シュタウフェン朝の断絶~跳躍選挙の時代
以前の記事『中世ドイツ史<ホーエンシュタウフェン朝とヴェルフェン朝>【各国史】』とも少々かぶっていますが...
- 度重なるイタリア政策と、その失敗で皇帝が諸侯達と対立し始める
- 対立した諸侯(ヴェルフ家)が一度は皇帝の位についていた血筋だった
- ローマ教皇や外国の親戚勢力プランタジネット朝(英)とプランタジネット朝と対立するカペー朝(仏)などがも絡んで、皇帝位争いが激化
- フリードリヒ2世の代でシュタウフェン朝に王位が戻るも急速に勢力が衰える
- シュタウフェン朝が断絶
こういったおおよその流れを経て大空位時代になっていきます。
今回はホーエンシュタウフェン朝の凋落~大空位時代がどんな時代だったのか、その後の跳躍選挙の時代がどんな時代だったのかを見ていこうと思います。
シュタウフェン朝の凋落と大空位時代
イタリア政策の失敗が続いていくうちに諸侯が強くなった結果、ついには皇帝不在の大空位時代(1256~1273)まで引き起こす事態となりました。
その大空位時代になる直前の神聖ローマ帝国には「中世でもっとも進歩的な君主」と評されたフリードリヒ2世が玉座についていた時期があったのに、なぜ彼の治世からシュタウフェン朝が力を失って行ったのでしょうか?その辺りを見ていこうと思います。
フリードリヒ2世の治世
フリードリヒ2世の前の皇帝、ヴェルフ家のオットー4世は第176代教皇インノケンティウス3世と激しく対立していました。教皇はオットー4世を破門させ、フリードリヒ2世が教皇からの支持を獲得したのです。
ところが、1220年の戴冠の頃には既にインノケンティウス3世は亡く、ホノリウス3世が教皇位についていました。
このホノリウス3世によってフリードリヒ2世の帝位は認められました。また、同年に共同統治者として彼の息子のハインリヒ7世がローマ王として即位しています。
ここで一つ思い出してほしいのが教皇領と神聖ローマ帝国・シチリア王国の位置関係です。
上の地図はフリードリヒ2世の父親の代の頃の関係図になりますが、大きくは変わっていません。両シチリア王国の女王の地位には母のコンスタンツァが就き、その後フリードリヒ2世はシチリア王位を継承しています。
教皇領にとっては北には神聖ローマ帝国、南には両シチリア王国に挟まれるような形のため、非常に脅威となりました。
ということで(良好な関係を最初築けていたとしても)神聖ローマ皇帝になると教皇との対立は避けられませんでした。フリードリヒ2世も同様でホノリウス3世以降のローマ教皇たちと対立せざるを得ませんでした。
中でも対立が激化したのがグレゴリウス9世の代です。
彼は父子仲が悪化していたフリードリヒ2世の息子ハインリヒ7世に対して「ロンバルディア同盟を結んでいる北イタリアの諸都市と結ぶと良いよ(意訳)」と唆して反乱まで起こさせています。
※父と本人の間での『共同統治者』の定義が異なっていた。フリードリヒ2世はあくまで皇帝の管理下の『ドイツ王』
当然ながらフリードリヒ2世は対応せざるを得なくなります。
教皇は追い込まれた後に死亡(理由は不明)、ハインリヒ7世は拘禁されローマ王を廃位。フリードリヒ2世は後々息子を赦免させる予定でしたが、赦免の前に自ら死を選んだため彼の死を悼んでいたと言われています。
ハインリヒ7世に変わって後継者となったのがコンラート4世でした。1237年に共同統治をするためにローマ王として選出されています。
勿論、彼のローマ王即位後も変わらず教皇派との難しい舵取りは迫られ続けました。
ハインリヒ・ラスぺと呼ばれる人物が対立王として選出されたり、彼が亡くなってからもホラント伯ウィレム2世が対立王として選出されるなど、皇帝一本で権力を持ってやっていくのは難しい状況になっていたのです。
そのような状況の中、フリードリヒ2世が1250年に50代半ばで「コンラート4世が帝位とシチリア王を継ぎ、不在の間は弟のマンフレーディが代理となるように」という遺言を残して亡くなりました。
大空位時代の始まり
フリードリヒ2世の死に対してインノケンティウス4世は非常に喜んだと言われています。教皇派はフリードリヒ2世によって、だいぶ追い詰められていたためです。
※フリードリヒ2世だけが原因ではありませんが、インノケンティウス3世以降ローマ教皇の権威は下がり続けています
実際に教皇派の思惑通り、跡を継いだコンラート4世の代で(父の手腕で教皇派を追い詰めていた部分が大いにあったため)シュタウフェン家の勢力は一気に衰えてしまいました。
そんなコンラート4世もフリードリヒ2世の死後4年後に急病で死去、シュタウフェン朝は終わりを迎えることとなり、帝位にふさわしい人物がいない大空位時代を迎えていきます。
シュタウフェン家で実際に後継になれそうな男児はまだ2歳のコッラディーノ(ドイツ語読みだとコンラート)のみだったためです。
この時点でコッラディーノはシチリア王位のみについており、コンラート4世の異母弟マンフレーディがシチリアでの摂政となっていました。実質的に政治を取り仕切っていたマンフレーディは、やはり教皇派と対立することに。
ではローマ王は・・・?となるかと思いますが、先ほど出てきた対立王の『ホラント伯ウィレム2世』が単独のローマ王となっています。反皇帝派の力が強まれば当然の話でした。
このウィレム2世もコンラート2世の死から約2年後の遠征からの帰国中に溺死。大空位時代は更なる混迷を迎えたのですが...
