【足利尊氏 VS弟の直義】観応の擾乱をじっくり詳しく解説!!
室町時代の内乱といえば応仁の乱が有名ですが、応仁の乱以前にも全国規模の内乱が起こっています。
特に大きな戦乱だったのが、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)です。簡単に言ってしまえば足利尊氏と弟の直義(ただよし)による壮大な兄弟喧嘩なのですが、当時の朝廷が北朝と南朝に分かれていた状況がことを複雑にさせています。
じっくり詳しく調べたので、結構長いですがおつきあいください。
観応の擾乱とは??
1350年から1352年を中心に起こった 足利尊氏 対 足利直義 の戦いです。観応の擾乱が始まった当初は『尊氏 対 直義』よりも『尊氏の側近・高師直 対 直義』の様相を呈していましたが、状況が変化。最終的に兄弟間の争いに発展していきました。
この擾乱で一旦は南北朝が統一し表面上は統一されたことになりますが、結局グダグダとなり南北朝の諍いは続いていったのです。
当時の武士たちは個性派揃い!
観応の擾乱は『当時の状況が乱を誘発させた』というよりも、『個性が強すぎる人物達が多くて仲が拗れた』という方が正解に近いのでは?と思わざるを得ません。
南北朝の動乱で書いた後醍醐天皇も「ん?」と思う行動が多々あるので、個性が強くないと生き残れない時代だったのかもしれませんね。実際、この時代には異様な服装をして乱暴狼藉をはかり既存権力や秩序を否定する『ばさら(婆娑羅)大名』が続出しています。
ちなみに室町幕府を開いた足利尊氏をググると『足利尊氏 メンヘラ』なんて言葉が出てくるほどもの凄く個性的です。そんな足利尊氏ら観応の擾乱に関わった人物の変わったエピソードなどを紹介していきます。
足利尊氏
言わずと知れた室町幕府の初代将軍です。戦上手な方ではあるけど「え?ここで?」という場面で負けてしまったり絶対無理だろうって場面で勝ってたりします。
一度劣勢に陥ると切腹騒ぎを引き起こす狼狽ぶりで弟たちを困らせたこともある一方で、危機的状況で笑う癖があり、周囲の者はその死をも恐れない様子を見て狼狽せずに落ち着けたという話も残っています。
身近な者とそうじゃない者で全く別の顔を見せていたのか、生死に対する執着心が薄かったのか…
実際の戦いぶりと直前の落ち込みっぷりなど色々な場面を総合的に見て尊氏には『躁鬱の気質があった』なんて話す学者さんもいるほど不安定な性格と言われています。
幕府が始まった直後は主に軍事面を尊氏が、訴訟や制度面については弟の直義が担うことに。戦に勝つと領有した土地を、贈り物をもらうとその贈り物を気前よく部下に渡したり、参拝した清水寺に「現世の幸せは直義(弟)に与えてください」という願文を奉納したりする一面もあったようです。
尊氏が尊敬した夢窓疎石という人から、仁徳があった他
- 戦に怯まず
- 敵を憎まず
- 度量の広い
人物だったという評価を受けています。
後醍醐天皇が建武の新政を行う前の活躍で後醍醐天皇の尊治の名から一文字賜って『尊氏』の名となったのですが、後に後醍醐天皇を裏切り敵対した後も『尊氏』を名乗り続けた他、後醍醐天皇が崩御すると寺を建てて弔っています。
そもそも後醍醐天皇を裏切った理由も弟の直義たちが不利になったため。何かしらの目的があって裏切った訳ではない上に後醍醐天皇に対する裏切りを後悔して引きこもるなど一貫しない行動から決断できない優柔不断だったのでは?とも言われています。
お人好しに加えて優柔不断で不安定。ただし、カリスマ性は抜群です。個人的に尊氏は「政治は直義、軍事はばさら大名に」と人を上手く使うことが抜群に長けている武将のイメージ。
あまりにも人に任せすぎて、将軍になって『これから!』という時期に政務を弟に任せきり田楽に嵌って政治を顧みないことも。そんな時に弟から「決めるとこは決めてください」と窘められることがあったなんて逸話も残っています。
やるときゃやる尊氏ですが、政治を行う上では若干不安のありそうな話がチラホラ出ています。最初の頃の兄弟間で苦手部分を補う理想的な関係でした。
高師直
尊氏政権の軍事面を支えた1人がこのお人。足利家の執事(家宰的な役割)です。
