安土桃山時代~江戸時代前期までの日本と世界の流れを見てみよう
江戸時代末期以降、日本は欧米諸国とのやり取りや中国の状況に対する危機感から明治維新が起こり近代化の道へと進みます。が、欧米諸国は欧米諸国でそれぞれの歴史の流れがあった上で、日本や中国(清)とも接触を図っているわけです。
近代日本史を学ぶにあたって欧米諸国の流れも何となく分かっていれば頭への入り方が変わると思うので、日本が安土桃山~江戸時代だった頃の世界がどんな感じだったのか、どんな絡みがあったのかを欧米諸国を中心に流れをまとめていきます。
日本の出来事
戦国時代の三英傑といえば織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三名。
徳川家康は江戸時代を築いた張本人。そのため、「神君」と崇められていたこともあって江戸時代に『三英傑』という言葉で並び称されることはなかったのですが
織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川
なんて狂歌が江戸時代の後期に生まれる位には天下統一に導いた三人として名を馳せていました。そのうち、織田信長・豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代を安土桃山時代と呼んでいます。
まずは安土桃山時代の政権から見ていきましょう。
織田信長政権で行われたこととは?
三英傑の中で最も早くに統一に手が届きそうだったのが織田信長。頭角を現したのが戦国時代というだけあって戦乱が多く続いていました。
戦には資金、武器、食糧・・・色んなものが必要です。そこで着目したのが南蛮貿易(スペイン・ポルトガルなどとの貿易)でした。新しい物の流入は経済の活性化を促します。経済面の他に忘れてはいけないのが最先端の武器・火縄銃。火縄銃は火薬を燃焼させて弾丸を発射させる火器を指しています。
ところが、この火縄銃。本体は日本でも作れたのですが、発火に必要な火薬の材料・硝石が湿潤多雨な日本では殆ど産出せず手に入れるのに苦労しました。
※硝石となる硝酸カリウムと呼ばれる物質は水に溶けやすく植物に吸収されやすいため、「雨がかからない」「植物が生えていない」といった環境が必要。
硝石を糞尿の混じった土から作る方法(古土法)もありますが、一度作ると40~50年待たなければなりませんでした。その上、出来上がりも少量。
天然の硝石が採れる場所はスペイン・イタリアなどの南ヨーロッパ、中国内陸部など。当時の明(中国)は倭寇の影響で日本との交易を禁止していたので、ポルトガルの仲介で明から硝石を購入しています。
また南蛮貿易に関わってきたキリスト教の宣教師たちですが、戦国時代には仏教勢力に手を焼いていたこともあって牽制する意味でも歓迎されていたようです。
その甲斐あって天下統一…と行きたいところでしたが、信長は道半ばで明智光秀の謀反(本能寺の変)により命を落とします。この異変に気付いて真っ先に戻ったのが光秀と同じく信長の部下の一人だった秀吉でした。
豊臣秀吉政権下で行われたこととは?
信長が倒れた後、明智光秀を倒して織田家の主導権争いを制して全国を統一したのが豊臣秀吉です。
土地を整備して長い間ごちゃごちゃしていた土地制度から生まれた荘園を太閤検地でなくすことに成功。また、刀狩など様々な施策も実行していきます。
これらの制度によって財政基盤が安定して全国一律の土地支配が可能となった他、農民から武士になるなどが困難となったため身分制度の礎を築くことに繋がりました。更に付け加えると、武器を取り上げたことは戦国時代から頻発した一揆防止にも一役買ったわけです。
※荘園が出来た簡単な経緯は『武士はどのようにして生まれたのか?』に載ってます。
そんな秀吉の政策のうち海外との絡みで特記することと言えば、バテレン追放令と朱印船貿易、そして文禄・慶長の役が挙げられます。
バテレン追放令とは?