大空位時代以降、ローマ王位はどうなっていたの?
ウィレム2世が亡くなった後も聖俗諸侯・皇帝・教皇・都市など、かなり広い範囲で皇帝派・教皇派に分かれて争っていたため、大空位時代となった後も前王朝での対立構造は続いていました。
当時は皇帝派・教皇派という軸での敵対関係があったと同時に、それ以外にも皇帝の座をかけて争っていた『シュタウフェン家 vs. ヴェルフ家(←オットー4世の家柄についてはホーエンシュタウフェン朝とヴェルフェン朝参考)』の構図も残ったままだったようです。
こうして、1256年にウィレム2世が亡くなった後にはシュタウフェン派の推すカスティーリャ王とヴェルフェン派の推すイギリス王の弟が並び立つことになりました。
両者共に自分達の勢力に都合のいい人物を見繕ったのですが、どちらの人物もドイツに顔を見せることがあまりなかったため、ローマ王として選出されたものの皇帝位の戴冠まで至りませんでした。
シュタウフェン朝の断絶
教皇派はこの事態をチャンスと見てさらに畳みかけました。教皇たちが目をつけたのがフランス国王ルイ9世の弟でアンジュー伯のシャルル=ダンジューです。シャルル=ダンジューにシチリア王位を持ちかけていきます。
ルイ9世はヨーロッパの平和と安定を願うぐう聖(実際に後々「聖王」と呼ばれています)でしたから、戦いに発展することを良しとせずシチリア王位の簒奪には反対。
アンジュー伯で『フランス国王の臣下』でもあるシャルル=ダンジューはその意見を当然無視することはできませんでした。
ところが、その事態を一転させる出来事が起こります。
この時代の子供はいつ死んでもおかしくない。コッラディーノが「死んだ」という知らせがマンフレーディの元に届いたのです。
マンフレーディにとって、その知らせは僥倖でした。すぐにシチリア王位を継いでいます。
この知らせが後から誤報だったと分かるのですが、せっかくついた王位…ということで、コッラディーノに王位を返還することはありませんでした。
「不当な王位簒奪は良くない」ということで、マンフレーディに不満を持ったルイ9世はシャルル=ダンジューによるイタリアへの侵攻を認めます。こうして攻め込んだ結果、マンフレーディは戦死。
ここでローマ教皇はさらに攻勢をかけていきます。
シャルル=ダンジューがカルロ1世としてシチリア王位に立つよう封じたのです。
シチリア王位を完全に奪われた形の15歳まで成長していたコッラディーノは、カルロ1世の元に侵攻します。が、この戦いで捕縛・幽閉され、最期は若くして処刑されてしまいました。こうしてシュタウフェン家も完全に断絶しています。
シュタウフェン家まで断絶したこれまでの経緯から◯◯朝と言えるような力を持つ家柄出身の皇帝がいなくなり、神聖ローマ帝国は完全に形骸化する方向に向かっていきます。
さらに、諸侯らの力が強く、この期間も何とか神聖ローマ帝国の体裁は整えられていましたが「これ以上続くと国外からの干渉を招く可能性もあり得る」...という出来事が起こりました。
シチリア王位を継承したカルロ1世がフランス国王ルイ9世の息子でカルロ1世の甥っ子である「フィリップ3世を皇帝にさせよう!」としたのです。流石に「やばい」と考えた諸侯らは「自分達で選挙して選んでいこう」という流れに落ち着きました。
跳躍選挙の時代(1273~1437年)
大空位時代の後、国王選挙による王の選出が行われた時代を跳躍選挙の時代と呼びます。
「フランスに則られるのも困る」
「だからと言って力を持ちすぎる皇帝も困る」
ということで、最初に選ばれた人はハプスブルク家のルドルフ1世でした。
上のような理由から選出されたものの、予想に反してハプスブルク家は王権の強大化を望まない他の諸侯達に王位の世襲を認められない位の地盤を築きました。ということで、2代目はナッサウ伯のアドルフが選出されています。
なお、ルドルフ1世は典型的なドイツ貴族で自家の領地拡大第一主義だったため、ますます国の統一感がなくなるように。
