現在も続くあの会社が江戸時代にレンタル傘サービスを行っていた!?
雨の日の必需品といえば雨傘。近年、都市部では突然のゲリラ豪雨があるので外出時に傘を持ち出す人が多くなっていると言います。
最近の雨傘は単純に雨をしのぐものではなく、女子用の晴れ雨兼用のおしゃれな傘やビジネスマン向けに持ちやすいコンパクトな傘、突風でも折れない傘など様々な商品が発売されています。
私のように車移動がメインで傘を持ち歩く習慣がなく、急な雨に対応できない人も多いと思います。
そんな人のために、最近では東京や大阪を中心に傘のレンタルサービスやシェアサービスが増えているそうです。私は残念ながら、首都圏に住んでいないので傘のレンタルシェアサービスを受けたことがないのですが、ゲリラ豪雨が多くなった近年ではありがたいサービスではないのでしょうか?
ビニール傘の廃棄を少なくし、環境にやさしくエコにも一役買っているそうです。
活であった江戸時代にすでにあったビジネスだったのはみなさんご存じですか??
上記の記事でも書いた通り、あらゆるものがリサイクルされ、現代よりエコロジーが進んでいた江戸時代に【貸し傘】と呼ばれる雨傘のレンタルサービスが存在していたのはみなさんご存じでしょうか??
今回は、そんな雨傘のレンタル=貸し傘について書いていきます。
和傘の歴史
日本史での傘とは、現在のような洋傘ではなく和傘が中心で、平安時代前後に仏教やお茶・漢字と同じくらいに中国より渡ってきたと言われています。
平安時代の傘は市女笠のようなものが多く、和傘のようなものがあってもこの時代では開いたまま閉じることができなかったようです。
傘が開閉できるのは現在では当たり前の技術ですが、和傘は非常に高度な構造をしており、数ある工芸品の中でもこれほどの品物は多くないとも言われています。そのため、開閉ができるようになったのは安土桃山時代と、傘が伝来してから800年ほどたっての事でした。
広く和傘が使われだしたのが、江戸時代中期で江戸の浮世絵にも和傘をさしている人が描かれている事から、生活の一部として普及していた事がわかります。
また、日用品だけではなくファッションの一部として使用されており、実用性と美しさを兼ね備える和傘も誕生します。歌舞伎や日本舞踊、茶道の中でも取り入れられ、それぞれの伝統美を付加した独自の進化を遂げ、他国に類を見ない非常に豊かな日本特有の和傘文化とも呼ぶべきものができました。
特に、京都は古来都として長らく栄えた土地柄、最も早くから和傘が使われて来ました。
京都ならではの審査目の厳しい人々に使われる中で、過度な装飾をしないシンプルさと最高級の素材と技術で仕上げられた上品さを持つ、京都独自の美意識を持つ和傘【京和傘】として独自の発展を遂げました。
最盛期には、日本全国で和傘が年間1千万本以上生産されていましたが、明治時代に西洋化が進み洋傘が入ってくると、急速に衰退し京都の和傘制作店がわずかとなりました。
現在和傘は、生活必需品として使われることは少なくなりましたが、趣味の品や踊りや芝居などの小道具として、伝統行事・儀式の道具、時には日本的なディスプレイ・展示用としてその用途は多岐にわたっています。
それでは、なんとなく和傘の歴史を知ったところで本題に入ります。
江戸時代の雨傘は高級品だった!?
