北条氏に殺されたのか??悲劇の二代目将軍・源頼家の暗殺劇
鎌倉幕府は、江戸幕府のように絶対的権力者である将軍がいたわけではなく、あくまでも武士団を代表する位置づけにすぎませんでした。その地位を担保していたのが、御恩と奉公でした。
そのため、源頼家が将軍になる頃には鎌倉殿が居なくても幕府が機能するという事に気が付いていました。
平安時代末期の平氏との戦いでは、源頼朝のようなシンボル的な存在が必要でしたが、朝廷から政治の実権を奪取した、今となっては将軍は実権を持たずともそれを補佐する御家人に政治を任せればよくなっていたのです。
源頼朝の急死と頼家の二代目・鎌倉殿就任
そんな状況の鎌倉で、1199年に源頼朝が急死しました。
頼朝亡きあとの二代目鎌倉殿は、嫡男の頼家が既定路線でしたが、まだ18歳の若輩者にすぎませんでした。若き頼家は、父に習い鎌倉殿主導の幕府運営を行おうとしますが、わずか3か月で権力が制限されることに…
二代目・鎌倉殿の頼家の暗愚ぶりは吾妻鑑ではいくつも紹介されています。
所領の境界をめぐる決裁では、何も調べずに地図の中央に適当に線を引き「所領の広い、狭いはその人の運しだいだ。いちいち見聞する必要はない」と言い放っており、鎌倉殿の13人でもその描写がされています。
土地領有は御家人にとっては非常に重要な問題で、こうしたいい加減な決裁を行ったものだからこの時点で将軍は失格で有力御家人の不満を買う事になるのでした。
また、私生活でもその権力をかさに着て無茶苦茶な事をやっています。
頼朝時代からの側近・安達盛長の嫡男・景盛が美人妾を持ったと知った頼家は、景盛に仕事を命じ遠くに出張させて、その留守中に妾を強奪し、ついでに景盛を討とうとしました。この横暴にはさすがの北条政子も必死で止めたと言います。
また、政務をほったらかしにして蹴鞠にハマっていた頼家を政子がとがめますが、全く聞き入れなかったそうです。
こうした頼家のダメダメぶりを記した『吾妻鑑』は、北条氏の立場を正当化した書き方がされている可能性が高いので「こうしたダメ将軍だから降ろして殺されたんだよ」と思われて仕方がありません。
側近・梶原景時の追放と阿野全成の粛清
将軍の専横政治が止められると、次の起こるのは御家人同士の権力争いで、まず排除されたのが梶原景時でした。景時は、頼家の側近となっており信頼されていました。
この事件のきっかけが、阿波局と言う女性の告げ口でした。
その阿波局と言うのが、北条時政の娘で政子の妹であり、頼朝の弟・阿野全成と結婚していました。
この全成と言いう人物は、ドラマとは違い坊主のくせに荒くれ物で悪禅師と呼ばれていました。こうした全成の行動と言動は目に余ることから、景時の件もあり頼家は全成を謀反人としてとらえ、流配の後誅殺しました。
景時追放のきっかけを作った阿波局も頼家は捕らえようとしますが、北条政子が全力で止めた為、難を逃れています。こうして頼家 vs 時政・政子・義時の対立が急速に進むことになります。
源頼家の重病と比企能員の乱
全成の呪詛が効いたのかは定かではないが、二代目鎌倉殿・源頼家は若くして病に伏してしまいました。
蹴鞠に興じ、好色で女漁りをするほどの若い22歳の青年が、急病となりその容体はかなり悪く、母・北条政子も息子の死を覚悟していたくらいでした。これには、北条氏が毒を持ったのではないかとも考えられています。
そこからの北条氏の動きは機敏で、速攻で実朝を三代目鎌倉殿にしようと動き出します。しかし、比企能員が、頼家の嫡男・一幡を担ぎますが、北条時政に謀られ暗殺されます。
能員を討った時政は、義時を比企邸に向かわせ襲撃させ、比企一族と頼家の長男・一幡を含めた比企氏を全滅させました【比企能員の乱(変)】。
まんまと比企氏を滅ぼした北条時政は、こうして鎌倉の権力を掌握するかに見えましたが、さらなる試練がまち受けていました…
源頼家の幽閉と暗殺劇
比企氏が滅亡した数日後、瀕死の状態であった頼家が奇跡的な回復を見せたのです。
目を覚ました頼家が一番最初に耳にするのが比企氏の滅亡と一幡の死でした。最愛の息子と最大の後ろ盾を失ったのですから、病み上がりの頼家には悲しみのあまり悶絶するしかありませんでした。
鎌倉殿の13人でもあったように、比企氏と一幡を排除した北条一家の何とも言えない、その表情は「後継ぎは千幡に決定したのに、なぜこのタイミングで回復するのか…」と言いたそうな感じでしたね。
死の床にあった息子を取るか、実家である北条氏を取るかで悩んだ政子は、すでに北条氏を選択していたとはいえ、子を思う母の胸の内は察するに余りあります。政子が頼家の悲しみ寄り添おうとしたのはあると思います。
一方の頼家は、比企氏滅亡と一幡を消した北条時政の討伐を決意します。
しかし、これを命じたのが実行犯の和田義盛と仁田忠常だったのです。
鎌倉殿直々に討伐の命を受けた、和田義盛はすぐに北条時政に知らせると時政は政子に頼家の鎌倉追放を命じます。同じ命を受けていた仁田忠常は、時政にチクるのをためらった事で頼家側に付く様子がありとして北条義時に殺されてしまいます。
こうなるともう頼家に残された道はありませんでした。
北条政子の勧めで出家するしか道はなく、将軍職を解かれ伊豆の修禅寺で軟禁状態を余儀なくされてしまいました。修禅寺の生活は侘しく、しばしば政子に手紙を送っては生活の愚痴などを書いていたようです。面会も、監視役の三浦義村だけで軟禁生活は孤独でした。
1204年の夏のある日、入浴中の頼家を刺客が襲いました。
刺客の送り元は不明とされていますが、犯人は皆が想像ついていると思います。
病気で臥せっていたとはいえ、元武家の棟梁の頼家は激しく抵抗しました。しかし、最後はあそこを斬られて息絶えたと言います。享年23の若さで、2代目鎌倉殿のとしては悲しく哀れな最期でした。
頼家暗殺劇の翌月に北条時政は、大江広元ともに政所別当に就任します。
3代目鎌倉殿には源実朝(千幡)が就任しますが、まだ12歳の少年で合議制も機能しなくなった今では、後見人である北条時政が鎌倉殿を盛り立てることになります。
こうして、北条時政が鎌倉殿の代理人=執権として鎌倉幕府の実権を握る事になりました。
この時、時政は60歳半ばの事だったと言います。