日本史の流れ

明治の文明開化政策で日本の西洋化が急速に進められた!?

歴ブロ

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大政奉還によって政権が徳川幕府から天皇主権に切り替えられました。

このような政治の変化により、文化にも影響を及ぼすことになります。その文化的な変化が文明開化と呼ばれているものです。

武士の象徴であったチョンマゲを落とす【断髪令】を始め、婚姻の自由、職業選択の自由など様々な文明開化政策が進行しました。さらに、都心にはガス灯が設置され、レンガ造りの洋館が軒を連ね、市民のライフスタイルも西洋化しました。

 

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日本の近代化と文明開化

明治政府がスタートすると、西洋の文化を積極的に取り入れる文明開化を取り入れ、日本の社会システムは急速に近代化させることになりました。

江戸時代は鎖国政策がとられていて、一部の地域を除くと外国とほとんど交流がありませんでした。これは、江戸時代を象徴する身分制度を維持するためで、特に平等主義の流入を防ぐための江戸幕府の政策でした。

しかし、このような鎖国政策を取って身分制度を維持していたため、日本社会では国民の大多数を占める人々が社会を発達させるための機会をもつことができず、その結果、日本は世界からとり残されて遅れてしまっていました。

 

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そこで明治政府は、日本を近代化させることに尽力をし、西洋の国々の制度や技術、文化などを盛んに取り入れようとしたのです。

この動きはとても活発で、これまで当たり前だった習慣や風習などを皮肉った歌なども生まれたので【散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする】という歌にはこの文明開化の様子がよく現れています。

 

牛鍋を食べる習慣などもこの頃に始まってきたと言われ、これまでの日本人の生活スタイルは文明開化によって大きく変わっていきました。

文明開化により太陽暦が使われるようになり、洋服なども日本にはいってきました。それまでは、着物に代表される和装が一般的でしたが、だんだんと和装をする人も少なくなっていきました。

牛鍋に代表される西洋の食べ物も多く入ってきました。それまでの日本では動物の肉を食べるという習慣はなかったのですが、牛をはじめとして、肉を食べるということがだんだんと普及をして行ったのです。

建物の様式にも変化が現れ、レンガの建物街灯、そして、1872年横浜から新橋間までの鉄道の開通なども特徴的でした。学制や郵便制度、警察や軍隊など、多くの新しいシステムが導入されました。

 

西洋館象徴的建造物【鹿鳴館】

現在の東京都千代田区に存在する鹿鳴館は今でいるところの迎賓館で、レンガ造りの2階建てに100坪の舞踏場を備えていました。そして、外国の迎賓に対して【日本は西洋文化が根付いた文明国ですよ~】とアピールしていました。

しかし、鹿鳴館を訪れた外国人には、大変奇妙なものに映っていた言います。

鹿鳴館が完成したのは、鎖国撤廃から約30年後で日本の上流階級の間でも西欧式舞踏会マナーやエチケットがまだまだ普及しきっていませんでした。

夜会では、豪勢な西洋食がテーブルを飾りますが、ナイフやフォークの使い方がおぼつかなく、舞踏会でまともにダンスを踊れない日本人セレブが続出。なれない西洋ドレスもトラブル続きで、コルセットを締めすぎて貧血で倒れる夫人が続出したと言います。

これでは格好がつかなので、踊りや音楽のプロや芸者を動員する事もありましたが、これも問題がありました。それは、当時の芸者などは背中にお灸をすえる風習があり、背中を大きく開けたドレスにお灸の跡が丸見えになってしまうのでした。

このようなチグハグな様子を見た外国人は、こぞって滑稽だと失笑しました。

 

こうしたエピソードから鹿鳴館は、浅はかな西洋至上主義がもたらした失敗作として、風当たりが強くなり完成から10年足らずで迎賓館としての役割を終えました。

西洋建築の失敗

西洋建築の象徴・鹿鳴館でこの結果であったことから、庶民の生活にも様々な問題が浮上してきました。

1873年東京銀座には日本で最初の西洋街が作られました。

パリのシャンゼリゼ通りをモデルにした舗装道路やロンドンの家屋をモデルにしたレンガ造りの洋館が並ぶ街並みは実に壮観でした。しかし、実際に生活してみると、建築技術の未熟さゆえに、建付けが悪く、日常生活に支障が出るほど湿気がひどかったようです。

洋館で店を開いたお茶屋さんが湿気の為に倒産したと言う事も実際に起こりました。

こうした事から、洋館で暮らすと脚気になると言うデマも流れ、当初の銀座は空き家ばかりでした。頭を痛めたのは西洋化を進めた政府で、そこで苦肉の策で入居者の地租を4か月分免除する優遇措置を取り、ようやく入居者が増えたそうです。

 

西洋文化と引き換えに廃れた文化

先述したチョンマゲのように西洋文化を取り入れた事によって、廃れていった日本の文化を紹介して行きましょう。

例えば、刺青(タトゥー)

現在も全くないわけではありませんが、江戸時代後期頃には【】なファッションとして爆発的な人気を誇っていました。博徒や遊女はもちろん火消や飛脚などの職業では、むしろ刺青をしていなければ恥であるとまで言われていました。

しかし、近代的な国家像にはそぐわないとして1872年に装飾用の刺青は非合法化され、以降、刺青を入れる人は少数派になりました。

また、明治以前には女性の寝床に忍び込む夜這い文化も文明開化を境にタブー化されていくことになります。服装の西洋化に伴い、ふんどしや湯文字なども次第に着用する者が減っていきました。

 

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文明開化の影響

文明開化の影響はそれまで江戸時代の社会維持に用いられてきた身分制から、平等主義へのシフトと言われています。アメリカやヨーロッパから入ってきた人間はみんな平等という考え方が日本に持ち込まれたのです。

ただ、どう社会制度の中にこの思想を取り入れるのかという点になると、後の徴兵制などに用いられ、国民全てが兵隊になるということになっていったのですが、これまでにはない考え方として多くに人々に影響を与えていったのです。

 

一方で、みんな平等という考え方が唱えられたものの、現実には社会に不平等に不平等感が残っており、そのような不満が自由民権運動という運動へとつながっていきました。自由民権運動によって、憲法が作られて国会によって民主主義に基づいて世の中の様々なことが話し合いで決められるという形になっていったのです。

明治時代の自由民権運動から大正デモクラシーという社会運動を経過して、民主主義の広がりが実現されていく一方で、新聞や雑誌などで政府に対して都合が悪い内容を書かれたりすることに対して、厳しい取り締まりもなされるようになっていったのです。

 

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文明開化は大政奉還後の日本に大きな影響を与えました。

西洋の様々なものをモデルにしながら、その後の日本を変えるような大きな文化的な変化をもたらしていきました。明治維新が政治的な変化であれば、文明開化は文化的な変化として、その後の日本の歴史に大きな変化をもたらした重要な出来事だったのです。

こうする事で、日本は諸外国に日本の国力を見せることになり、国際的な地位を高め幕末に調印した不平等条約や治外法権を撤廃させるために不可欠だと考えていました。

日本の西洋化は、国際社会で生き抜くための日本の死に物狂いの挑戦だったのです。

 

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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