人妻好きで、塩冶高貞の妻に横恋慕すると吉田兼好に依頼して恋文を代筆してもらって奥様にその恋文を手渡します。読みもせずに突き返されて結局フラれた訳ですが仕返しがえげつない。
夫の高貞に謀反の罪を着せ高貞も妻も自害へ追い込み、その子弟が没落。好き勝手やってます。
他のバサラ大名と同様、既存の権力に反抗的な節があり
「王だの院だの面倒くさい。必要なら木彫りか鋳物の像でも置いときゃいいのに」
と室町幕府の中心にいるにも拘らず暴言を吐いています。この逸話は反高師直派から出てきた直義への告げ口のような形で出た発言のため讒言である可能性もありますが、少なくとも師直が既存勢力に対する反発心を持っているという印象を周囲が持っていたのは確実かと思います。
足利直義(ただよし)
直義に関しての変わったエピソードは見つかりませんでした。個性的なお二人に比べ、だいぶ常識人です。
冷静沈着な政治に秀でた人物で室町時代の初期は尊氏と直義の間で二頭政治を行い上手くいっていました。兄弟仲も非常に良かったと言われています。ちなみに戦はイマイチ。
足利尊氏が勢力を伸ばせたのは、地方の武士層や悪党、部屋住み(武士の次男・三男)の存在をなくしてはあり得ません。尊氏の寝返りを見て倒幕側についた日和見で動いていた層が結構いたのですが、尊氏のカリスマ性でそんな彼らの気持ちをガッチリ掴んだことが倒幕に繋がりました。
直義は、そんな尊氏の支持層とは別の層からの支持を取り付けています。
というのも、室町時代には公家や寺社勢力もかなり力を持っていましたし(基本的に公家や寺社勢力を掌握していたのが南朝。ただ寺社勢力にも敵味方があって幕府に近い勢力も当然あった)、鎌倉時代を通して貴族化した上層武士層(守護や上層の御家人達)も力を持っていました。直義はこれまで足利家を支えてくれたような武士層だけでなく、貴族化していた武士層を取り込んだ点で大きく貢献したのです。
この人の領分である訴訟を上手く裁いたことが尊氏が取り込めなかった層を引き込めた理由だったのですが、あわよくば「成りあがってやろう!」というこれまでの尊氏を支えてくれたハングリー精神の強い層を束ねる血の気盛んな人達とぶつかりかねません。ここら辺のバランスを取りながら最初の頃はどうにかやっていたのですが・・・
写真見て「あれ?」と思った方も多いのではないでしょうか?
元々、尊氏は平重盛像として、高師直は足利尊氏像として、足利直義は源頼朝像として伝わってきた絵だったのが、近年「実は重盛じゃなくて尊氏だよ」というようにこれまでの武将の絵が一気に変わってます。訳が分かりませんね。頼朝なんてずっと上の写真(直義)だと思い込んでました...
高師直と直義が不仲になった理由とは?
上に書いたエピソードからも分かるように、高師直なんかは幕府の中心人物であったにもかかわらず完全な『ばさら大名』。直義の人物紹介で書いた血の気の多い人の筆頭格です。
一方、直義はばさら大名や既存勢力に対してどんな風に考えていたのかと言えば土岐頼遠の一件が非常に分かりやすいかと思います。土岐頼遠もまたばさら大名の代表です。
室町幕府の後ろ盾でもあり権威を裏付けるための超重要人物に対する『とんでもない行い』を聞いて直義は大激怒。頼遠の父方・母方・妻方の親族(=三族)までの極刑を考えていたそうです。
出典が太平記なので『大激怒』とか『三族までの極刑』が史実かは分かりませんが、直義にとって北朝と院・天皇の存在は兄の征夷大将軍の正当性、室町幕府の正当性を示す非常に大事な存在なため激怒したのは無理からぬことです。この逸話から直義は『既存勢力との共生がベスト』と考えていたと思われることに加え、『ばさら』に対して良い印象を持ってなかったと分かります。直義の意向が入りまくった幕府の基本方針『建武式目』ではばさらを禁じていますし。
高師直の既存の権威に対する考え方は前述の通りですので、幕府の中心的人物が権威を蔑ろにする様子を見て直義がどう感じるでしょうか?
逆に戦や実力で世の中をまとめ上げてきたのに、兄の強さを笠に着て既存勢力に媚を売っているように見える戦下手の直義に対して高師直は何を思ったでしょうか??