統一感がなくなったという変化は、後々宗教改革の波が起こった時に「うちはカトリック」「うちはルター派信仰するわ」みたいな相違が発展し領邦間で戦争…なんてことに繋がっていきます【三十年戦争(1618~1648年)】が、別記事でまとめようと思います。
これ以降はハプスブルク家やルクセンブルク家、シュヴァルツブルク家、ヴィッテルスバッハ家などがローマ(ドイツ)王位に就くようになりました。
- ルドルフ1世【ハプスブルク家】
- アドルフ【ナッサウ家】
- アルブレヒト1世【ハプスブルク家】
- ハインリヒ7世【ルクセンブルク家】
- ルートヴィヒ4世【ヴィッテルスバッハ家】
- フリードリヒ3世【ハプスブルク家】
- カール4世【ルクセンブルク家】――― ギュンター【シュヴァルツブルク家】(対立王)
- ヴェンツェル【ルクセンブルク家】
- ループレヒト【ヴィッテルスバッハ家】
- ヨープスト【ルクセンブルク家】――― ジギスムント【ルクセンブルク家】(共治王)
この時代は複数の家から国王や皇帝が出ているように非常に不安定なものでした。皇帝として戴冠された国王も何人か出ていますが、12人中半分以上は国王のみに留まっています。
元々選帝侯と呼ばれる聖俗諸侯達による選挙を行っていた神聖ローマ帝国でしたが、初期の頃の選帝侯は交代で選出されていました。
この選帝侯を完全に固定化したのがカール4世です(何となくやっていたら他の国に付け込まれる隙を与えかねません)。
ということで、選挙制度の手続きを改めて確認し、金印勅書を発布しています(神聖ローマ帝国の変化【中世ドイツ・各国史】参照)。
こうして
- マインツ大司教
- ケルン大司教
- トリーア大司教
- ライン宮廷伯
- ザクセン公
- ブランデンブルク辺境伯
- ボヘミア(ベーメン)王
上の7名が選帝侯として固定化され、13世紀以降に神聖ローマ帝国では国王選挙制度が完全に定着していくことになったのです。
これが神聖ローマ帝国の方向性を完全に決定づけることになりました。
東方植民の開始(11世紀頃~)
このように諸侯がますます優位になりつつあった中で、神聖ローマ帝国では諸侯主導による東方進出が本格化。エルベ・ザール川やベーメンの森を越えて現地人(スラヴ人・マジャール人)を同化・吸収しながら諸侯国や村落、都市を作り上げていきました。
最盛期の13世紀前半で、以降の移住は散発的なものとなっていったようです。
十字軍遠征やイベリア半島でのレコンキスタと同様、人口増加に伴うヨーロッパの膨張傾向の一つとして考えられています。土地が段々足りなくなってきていたわけですね。
この東方植民で特記すべきなのがドイツ騎士団領の成立です。
元々ドイツ騎士団は、十字軍遠征によってヨーロッパ由来の十字軍国家が聖地周辺に複数出来上がっていった中で(中東の)言葉を理解しない十字軍兵士やドイツからやってくる巡礼者の世話をしたことから始まりでした。
これが後に野戦病院となり、この野戦病院が騎士団の中核として発展していったのがドイツ騎士団となります。
彼らは十字軍国家の中で他の騎士団のような影響力を持つことはありませんでしたが、東方植民によりプロイセンの領有権を獲得。中世ヨーロッパの中でも三大騎士修道会の一つに数えられるまでになっています。
騎士団ではない東方植民の獲得した地域と言えば、オーストリアやブランデンブルクなんかも挙げられます。近代ドイツの政治を動かすようになる大領邦が成立したのです。
中世ヨーロッパ史としてはここで終わり。この後、ヨーロッパの歴史の有名どころハプスブルク家による世襲のような王朝が続くことに(二度ほど単独で明け渡した以外は、ずっとハプスブルク家に関係した家柄です)。
その後は神聖ローマ帝国の変化にも書いたように、隣国のフランスで1789年にフランス革命が起こり、革命に対してヨーロッパ諸国が干渉する形でフランス革命戦争が勃発。後にナポレオン戦争へと移行した影響で、すでに形骸化していた神聖ローマ帝国が名実ともに滅亡することとなります。