日本史

簡単にわかる!王政復古の大号令とは?<1867年12月9日>【幕末史】

歴ブロ

今回、解説していく王政復古の大号令は、討幕派にとって非常に厄介な一手である『徳川慶喜による大政奉還(1867年10月14日に)』を無力化するために行われたクーデターで発せられた新たな政権設立の宣言のことです。

「日本の政治を天皇トップの体制に戻しますよ」という内容が示されました。

大政奉還が、なぜクーデターを引き起こされるほど厄介な政策だったのか?結果、何が起こったのか?簡単に解説していきます。

 

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大政奉還とは?簡単に解説

過去記事に大政奉還の時代背景や目的を記した記事があるので、今回は簡単にまとめます。

大政奉還とは、徳川慶喜が自ら朝廷に政権を返上した出来事のこと。大政奉還により長い江戸時代は終わりを遂げました。

 

この頃の薩摩藩・長州藩(討幕派)は朝廷を動かせるくらいにまで影響力を拡大させており、なおかつ最盛期を築いていたイギリスとの結びつきも強めています。

朝廷から討幕派が倒幕の密勅を下される直前に、諸外国に狙われている日本が内戦を行わず、尚且つ徳川が政治に関与し続ける方法として慶喜は幕府が政権を返上する方法を取ったのです。

朝廷が政治を動かすにしても人材不足であり、徳川が政治の中心を担えると考えてのことでした。

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幕末の情勢を簡単に

幕末の情勢

幕末が始まったとされる黒船来航により日本の意見が開国派攘夷派の真っ二つに。

そのうち、安政の大獄(井伊直弼が反対派を弾圧)桜田門外の変を経て溝が深まり、やがて倒幕へ結びついていきました。

その討幕派の急先鋒になったのが長州藩八・一八の政変で京都から追い出され、禁門の変で朝敵になったり幕府方から厳しい取り締まりを受けたりしています。その裏で攘夷が行き過ぎて異国に喧嘩を売り、下関戦争(英仏蘭米)を経験。外国の圧倒的な力を見せつけられ、長州は異国に学ぶ方針へ方向転換したのでした。

 

同様に力の差を見せつけられたのが薩摩藩です。藩主の行列を遮ったとして、薩摩藩士がイギリス人を斬り殺した事件生麦事件の報復に薩英戦争が発生。その戦いをキッカケに互いに認め合うようになり、薩摩はイギリスと接近します。同時にイギリスは日本を植民地にするよりも交易の方が得として交易重視の方針に切り替えたようです。

また、元々薩摩に関しては幕府寄りでしたが、立ち位置の変化などで倒幕になると薩長両藩も接近。イギリスから武器や艦を購入するようになっていました(長州は薩摩経由で)

 

一方で、ヨーロッパ情勢でイギリスと対立していたフランスは幕府に接近。幕府も幕府で倒幕派が力をつけている状態でしたから、積極的に結びつきを強めていたのです。

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大政奉還がなぜ厄介だったの?

倒幕の中心となった薩長両藩が倒幕を目指した理由は「今の幕府じゃ異国と立ち向かえない」と感じていたから。

ところが、大政奉還で武力なしで幕府が政権を返上しました。

しかも、当時朝廷のトップについたのは大政奉還と同年に崩御していた孝明天皇に代わり即位した満14歳の明治天皇です。

長らく政権を握り、政治のノウハウを知り尽くした者達でも舵取りが困難な大混乱期に、何百年も政権についていなかった朝廷と若い天皇が政治を取り仕切るのは難しく、徳川が政治の主導権を握れると考えた慶喜の予測は的中。

慶喜が将軍職に就いたまま諸藩連合による政治運営を行います。新たな行政機関が誕生することもなく政治は徳川が中心となって進んでいきました。

大政奉還を行いながらも、以前と変わらない状況に苦々しく思った討幕派。「徳川家を政権から排除しよう!」と動き始めたのです。

 