元々秀吉は南蛮交易などに対して寛容だったのですが、1987年6月に突然キリスト教の布教を禁止し宣教師の国外追放を命じるバテレン追放令を出しました。バテレンはポルトガルで『神父』を意味する言葉です。
なぜキリスト教に寛容だった秀吉が意見を急に変えたのか・・・その答えはキリスト教が広がっていた地域に隠れています。
詳説日本史図録 山川出版社より
キリシタン大名やイエズス会の教会施設、教育機関などが九州に集中しているのが分かります。バテレン追放令が出される2か月前まで秀吉が九州平定を行っていたのです。
実はこの九州平定の時に事実を目の当たりにして秀吉の中にキリスト教への不信感が募るように。
※後述しますが、当時のヨーロッパでは奴隷貿易が成立していました
一揆が頻発していた戦国時代、特にてこずったのが一向一揆など宗教由来のもの。信徒(武将含む)を中心とした一揆でしたが、大名が主導したらどうなるでしょうか??
土地を改修して寄進するほど入れ込んでいるのをみると危機感を持たざるを得ません。最悪、植民地化の足掛かりになりかねないというわけです。そういった事情もバテレン追放令を出した背景にあったと言われています。
が、実際はキリスト教の布教と貿易が切っても切れない関係で宣教師によって貿易が成り立っていたため、徹底したバテレン追放を行うことはありませんでした。
朱印船貿易とは??
朱印船貿易とは海外渡航許可証である朱印状を持った朱印船を対象として行われた貿易のことです。室町時代の琉球貿易でも行われていましたが、本格的に始まったのは豊臣政権下だと言われています。
上述したように明は日本に対して海禁政策を行っていましたので、朱印状を持った船に限り東南アジアで中国との貿易を行っていました。日本人街が出来ていたほどなので当時の盛況っぷりが想像できます。朱印船貿易は江戸時代に入り鎖国の方針が取られるまで続きます。
文禄・慶長の役とは?
1592年~93年までの文禄の役と97年~98年の慶長の役を合わせた戦役の総称です。近年では歴史問題に絡んで『壬申戦争』という呼称が出てきてますが、以前は朝鮮出兵なんて呼び方もされていました。
何故朝鮮への出兵を実行したのか、かなり複数の説があってはっきりと分かっていませんが、明を見据えた出兵だったのは確かなようで明は朝鮮に援軍を出し日本軍は朝鮮+明軍と戦いました。
その理由として
- スペインからの侵攻を守る説(豊臣秀吉が朝鮮出兵をした本当の理由ではスペインからの侵攻を大義名分にした明に対する支配欲があったのでは?説をメインに解説しています)
- 日本国内の領地不足を補う説(←オールカラーでわかりやすい戦国史 西東社)
- 耄碌説
なんかも言われています。
結局、攻めている最中に秀吉が亡くなり戦が中断。日本ではこの戦いで戦費と兵力をつぎ込み政権衰退の一因となり、最終的に徳川家康が天下人の地位をつかみ取りました。
江戸時代前半にあったことを見てみよう
江戸時代が始まったのが徳川家康が征夷大将軍となった1603年。今回は江戸時代前期を1680年頃と仮定して、何があったのか凡その流れを掴んでいこうと思います。なお、5代将軍徳川綱吉が将軍に就いたのが80年です。
江戸時代前期に行われた政策とは?
江戸時代が始まったばかりの頃は、家康に従わず(名目上)秀吉の地位を継承していた秀吉の子・豊臣秀頼が大阪城にいたこともあって、大坂の役【大坂冬の陣・夏の陣】といった戦も発生したりしていました。
その裏では着実に全国支配の制度が整えられていきます。おおよその土台が3代将軍までに作られ、その後安定した政権を築き上げていきました。
鎖国は基本的に出るのも入るのも禁止されています。幕府ではどんな人が働いていたのかは、江戸幕府の支配の仕組みをご覧ください。
江戸時代前期に起こった災害とは?
