イスラーム教の成立と発展【7世紀初頭】<中東の歴史>
イスラム教が現在のサウジアラビアにあるメッカで成立したのは610年と言われています。
アラビア半島含む西アジアではササン朝(224~651年)とビザンツ帝国(395~1453年)が抗争を繰り広げ、シリアやアナトリア半島周辺が荒廃するようになっていた頃の話です。
なお、東では581年に隋が起こり、日本では聖徳太子が活躍、ヨーロッパでは西ローマ帝国が滅亡(476年)した後にフランク王国が起こったものの分裂したり統一したりを繰り返している真っ最中でした。イベリア半島は西ゴート王国、イギリスは七王国の時代です。
イスラム教が誕生した背景とは??
貿易の中継地点として栄えていたササン朝とビザンツ帝国の両地域では治安が悪くなったため、アラビア半島を迂回する交易路ができあがっていきました。
アラビア半島と言えば砂漠のイメージ。カンカンに照り付ける日光と生き物もいない過酷な環境が思い浮かびますが、これは日中のみの話。夜は気温が下がり快適に過ごせるだけでなく、障害物がないことで月や星が良く見え、方角を把握しやすく安全に行き来しやすかったとも言われています。
※方位磁針が生まれたのは11世紀の中国(同じ役割を持つ「指南魚」は3世紀頃の中国では使われていた)です
新たな交易路の確保と共に生まれたのが貧富の差の拡大による社会の分断です。社会が分断され行き詰るようになった時に人々が救いを求めるようになったことはイスラム教が受け入れられる素地となっていました。
イスラム教の誕生
メッカで生まれたのがクライシュ族のムハンマド。610年頃に唯一神アッラーの言葉を授かった預言者として自覚し、イスラーム教を誕生させました。
元々は既に信仰されていたユダヤ教やキリスト教と同じ一神教の概念を持った宗教です。
ムハンマドは富の独占を批判しており、商人の多いメッカでははみ出し者となります。迫害を受け、少数の信者と共にメッカの北部に位置するヤスリブ(後のメディナ)へ移住し、イスラム教徒の共同体(ウンマ)を建設しました。この移住は聖遷(ヒジュラ)と呼ばれています。
ここからイスラム教徒が大躍進を遂げることに。 貧富の差の拡大で宗教が受け入れやすい状況だっただけに、ムハンマドの教えはどんどん広がっていったのです。
やがて630年には無血でメッカを支配し、その支配を皮切りにアラブの諸部族はムハンマドの支配下に入り、アラビア半島の緩やかな統一を実現させました。
イスラーム教の特徴
神からムハンマドに下された啓示を集成したものをコーラン(「読むべきもの」の意味)と呼びます。 コーランは
- 礼拝
- 断食
- 喜捨
- 巡礼
など信仰に関わる部分だけでなく、
- 結婚離婚
- 遺産相続
- 豚肉を食すことは禁止
といった社会生活全般に至る社会・文化、さらには政治・経済などまで述べられており、あらゆる活動に関わる「生活の体系」として機能しています。
そうしたコーランの特性上、ムハンマドは宗教的権限と共に政治的権限も持つようになりました。
さらに教義の核心であるアッラーについては「アッラーが唯一神」で「ムハンマドは神の使徒であり、預言者は神ではない」と明確にされており、預言者に神性はなく「ただの人間」と表明しています(イスラム教ではイエス=キリストも預言者の一人とされている)。
やがてコーランと預言者の言業(=スンナ)に基づいてイスラーム法(シャリーア)がウラマーと呼ばれる知識人・学者層により整えられ、早い段階で知識や学問を広める土台が出来上がっていきました。
アラブ人による征服活動
632年にムハンマドが没すると、クライシュ族(4世紀頃~メッカ近郊を勢力圏として放牧や交易を行っていたアラブ人の部族)の長老アブー=バクル(ムハンマドの親友で近親以外で初の入信者)がイスラム共同体を率いるカリフに選ばれました。
彼はムハンマドが保持していた宗教的権限と政治的権限のうち政治的権限のみを引きついでいますが、共同体に入っていた他の部族はあくまで「ムハンマド個人と盟約を結んだもの」として即位したアブー=バクルの元から去っていきます。
そこでアブー=バクルは離反者を討伐。さらにアラブのムスリムのエネルギーを「肥沃な三日月地帯」の征服活動ジハードに振り向けることとしたのです。 このジハードでササン朝の軍隊を
- カーディシーヤの戦い
- ニハーヴァンドの戦い
で破り、シリア方面ではビザンツ帝国相手に
ヤルムークの戦い
で壊滅的な打撃を与えると、エジプトにまでその食指を伸ばし征服。ササン朝は滅亡し、エジプト・シリアからビザンツ帝国は撤退し、古代オリエント世界は完全に崩壊。イスラーム世界が誕生したのでした。