開国から幕末までの流れ 2 江戸幕府終焉~廃藩置県
まずは、流れを掴むために年表を…
年月 | 出 来 事 |
1865年 4月 | 第二次長州討伐 |
1866年12月 | 慶喜が15代将軍になる。 |
1867年 6月 | 薩摩と土佐が討幕の密約を結ぶ |
10月 | 朝廷が大政奉還を受理する |
12月 | 王政復古の大号令 |
1868年 1月 | 鳥羽伏見の戦い |
3月 | 五か条の御誓文発布 |
4月 | 江戸城明け渡し |
9月 | 明治へ改元 |
10月 | 榎本武明函館五稜郭を占領 |
1869年 | 版籍奉還 |
3月 | 東京へ遷都 |
5月 | 五稜郭の榎本降伏、戊辰戦争終結 |
1871年 | 廃藩置県を断行 |
第二次長州討伐
長州藩が反幕府派の高杉晋作により実権を握られたため、再び幕府に反抗的な態度を示していきます。そのため、幕府は再び長州を討伐します。
しかし、薩長同盟の密約により薩摩藩が出兵を拒んだため、幕府軍は長州藩に攻め込むことができずに不利になります。その時に、将軍家茂が急死したため幕府は長州征伐を中止します。
15代将軍に徳川慶喜が就任すると、政治改革に意欲を見せますが、公武合体派の光明天皇が急死したことで、幕府は痛手を負うことになります。
大政奉還と江戸幕府の滅亡
慶喜は、幕政の立て直しに尽力しますが、薩摩・長州藩には討幕の機運が高まっていました。その中で、坂本龍馬と後藤象二郎が土佐藩山内豊重を通じて将軍に政権を返すように働きかけていました。竜馬らは、朝廷の下で慶喜を含めた諸藩の連合政権。公儀政体論を構想していました。
将軍・慶喜は土佐藩主の意見を受けい入れて、大政奉還を行いました。慶喜は政権を返上しても徳川の主導権は維持されると考えての事でした。
しかし、この時に別の思惑が密かに進んでいました。武力討幕派の薩長にとって徳川が政権に残る大政奉還は歓迎できない出来事だったのです。
薩長と結んでいた推進派の公家岩倉具視は、大政奉還を受け入れたその日に討幕の命令を密かに宣下をしました。
大政奉還の一か月後には、坂本龍馬が暗殺されてしまいます。薩長両藩は、大政奉還を実現させた竜馬を暗殺する動機は十分ですが、竜馬暗殺には色々な説があるのでその限りではありません。
竜馬死後薩長は、主導権をしっかりと握り、王政復古の大号令を発して、徳川抜きの新政府樹立を進めていきます。天皇の元に総裁・議定・参与の三職が置かれて、260年以上続いた江戸幕府が終焉します。
江戸城無血開城
王政復古と言うクーデターで、幕府が滅亡という形になりました。江戸幕府滅亡=幕末の終了という見方もありますが、ここでは少し先に進みます。
王政復古の大号令で処分の対象となった将軍慶喜は、大阪城に一度戻り京都へ向けて兵を出します。これが鳥羽伏見の戦いです。
この戦いで兵の規模が三分の一程度だったのにもかかわらず、新兵器を導入した新政府軍があっさりと勝利します。敗れた幕府軍と慶喜は、密かに江戸へ退却します。
徳川を滅ぼすつもりの新政府は、追撃のため江戸へ向かいます。
江戸への総攻撃を前に、幕臣勝海舟と西郷隆盛の会談が実現します。この会談で、江戸城は無血で明け渡されることになりました。俗に言われる江戸城無血開城です。
この決定に不服の者が上野に立てこもりましたが、すぐに鎮圧。会津や東北諸藩の抵抗や榎本武明らの五稜郭占領もありましたが、新政府軍の前に降伏します。
この一連の争いを戊辰戦争と呼ばれています。
戊辰戦争の中、新政府は新政権が成立したことを内示して政治方針である五か条の誓文を発します。
江戸は、東京と改められ元号も明治とされました。
明治以降、天皇一代が一元号とする一世一元の制を立てることになる現在に至ります。
会津戦争が終わりを迎えるころ、天皇は東京へ外出します。その天皇がそのまま東京にいたことを受けて東京への遷都が断行されました。
これは、五か条の誓文にも書かれている通り、旧習を一新して政治を進めていく新政府の決意でした。
五か条の誓文
- 広く会議を開き、天下の政治は人々の意見によって決めるべきである
- 身分の上下に関係なく、心を合わせて政治を行うべきである
- すべての者がそれぞれの志を逐げ、人々の心を退屈させないようにすることが大切
- これまでの悪習をやめ、世界の道理に従うべきである
- 外国からの知識を取り入れ、天皇が国家を治める事業の基礎を盛んにすべきである
内容としては、徒党や強訴の禁止などの庶民への心構えが示されました。
版籍奉還からの廃藩置県へ
明治政府がすぐに着手したのが、天皇を中心とする政権体制を固めることでした。そこで政府は、諸藩に領地と領民を天皇に返還させました。
これを版籍奉還と言います。
初めに薩長土肥が手本を示し、他の藩がそれに従いました。明治初期には二官六省が置かれましたが、政治を動かす参議のほとんどが薩長土肥の出身者でした。
しかし、旧藩主が藩政に当たっていたため、新政府の体制強化にはさほど効果がなく、藩の反発も強くありました。
そこで政府は、廃藩置県を計画します。
西郷隆盛を中心として薩長などから政府直属の軍を集め、軍事力に物を言わせて藩の権限を奪うことにしました。
結果、諸藩の大きな抵抗もなく廃藩置県の計画は上手くいきました。
おそらく、ほとんどの藩は財政赤字で抵抗する力が残っていなかったのでしょう。また、外国に対抗するには、中央集権主義が必要だとも理解していたのです。
この廃藩置県の断行により幕藩体制が完全に終結しました。
全国は、府県の行政単位に統一されて、政府から新たな府知事・県令が任命されて集権国家体制が確立していきます。