中期以降は自然災害が頻発して幕府の財政に影響を及ぼしているので前期の災害事情についても触れますが、前期の場合は(中期以降に比較すると)多少少なかった。ただし
- 寛永の大飢饉(1640年~1643年)
西日本で広まった牛痘、全国的な異常気象、蝦夷地の駒ケ岳の噴火で陸奥国が降灰の影響を受けて凶作になるなどして農政の転換を迫られた - 明暦の大火(1657年)
江戸城の天守も消失する程の大火が発生して江戸の都市計画や消防制度に影響を与えた
といった後の行政に影響した災害も発生しています。
※地震はどの時期も多いです。前期は特に1605年に起こったとされる慶長地震、1611年の会津地震が被害が大きいとされています。
世界で起こった出来事を見てみよう
まずは豊臣秀吉による文禄慶長の役を戦った明がどうなったか。そして今後重要になるヨーロッパの流れを追っていこうと思います。
なお、西ヨーロッパを語るのに『宗教改革』は避けられませんので江戸時代より遡った時代から解説していきますのでご注意ください。
中国で起こった出来事とは?
明は以前から北虜南倭(北のモンゴル系民族と南の倭寇)に悩まされていた中、戦が勃発。秀吉が朝鮮に攻め込んだ当時の明には政治を顧みない皇帝がその地位に即位していました。そんな皇帝が(長い目で見て)自国を守るためとはいえ他所の国に軍や軍事費をつぎ込むとどうなるでしょうか?
わりと中国ではお決まりのパターンですが、資金確保のための銀山を開く名目で民衆から増税し、税金の大部分を宦官が懐に入れた上で本当に必要な資金を投入。増税や腐敗に苦しんだことで民衆は各地で反乱を起こし衰退していきます。この混乱を収めたのが北方の女真族で、1616年に新国家の清を満州の辺りに建国しその後長い間中国の王朝として君臨することとなりました。
十字軍の遠征
舞台は変わってヨーロッパ。江戸時代より更に前の11世紀頃(日本だと平安時代)から大規模な西ヨーロッパ拡大が始まりました。これが十字軍の遠征です。
イスラム勢力の圧迫を受けていた国が西ヨーロッパ世界に助けを求めたこと、キリスト教とイスラム教の共通の聖地をイスラム教徒が独占したために奪還を試みようとしたことが始まりでした。
十字軍の遠征の結果は失敗。結果、ヨーロッパがどう変化したかというと
- 言い出しっぺのローマ教皇の権威が低下
- 指揮をした諸国の国王たちの権威が高まる
- 十字軍の移動により都市が繁栄
→ 軍需物資の取引等で貿易が盛んに
こんな感じです。そもそも十字軍の遠征を行ったという事実はヨーロッパ世界が大規模な遠征を何度も行える程の余裕が社会全体にあったことを意味します。
というわけで、この頃の貿易は地中海から東方へ行くルートだけでなく、北ヨーロッパ商業圏(北海・バルト海沿岸)との貿易も確立されて行きました。この北ヨーロッパとの貿易で今のオランダの辺りにも海上交通路が通っていたことが、後の貿易大国への布石となります。
↑シャンパーニュ地方:定期市、フランドル地方:毛織物産業が有名で繁栄した。ロンバルディア同盟は共通の利害の為の都市同盟。ハンザ同盟もロンバルディアと同様の目的で作られたが、14世紀には北ヨーロッパ商業圏を支配するほどの大きな政治勢力に拡大した。
教会の権威の失墜によって起こった出来事とは?
