没(享年59歳)
  • 在位:1477年 – 1482年【ブルゴーニュ公】
       1493年 – 1508年【ローマ王】
       1508年 – 1519年【神聖ローマ皇帝】

神聖ローマ皇帝マクシミリアンと最初の奥さんマリー・ド・ブルゴーニュがカール5世の父方の祖父にあたります。フランス国王が王権を強める際に邪魔なブルゴーニュ公シャルル突進公の娘で、突進公が亡くなったことでブルゴーニュ公領を継ぐと、フランスとの対立もそのまま娘夫婦(マクシミリアン1世とマリー)が受け継ぎました。

神聖ローマ帝国と皇帝の権威は縮小した一方で、自身や子・孫の結婚政策にかかわりハプスブルク家の基礎を作りました。

なお、本人は「中世最後の騎士」と呼ばれ、あらゆる武芸に優れていたそうです。

祖父母:フェルナンド2世/イサベル1世

カトリック両王(Wikipedia)

フェルナンド2世

  • 1452年誕生ー1516年死没(享年63歳)
  • 在位:1479年ー1516年【アラゴン王】
       1474年ー1504年【カスティーリャ王/レオン王】

イサベル1世

  • 1451年誕生-1504死没(享年53歳)
  • 在位:1474年ー1504年【カスティーリャ女王】
       1479年ー1504年【アラゴン王妃】

カール5世や彼の息子のフェリペ2世が海外領地を手に入れていたのは、この母方の祖父母の功績が大きかった。レコンキスタを終わらせ、スペインを大航海時代の主役に据えたのがアラゴン王のフェルナンド2世とカスティーリャ女王のイサベル1世です。

クリストファー=コロンブスなどを支援して新大陸を見つけたことでヨーロッパの中でも豊かな国に育て上げました。

二人が結婚したことによりアラゴンとカスティーリャは連合王国となっています。スペイン史の中でも名君と呼ばれたときに真っ先に出てくる二人でしょう。

父母:フィリップ美公とフアナ

父がブルゴーニュ公フィリップ4世、母がスペイン王女フアナです。父親は容姿に優れていたことからフィリップ美公と呼ばれるようになりました。

二人に関して言えば功績はあまり知られていません。フィリップ美公においては母方の祖母イサベルから君主の資質に欠けるとぶった切られています。

ただ、狩りや槍試合のトーナメントが得意で華やか、話術も巧みなハプスブルク家の御曹司ということで非常にモテました。夫のモテっぷりと浮気癖に妻のフアナは精神的に追い詰められただけでなく、夫がスペイン滞在中に飲んだ水にあたって28歳で亡くなってしまったことで精神的な不安定さが加速。

本来ならフアナは女王となるはずが幽閉されてしまいます。祖父フェルナンド1世が存命のうちはフェルナンド1世がフアナの共同統治者として執政し、死後はカールがカルロス1世として共同統治者に立っています。

妻:イサベル・デ・ポルトゥガル

イザベル・デ・ポルトゥガル
イザベル・デ・ポルトゥガル(wikipedia)より
  • 1503年誕生ー1539年死没(享年35歳)
  • 在位:1526年ー1539年【スペイン王妃】
       1530年ー1539年【神聖ローマ皇后】

1526年にカールはイサベル・デ・ポルトガルと政略結婚しています。名前から分かるように、ポルトガルの王女様。父親がポルトガル国王のマヌエル1世、母親がマリア・デ・アラゴンです。

『アラゴン』ということで想像がついたかと思いますが、彼女の両親はアラゴン王フェルディナンド1世とイサベル1世。いとこ同士の結婚になります。

二人は政略結婚にかかわらず非常に仲睦まじく、5人の子供が誕生しました。そのうちの一人が後のフェリペ2世です。

戦い続きで夫がヨーロッパ中を駆け巡り、留守することが多い中で摂政を務めあげました。

弟:フェルディナント1世

フェルディナント1世
フェルディナント1世(Wikipedia/英語版)より
  • 1503年誕生―1564年死没(享年61歳)
  • 在位:1531年ー1564年【神聖ローマ皇帝】

スペインで生まれたフィリップ美公と狂女フアナの次男。

スペインで生まれ育ち母語がスペイン語ということもあってスペイン王位の継承を周囲から望まれていましたが、フランドル(ベルギー西部~オランダ南西部~フランス北東部)で生まれ育った兄カール(カルロス)と入れ替わる形でオーストリアに向かうことになりました。

二人の仲は生涯良好だったと言われ、カール5世が1529年に亡くなった祖父マクシミリアン1世の遺領オーストリアを弟に相続させたり、カール5世が晩年神聖ローマ帝国の帝位(生前に弟の子孫への帝位世襲も取り決めている)を継承させたりしています。

フェルディナント1世の妻・アンナ=ヤギエロ

フェルディナント1世の妻はアンナ・ヤギエロ。ベーメン国王兼ハンガリー国王の娘です。

弟のラヨシュ2世がベーメン王とハンガリー王についていましたが、ハンガリー対オスマン帝国によるモハーチの戦い(1526年)で戦死したため、フェルディナントが空位のベーメン王とハンガリー王につくことになりました。

オスマン帝国が第一次ウィーン包囲を行ったのは1529年。ハンガリー王となっていたため、当事者としてスレイマン1世と対峙し撤退させています。

以後、ハプスブルク家がベーメンとハンガリー国王を兼ねることとなります。ここから三十年戦争に繋がるわけですね。

そんな感じで、簡単に紹介できるだけでも名前の聞いたことのある人物がたくさん出てきます。もちろん本人も超有名人ですが。流石肩書だけで約70個も上がるお方です。

次回は、どんな生涯を送ったのかをまとめていこうと思います。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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