クーデターの決行

新たな体制のはずがこれまで通り主導権を取られっぱなしの討幕派は、事態の打開のために藩兵を用いて御所の御門を封鎖し、御所への立ち入りを厳しく制限させたうえで王政復古の大号令を発しました。

この武力を背景とした政変を計画した中心人物は公卿の岩倉具視らで、薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め予め王政復古の大号令案を奏上することについて伝え、協力を求めています。

と言っても全員が慶喜排除を求めていたわけではなく「慶喜には他の諸侯と同じ立ち位置に立ったうえで政治を行って欲しい」という考えでクーデターに参加した藩もあったようです。

なお、長州藩は朝敵を解除されたばかりあったためクーデターには参加していません。

 

王政復古の大号令では何が変わったの??

打合せに参加した公卿・藩主たちだけが参内し、天皇親政の元で諸藩連合政権を作ることを目的に出された王政復古の大号令の内容は

  • 幕府・将軍職の辞職
  • 京都守護職の廃止
  • 摂政・関白の廃止
  • 新たな職、総裁・議定・参与の設置

というものでした。

この新たに置かれた三職による会議が、王政復古の同日夜に初めて開かれました。小御所会議(こごしょかいぎ)と呼ばれており、喫緊の課題である徳川家の処遇について話し合いが行われています。

徳川家の処遇とは?

新たな組織が立ち上がったのは良いですが、「徳川を完全排除し辞官納地(朝廷の官職を辞めさせ、徳川の領地を全部取り上げますよという意味)を目指したい」倒幕派と「将軍を新たな政体に加えたい」と考える公議政体派の意見は平行線のまま。

結局、最終的には討幕派の意見が通って辞官納地が決定しています。

 

ちなみに三職についたのは

  • 総裁
    • 有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)
  • 議定
    • 仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)
    • 山階宮晃親王(やましなのみやあきらしんのう)の2皇族
    • 三条実美ら3公卿
    • 薩摩・土佐・芸州・尾張・越前らの藩主またはその父
  • 参与
    • 岩倉具視、大原重徳ら5人の公卿
    • 藩士15人(薩摩・土佐・芸州・尾張・越前らから3人ずつ)
    • 西郷隆盛、大久保利通、後藤象二郎、木戸孝允、広沢実臣ら

こうした人物たちです。

新たな対立

議定に含まれていた土佐藩の山内容堂や越前の松平春嶽といった藩主経験者たちにとって慶喜は完全な主君筋であり、討幕派の考える徳川を完全に排除するやり方は受け入れられるものではありませんでした。

岩倉具視ら急進派と山内容堂や松平春嶽のような穏健派との対立が明らかになっていく裏で、上洛した他の諸藩の藩主たちの公論では穏健派の公議政体派が形成を握るように。

辞官納地が決まったはずの徳川慶喜の処分は、いつの間にか「新たな肩書の取得」と「納地も半分で済んでも良い」という甘いものに変わっていきました。

この事態が面白くない討幕派は一計を案じます。

 

薩摩の攪乱

何をやっても対策を講じてくる徳川慶喜。薩摩藩は浪士を手先に使って形振り構わない攪乱作戦を講じることにしました。

旧幕府軍が多数いる江戸市中で浪士たちに徒党を組ませ、商家に押し入って家人や近隣住民を斬殺したり放火したりを繰り返させます。その上で最後に必ず薩摩藩邸に逃げ込ませました。

こうした蛮行を毎夜行い、その範囲も江戸以外にも広がる最悪の事態となっていきます。さらに、江戸市中の取り締まりを行っていた庄内藩新徴組の屯所を襲わせると旧幕府側の我慢も限界に。

旧幕府側は薩摩の挑発に乗って江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしたのです。

 

これにより慶喜は「薩摩討つべし」の声を抑えることができなくなり、いよいよ旧幕府軍 v.s. 新幕府軍の対決、戊辰戦争が始まっていくのでした。

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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