教会は・・・というと、権威が取り戻そうと立て直しを図ろうとする運動が始まったのですが、逆に批判と捉えて無茶な弾圧等を行います。いわゆる魔女裁判や異端審問もその一種です(魔女裁判が行われた理由には弾圧以外の理由もありました)。
決定的になったのは1513年にローマ教皇に就任したレオ10世の時代。
教会が行う施しや聖堂の改修といった活動のため、困難にあって巡礼できない者のために出していた贖宥状(罪の償いを軽減させる)を乱発し安易な集金手段として使われるようになっていたのですが、レオ10世の時に更に酷くなったのです。
教会は贖宥状を販売する際に
ありとあらゆる罪を免れる
と、今でいう誇大広告を打ち出し、ローマのサン=ピエトロ大聖堂の新築資金のためと言って売り出しました。これに待ったをかけたのがルターという人物。ルターは敬淑なキリスト教徒で「ありとあらゆる罪」っていうのはおかしいじゃないかと指摘しただけのつもりが、教皇側は指摘を批判と受け取り騒ぎが大きくなってしまいます。
というのも貿易の中心地・イタリアの豪商出身だったレオ10世は自身の贅沢な生活のための借金を返済するため贖宥状を乱発する事態になっていたのが理由だったため(←ルターは知りません)。
※メディチ家が何故芸術に投資するようになっていたのかは「成金」からイタリア芸術を大きく育てたメディチ家の歴史(外部サイト)が分かりやすかったです。
また、ルターの出身地であるドイツでも最高聖職者、兼、政治的にも重要なポストに就く際に必要な献金のための資金を得る目的で多額の借金を負ったお偉いさんが借金取りと共謀して贖宥状を乱発していました。
※ちなみにこの借金取りはレオ10世にお金を貸した人と同じ人。
人間痛いところを突かれると怒ってしまいがち。後ろめたいことがあったので批判と捉えてしまうのも無理はなかったかもしれませんね。
この出来事をキッカケに宗教改革が始まり、カトリックとプロテスタントに分かれました。
こうして分裂された側のカトリック教会は影響力を低下させ、後に「布教」という形で外に向けた活動をすることになったのです。中でも布教活動に熱心だったのは、イスラム圏と一悶着あって国土回復運動(レコンキスタ)を行ってきたスペインとポルトガルです。ここから大航海時代が始まり、アメリカ大陸が発見されました。
※今回は日本史との絡みで宗教をメインに説明していますが、大航海時代のキッカケは他にも交易ルートの開拓という別の側面も有しています。詳しくは『大航海時代のキッカケになった出来事』も参考にしてください。
日本に初めてキリスト教を伝えに来たイエズス会のフランシスコ=ザビエルもスペイン出身。ザビエルさんは結構日本のことを高く評価してくれていたそうで、その言葉が後々のペリー来航を決心させたとか。歴史は繋がっております。
紆余曲折を経てキリスト教を警戒した日本が布教メインのスペイン・ポルトガルとの交流を絶ったのには、そういった裏事情があったようです。
その後の各国の動向は簡単にまとめると以下の通りです。
ヨーロッパにおける経済面での変化
そのうち東南アジアでの香辛料貿易を巡ってイギリスとオランダで一悶着おこします(1623年/アンボイナ事件)。この時は結局オランダが優位性を確保したため、イギリスはアジアとの貿易の中継地を南アフリカのケープ植民地に求めました。加えて、イギリスはインド経営にも力を入れるように(南アフリカからだと日本までかなり遠くなって採算が合わなくなります。結局日本からは撤退しました)。
更に両国で起こった3度のイギリス=オランダ戦争(1652~54年)ではイギリスが優勢に立ち、そのまま17世紀末には世界貿易の派遣争いでかなり優位となっていました。
また、17世紀に入るとヨーロッパでは凶作・不況・疫病・人口停滞などに見舞われ、半ばになると社会や経済全体に及ぶ危機の時代に突入。この危機を経てヨーロッパでは国家が経済に介入して自国を富ませる重商主義と呼ばれる経済政策をとるようになります。
この重商主義は、ヨーロッパから植民地を求めてアメリカやアジアへの進出するキッカケとなりました。
三角貿易の成立
一冊でわかる イラストでわかる 図解 世界史より
アメリカ大陸へ進出後、ヨーロッパでは茶やコーヒーが飲まれるようになり砂糖の需要が増加。ブラジルや西インド諸島でサトウキビのプランテーション(大農園)が開発され始めます。
プランテーションの開発には多くの人手を必要としますが、アメリカ大陸ではヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病や過酷な労働により先住民の人口が激減した状態でした。そこを補ったのがアフリカの黒人奴隷で18世紀後半に最盛期を迎え19世紀まで続いていきます。
この三角貿易ではイギリスやフランスなどに大きな利益をもたらし、後の産業革命の原動力となる一方でアフリカの西海岸の被害は甚大で現在まで影響を及ぼす一因となりました。