最後の御家人・三浦氏の排除・宝治合戦の背景と経過をわかりやすく
1274年、執権として幕府の実権を握っていた北条氏と共にその中枢を担っていた三浦氏との間に亀裂が生じます。源頼朝が亡くなって以降、御家人同士の争いを勝ち抜いていた北条・三浦・安達の家の間で争いが起こってしまいます。
今回は、最後の有力御家人同士の争い宝治合戦についてわかりやすく説明していきたいと思います。
宝治合戦とは
鎌倉幕府の実権を握っていた北条氏、その外戚関係にあった安達氏と有力御家人の三浦氏による1247年に起きた内乱の事を宝治合戦と言います。北条氏・安達氏 vs 三浦氏の構図になります。
結果としては、三浦氏は敗北しその一族は滅亡します。そして、鎌倉幕府内における北条氏の独裁体制が完成しました。しかし、この宝治合戦は、鎌倉時代の歴史書『吾妻鑑』にしか書かれていません。
宝治合戦が背景と原因
鎌倉幕府内で執権として実権を握っていた北条氏ですが、いつの時代も対抗勢力と言うものは存在するものです。
鎌倉幕府3代執権・北条泰時が亡くなると、4代目には孫・経時が継ぎます。
源頼朝が旗揚げ当時に比べると北条氏も大きな一族となっており、多くの分家が存在し経時が執権職に就くことを良しとしない一族も多くいました。それも3代執権・北条泰時自身が正室の子ではない家系の為に、正室の子の家系である名越家の光時が特に北条得宗家に対抗心を持っていました。
宮騒動
一方で、執権・北条氏の傀儡化としていた、4代目将軍・藤原頼経は成長するにつれて自分で政治を執り行おうと言う意思を持ち始め、反執権の考えを持つ勢力と組もうと画策し始めます。
そうなると困るのは、北条得宗家で執権・北条経時は、頼経に将軍職を辞任させることにしました。しかし、頼経は将軍を辞めても鎌倉にとどまり続けたので、幕府内で力を持ち続けました。
そんな時に執権家では、4代目北条経時が病に倒れ、弟の時頼に執権職を譲りそのまま死去してしまいました。
経時の死をチャンスととらえた名越光時は、同じ反執権派の前将軍らと協力して時頼を倒そうと画策します。しかし、その動きを把握していた北条時頼は、先手を打ち名越光時と前将軍・頼経は敗れてしまいます。
この騒動を宮騒動と呼ばれています。
宮騒動で頼家派の御家人は処分されましたが、三浦氏に限っていは特にそのような動きがみられなかった事で処分は免れました。
三浦氏では、義村の子・泰村の時代になっており、泰村自身は北条氏に敵対心はありませんでしたが、弟・光村は反北条派だった事で、宮騒動後に頼経が京都へ送り返された時に、涙ながら「いつか必ず鎌倉へお迎えいたします」と語ったそうです。
この時の様子を北条時頼に報告された事で事態が急変します。
宝治合戦の前兆
頼経派の弟・三浦光村の発言で「三浦氏が北条氏を滅ぼそうとしているのでは??」と言う噂が広まってしまいます。この噂自体、北条氏によるものではないかと勘繰りますが…
しかし、三浦氏当主・泰村は北条氏との和睦に努めました。
北条時頼も、三浦泰村の姿勢を信じ問題を平和的に解決しようとします。
しかし、1274年(宝治元年)に…
- 羽蟻が鎌倉を埋め尽くす
- 北条時盛の屋敷の上空を光物体が飛行
- 由比ガ浜が赤く血のように染まる(おそらく赤潮)
- 黄色の蝶が飛び回わる
- 津軽の海辺に人間の死体のような魚が漂着
と不吉と取れるような事が起こってしまいます。
この現象を見た人々が【三浦氏と北条氏の争いが起きるのでは??】と思い噂が流れたと言われています。
安達氏の暗躍(陰湿な嫌がらせ!?)
