戦国時代

豊臣秀長、兄秀吉の補佐役に徹した生涯

歴ブロ

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太閤秀吉の弟にもかかわらず多くは語られていない人物、豊臣秀長。この人の果たした功績は大きく、握った権限も著しく強いものでした。

116万石の大大名となり、従二位権大納言の高位を賜り、天下の政にも深く関わった人物は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の戦国三傑と言われた3人くらいです。

石高だけ見れば100万石以上得た人物は多少いますが、これだけの地位に上り詰めたのは戦国三傑を除くと豊臣秀長だけでしょう。

何故それだけの功績を残しているのに、豊臣秀長はあまり後世に語られなかったのでしょうか?

それは、秀長が兄である豊臣秀吉の忠実な補佐役だったからだと考えます。

戦国時代には色々な人物が補佐役としていました。しかし、恒久的な補佐役と言うのには程遠いものでした。しかし、彼は兄秀吉の恒久的な補佐役に徹した人生を送り続けたのです。

今回の記事は、戦国一の補佐役 豊臣秀長について書いていきたいと思います。

 

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豊臣秀長の誕生

豊臣秀長=小一郎は、秀吉=藤吉郎の弟として尾張に産まれました。

小一郎が幼少期の頃に藤吉郎が家を出て行ったため面識が少なく、藤吉郎に仕えるまでの数十年間別々の生活を送っていました。

1564年 藤吉郎がねねと結婚し、足軽組頭に出世した初めての部下として行動を共にします。

秀長の性格は、温厚で的確な助言に定評のある人物とされています。時には、兄の戦の補佐もしていたこともあったそうです。

秀吉が長浜城主になると秀長は、秀吉の不在の際の城代として長浜城を取り仕切っていました。また、秀吉の名代として織田信長と長島の一向一揆の鎮圧にも参加して武功をあげています。

秀長のライフワークとも言える仕事が、羽柴(豊臣)家内の問題解決を兄に代わりすること。この仕事は、秀吉が天下を取ったあとも続く最重要任務となるのです。

 

秀吉との中国攻めと本能寺の変

織田信長の中国地方攻略の際も総大将羽柴秀吉と共に出兵して、山陰道及び但馬平定を指揮します。

この中国地方攻略の羽柴秀長の動きとして…

  • 1577年 秀吉と共に但馬攻めに参戦して、竹田城を落城。その城代として秀長がなる。
  • 1578年 別所長治が反旗を翻し、秀吉とともに対応。黒井城にも援軍をだす。
  • 1579年 三木城に籠城する別所長治を攻める。
  • 1580年 三木城での戦いが終わり、山名氏を滅ぼして但馬国を平定。出雲城主となる。
  • 1581年 鳥取城攻略の際、秀長も陣城に入り軍を指揮する。
  • 1582年 備中高松の戦いのさなか、本能寺の変が起きる。

本能寺の変の知らせを受けた秀吉軍はすぐさま毛利と停戦を結び、一気に引き返す【中国大返し】を決行。その時秀長は、殿軍の大将を務めました。その後の山崎の合戦も参戦して、黒田官兵衛と共に天王山を包囲して明智軍を破ります。

話が逸れますが、竹田城とはあの天空のお城のことです。

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ここに城代として秀長がいたと考えると胸が熱くなってきます。

 

清州会議と賤ケ岳の戦い

明智光秀との山崎の合戦後、織田家家臣たちは信長の後継者を選ぶ清州会議を開くことになります。その時に羽柴秀吉は、織田家重臣柴田勝家と対立することになります。

その対立がこじれて、1583年賤ケ岳の戦いが起こります。

この戦いで 秀長は、秀吉不在の中柴田軍の猛攻を防ぎます。

山崎の合戦と賤ケ岳の戦いの功により羽柴秀長は、美濃守を賜り、播磨・但馬の2カ国を拝領して姫路城城主となります。

 

清洲会議で秀吉は織田家を分裂させた 山崎の合戦で明智光秀を倒した羽柴秀吉は、主なき織田領の秩序を取り戻し名実ともに、織田信長の後継者として注目されます。 一方...