現在の雨傘は、コンビニのビニール傘からオーダーメイドの高級品までピンキリです。
雨具としての傘は、鎌倉時代には存在しており、当時の絵巻物『一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)』にも傘を差した人物が描かれています。※上記の写真を参照
江戸時代になると、紙張りの雨傘が作られるようになり、庶民の間にも普及します。これまでは、頭に直接かぶる笠が主流で、ヘアスタイルを乱すことから雨傘の普及は、女性たちを中心にはやるようになりました。
江戸の高級傘【蛇の目傘】
当時の傘は、高級品で使用できる人は限られていました。
その中でも人気だったのが【蛇の目傘】でした。番傘を改良して作られ、傘を開くと、紺や赤など基本となる色に白く太い円が広がり、この模様が蛇の目(へびの目)に見えるところから「蛇の目傘」と呼ばれるようになります。
これが女子やトレンドを先取りする人の間で人気になり、得に細くて軽い傘がよいとされていました。
北原白秋が作詞した有名な童謡で…
あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかえ うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ ランランランあめふりの歌詞より引用
【じゃのめ】というのがまさに【蛇の目傘】となります。この記事を書いて初めて知ったのは、私だけではないはずです…
この蛇の目傘の値段が【銀6、7匁】くらいで、現在の価格価値で【約2万円】で、今でいうオーダーメイド傘に引けを取りませんでした。当時の高給取りであった【大工】の日給が【銀5匁4分=約16200円】と比較すると、濡らすのがもったいないくらい高級なものだったのです。
庶民が使っていたのは価格の安い【番傘】
高級品であった【蛇の目傘】であるのに対し【番傘】は、庶民の普段使いの傘として人気がありました。番傘とは、番号が書いている傘という意味で、大阪の傘師【大黒屋】が売り出した【大黒傘】が江戸に流れ、丈夫で安いことから庶民の間で流行しました。
1800年以降には、江戸でも生産するようになり普及しました。
【貸し傘】には、貸出記録用として傘に【番号】が振られていた事から【番傘】と呼ばれていました。一説には、印や判を入れた傘を【判傘→番傘】となったとも言われています。
当時、貴重品だった雨傘を何度も貸出して使えるように頑丈に、しかも安価で大量に作ったと言われています。
持ち手は、竹のままを使用し、素材の良さを活かしたシンプルで少し太めの和傘です。骨組みがしっかりとした重厚感がある造りで、持ち手が太い竹、無地の和紙で内側の小骨は装飾もなくシンプルなつくりでした。
1本の竹を30~35本に割った太い骨に白い紙を張り、荏油防水加工をしていました。気になる価格は、【200文=約6000円】くらいと蛇の目傘の三分の一で手に入れることができました。
安いとは言え番傘でも6000円とそこそこ高い事から、江戸の人は修理して長く使っていたのです。傘が普及すると、古傘買い・古骨買いと呼ばれる、紙が破れて役に立たなくなった傘を買い集める商人が現れます。
「古傘買い」は、買い取った古傘を竹の骨と紙に分類し、竹の骨は傘張り職人のもとに持ち込み、新たに紙を張り直して修理して再販します。傘の骨は捨てることなく、何度もリサイクルして使用していました。
一方、油紙は馬・鹿・イノシシなどの肉を取り扱う【ももんじ屋】に売り、油分の多い肉の包装紙として使ったそうです。古い傘の買取金額は【12文=約300円】ほどだったそうです。
傘のレンタルサービスの開始
そんな高級品の傘を貸し出す【貸し傘】を始めたのが、【三井越後屋=現・三越百貨店】や【大丸屋=現・大丸百貨店】などの呉服屋でした。
三井越後屋は、1673年に三井高利が、江戸・日本橋本町一丁目に開いた呉服店です。1683年に越後屋は駿河町に移転を機に武家の掛売りが主だったのを庶民相手の現金取引・店前売りと言う新しい販売方法に切り替え、江戸時代最大の呉服店となりました。
この越後屋の顧客PRサービスの一環で貸し傘を始め、突然の雨に越後屋の顧客だけではなく、通りすがりの人々にも雨傘を無料で貸し出しました。貸し傘には、越後屋の大きなロゴマークが入っており、人々が越後屋傘をさして歩くことによって越後屋の名前を江戸中に知ってもらう役割がありました。
傘がCMを兼ねていたんですね。
一方で、大丸屋は、1717年に京都・伏見に創業した呉服商・大文字屋が発祥で、1716年~1736年には、京都を本店とし大阪・名古屋・江戸にも支店を構えました。
店頭には、丸の中に大の文字のロゴマークの入った暖簾がかかっており、大丸屋は1743年の江戸店開設時に貸し傘サービスを開始し、傘には丸の中に大の文字の大丸のロゴマークが入っていました。
にわか雨などには、多くの客や通りすがりが越後屋の傘を借り使用していました。
また、江戸の若者たちは越後屋の貸し傘をさして歩くことが【粋】とされていたようで、貸し傘をそのまま自分の傘として利用していた人も結構いたようです。
このように多くの人に目に触れる貸し傘は、越後屋や大丸屋のブランディング戦略の一つでした。当時の高級品だった雨傘でしたが、江戸全域の宣伝広告費と考えれば安いものだったのかもしれません。
これも、当時の雨傘が高級品だったからこそ成り立っていたのでしょうね。