不吉なうわさが流れる中、北条時頼は三浦泰村の息子を養子にする約束をして和議が成立しました。このタイミングで、出家して高野山にいた安達景盛が25年ぶりに鎌倉へ戻ってきました。
この景盛が好戦的で、北条氏の外戚でもある安達氏は、三浦氏を討つように説得したり、息子の安達義景や孫・泰盛に「お前たちが不甲斐ないから三浦にしてやられるのだ!」と叱責しました。
ある日に、鶴岡八幡宮に「三浦泰村は将軍家に背いて好き勝手やっているので、近いうちに討伐されるであろう」と札が立てられます。また、泰村の家の前に「最近不吉な事が続いているのは三浦泰村が討たれるからだ」と言う落書きがされます。
これらは三浦氏をよく思わない安達氏の仕業だと言われています。
そんな不穏な空気の中でも時頼は最後まで泰村に和議を持ち掛け泰村もそれに応じていたようです。
しかし、心労が祟り三浦泰村は食事が喉を通らなかったとされています。
宝治合戦の始まり
せっかく平和的に治めよと努力してきた北条時頼と三浦泰村でしたが、安達景盛率いる安達氏の奇襲で宝治合戦が始まってしまいました。
北条・三浦氏の努力で事態が収束していくのをよく思わなかった安達景盛は一族に三浦氏の攻撃を命じます。
奇襲に驚いた泰村でしたが、すぐにこれは時頼によるものだと判断し、迎え撃つ準備をします。こうして合戦が本格化すると安達氏と三浦氏に味方するそれぞれの御家人が終結し、鎌倉は大混乱に陥ります。
こうなってしまっては、せっかく結んだ和議も意味を成しません。北条時頼は仕方なく弟・時定に泰村を討つように命じました。
宝治合戦の経緯と三浦氏の最後
1247年7月8日に三浦泰村の館への攻撃は、明け方に始められましたが、昼過ぎには風向きが変わり屋敷に火が放たれました。泰村一行は、初代将軍が眠る法華堂に向かいました。そこには、弟・光村も合流し500人余りの将軍派の御家人が集まりました。
光村は、自害しか残されていな状況を悔やみながら、太刀で自分の顔を削り「この顔は私とわかるか??」と兄・泰村に尋ねたと言います。泰村は「お前の血で亡き頼朝公の墓前が汚れるからやめなさい」と終始冷静な姿勢でした。
長年北条氏の外戚として補佐をしてきたのに、自分たちを陥れる噂によって罪人として攻め滅ぼされる恥を与えらえ、恨みと悲しみが深い。しかし、父・義村は多くの他の一族を滅ぼしてきたのでその報いなのだろう…もうすでに冥途へ行く身なので今更北条氏に恨みはない
と言い残し三浦泰村は自刃しました。
そして、法華堂に集まった一族500人余りも共に自害しました。また、妹婿だった千葉氏も戦に敗れ自害した様です。
宝治合戦のその後
三浦泰村は妻に、合戦前に北条時頼から送られた和議の書状を無くさないように託していました。宝治合戦後にその書状を時頼に返却しています。
合戦自体北条氏が望むものとの見方もあるが、和平派と強硬派のせめぎあいの末の北条側の強硬派による開戦とされています。強力ともされた三浦武士団は、光村が武力行使を主張するが当主・泰村が和平路線を模索してたので、最後まで抵抗らしい抵抗もなく一族は滅亡しました。
幕府創世記の有力豪族・三浦氏の滅亡により将軍側近勢力は一掃されて、御家人の合議の上での執権政治が終わりをつげ北条得宗家による専制執権体制が確立しました。
その後の三浦氏は、北条泰時の三浦氏からの前妻は生き残り、その子供たちが三浦姓をなのりお家を再興しています。また、三浦氏側に付いた毛利李光は、越後に居た四男が生き残り、後の安芸毛利氏へと続いていきます。
この事件後の大きな変化としては…
頼朝以来の有力御家人・三浦氏が滅亡した事により合議制による執権政治から北条得宗家による専制執権政治に移行していき、北条得宗家の独裁体制が確立されました。