 

小牧長久手の戦い

1584年 秀吉は織田信雄とのいざこざ絡みで徳川家康とも敵対関係になります。織田信雄が親秀吉派の配下を処刑したことから、小牧・長久手の戦いが始まります。この織田信雄側にいたのが徳川家康です。

この戦いで秀長は、北伊勢・美濃方面で奮闘します。

戦いも半年がたったある日、織田信雄と秀吉は和睦をします。その使者として秀長が自ら赴いたそうです。

大義名分を失った家康は、12月に家康は次男・結城秀康を秀吉の養子(実質は人質)として大坂城に送り講和します。この和睦は形式的なものにすぎませんでした。

結局、和睦したのは、1586年に家康が上洛してきた時です。小牧長久手の戦いから2年の歳月を費やしてのことです。

1585年 小牧長久手の戦いの功績として、紀伊・和泉64万石の加増を受けます。

 

四国雄・長宗我部攻め

同じ年の6月に秀吉は四国攻めを仕掛けます。しかし、秀吉が病に倒れて総大将として秀長を任命します。10万を超える軍を指揮する事になります。

長宗我部軍の激しい抵抗と、毛利輝元・宇喜田直家の連合軍の侵攻もあり思うような戦功をあげられませんでした。それを知って秀吉は援軍を送る旨を伝えましたが、秀長は丁重に断る旨の書状を送っています。

 

長宗我部元親の四国統一の道のり 長宗我部元親は、土佐国の弱小領主から土佐一国を治めるまでになり、最終的には四国全土を一代でほぼ征服した戦国武将です。中国の毛利氏、九...

 

兄の援軍を断った秀長は、試行錯誤の末四国を平定することができました。

思うように進まなかった割には、終わってみれば50日での四国平定でした。

この四国攻めの功により、大和国も加増となり居城も大和郡山城に移ります。

この大和郡山城は、大阪を守る重要な拠点のため、かつての領主筒井家を転封してまでの秀吉の決断でした。それまで弟秀長を信頼してのことでしょう。

この加増で紀伊・和泉・大和で110万石以上の大大名となります。

 

大和郡山城統治

大和に移ってからの秀長は、自身の領内の整備に着手します。

大和国内はこれまで、大和寺社が強い影響力をもっている地域でした。そこで秀長は、大和寺社の寺領を没収して政教分離を図ります。寺社の関係を断ち、商人たちを大和郡山に集めて経済の発展を促します。

また、検地と刀狩りを徹底して行いました。温厚と言われた秀長ですが、こういう時の抵抗勢力には激しい弾圧を加えて対応しています。ただ穏やかだけではなく、アメと鞭をうまく使い分けていたようです。

 

1586年頃から秀長はこの頃から体調を崩し頻繁に湯治に行っていたようです。病気療養中に本願寺顕如も使者を送り見舞っている記録があります。いかに秀長の人望が厚いかが伺えます。

この頃の豊臣家は徳川家をはるかに凌ぐ勢力を持っており、秀吉が家康に従臣になるよう求めた結果、家康がとうとう大阪の秀吉の元へ行く事になりました。その際、大阪城にいる秀吉の所ではなく秀長邸に宿泊したとされています。

これを機に家康が秀吉に従臣します。

家康が従臣したことで後顧の憂いがなくなったため、秀吉は九州討伐を開始。その総大将として秀長が出陣します。

  • 1586年 従三位権中納言を賜ります。
  • 1587年 九州討伐の功により従二位権大納言となります。
  • 1589年 秀長の体調はさらに悪化し、床に臥せがちになる。
  • 1590年 小田原の北条氏攻め
  • 1591年 大和郡山城にて没。享年52歳

九州討伐の功により大納言になりましたが、家康も大納言だったので、秀長は大和大納言と呼ばれるようになりました。

1589年頃には体調は悪化するばかりで、床に臥せがちだったされています。その年の正月で秀吉の新年の挨拶を最後に、大阪城に行った記録が途絶えることになります。

小田原城攻めの時にも参加できない状態でした。

そして、秀吉よる天下統一事業のほぼ完成を見届けて、1591年にこの世を去ることになります。

秀長は調和のとれない豊臣政権のまとめ役でした。

また、秀吉のやりすぎを押さえる役目も持っていました。朝鮮出兵の構想は秀長が生きている時から練られていたもので、秀長はそれを強く反対していました。これに分かるように秀長生前中は兄の暴挙をしっかりと押さえていたと言えるでしょう。

その偉大なる補佐役の死は豊臣政権の何かが変わりました。

秀吉の晩年の暴挙とも取れる、千利休の切腹、朝鮮出兵、豊臣秀次の切腹などは、全て秀長の死後に起こっています。

 

豊臣政権の失敗は、秀長の死後秀長が進めようとしていた政権の体制整備が中断されて文官と武官の対立が解消できなかったことにあります。秀長が秀吉より長生きをしていたら、このような悲しい事態にはならなかったことでしょう。

それだけの能力が豊臣秀長にあったのです。

歴史でifを語るのはナンセンスかもしれませんが、もし秀長が長生きしていれば徳川の世はなかったかもしれません。

 

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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