一言で言えば互いに『気にくわない』これに尽きるのではないかと思います。勿論、感情的な物だけでなく各支持勢力や各々の損得も絡んで幕府の内部が二分されていくことになります。
高師直と上杉の諍い
尊氏は元々足利家の嫡男ではなく、次男で後を継ぐ予定はありませんでした。母は直義と同じく上杉家出身の女性です。嫡男は鎌倉の執権・北条氏の娘が母親だったのですが、若くして亡くなったために尊氏が後を継ぎました。
そんな足利家の家宰を行っていた高氏と尊氏を支えてきた上杉氏の間は対立状態だったそうです。ところが、尊氏は、これまで通り執事に高氏を置いていきます。それどころか、尊氏は高師直を更に重用し、1338年に直義の執事的存在であり尊氏と直義の従兄弟でもある上杉重能を出仕停止とさせています。そんな上杉家に直義は同情的だったと言われています。
さらに、二人の従兄弟である上杉憲顕が後の関東管領の地位を高師直の従兄弟に取られ「上杉重能の代わりに上洛してくれ」という話まで出てきます。こういった件があってから高氏に対する上杉氏の印象は最悪なものになっていきます。
上杉と近い直義にとって、ただでさえ良い印象のなかった高師直はじめとする高氏に対する印象がさらに悪化しただろうと予測できます。また、直義の支持勢力の核になる上杉氏ですから今回の事件は無視できないものだったとも考えられます。
直義と師直の力関係の変化
ここら辺は調べた中で一番しっくりくる説を大げさに単純化して書かせてもらっています。教科書的な説とはだいぶ違った解釈なので注意してください。
建武の新政中に起こった前鎌倉幕府の執権による復興のための戦(=中先代の乱)で不利に陥った弟をはじめとする足利勢を立て直すために後醍醐天皇を裏切ります。
後醍醐天皇を裏切るのが本意でなかった尊氏は引きこもりがちに。
尊氏は幕府内で軍事面を担っていたことから、引きこもり期間中にもう一人の幕府内での重要人物であり軍事を担当していた師直の影響力が増していきます。尊氏・直義体制から師直・直義体制に変化していったのです。
師直は南朝との戦いに精を出し、一方の直義は地道に訴訟をさばいていきます。
南朝との戦が激しくなると、その分師直の発言力は増していきます。
いよいよ南朝方の中心武将たちを追い詰め戦死まで追い込むような時期(1330年代後半)には、師直の発言権はかなりのものになっていたと思われます。上杉家との諍いはちょうどこの前後に起こります。直義の影響力を削ごうとしたのではないでしょうか。
南朝に戦える武将たちがいなくなったのに加え後醍醐天皇の崩御が重なると、南朝の勢いは急速に衰えます。結果、師直の幕府内での影響力は 師直<直義 となります。
そんな状況の中で1340年代に入ると、師直の率いていた武士たちによる秩序を無視した行いが目立ち始めるように。そこで直義は影響力のあるうちに師直を追いやるために動き始めました(ここら辺の動きも直義と師直の知力対決が見れるので調べてみると面白そうです)。
師直を追いやるためにとった直義の行動とは??
師直を追いやるための行動・・・直義が尊氏に師直の悪行をあげて糾弾したのです。1349年、直義らによって師直は執事職から追いやられます。さらに師直に対する暗殺未遂、光厳院による師直追討の院宣(天皇の宣旨の上皇バージョン)を国内外に発布するよう依頼するなどと徹底的に師直潰しに動きます。この動きの裏には、直義と正室がともに40代の1347年に生まれた長男・如意王に自分の地位や権力を与えたかったのでは?という指摘がなされています。
ちょうど似たような時期から南朝の動きは活発化。南朝方の軍事における中心人物の子供世代が育ってきたためです。
もちろん師直もやられる一方な訳がありません。そんな性格ならここまで拗れてません。
師直は兄弟(史料によって異なる)師泰と合流し、一気に直義を追い落とすためのクーデターを仕掛けて、尊氏の屋敷に逃げ込んだ直義を包囲します。直義は結局この騒ぎで両腕でもある上杉重能と畠山直宗を配流され、自身も出家して政治から身を引くことに(その後配流された二人は師直配下に殺されています)。
直義に変わって政権の中枢についたのは尊氏の息子・義詮(よしあきら)でした。
観応の擾乱の幕開け
先ほどちょろっとお話ししましたが、足利直義には正室が一人しかおらず、しかも子供がなかなかできませんでした。
尊氏の息子ではあるけれども認知されず冷遇されてきた直冬(ただふゆ)を如意王が生まれる前に養子として迎えています。尊氏の他の庶子に対する扱いと直冬への冷遇への違いを見て不憫に感じたのに加えて、その後の戦績などを見る限り直冬の能力に目をかけた部分もありそうです。
父から冷遇され自分を見込んでくれた叔父が政権から追い出されたと知ると、直冬は中国地方で兵を集めて決起します。ところが父が師直を派遣し、直冬の動きを阻止。九州に敗走した直冬は九州での地盤固めを開始します。
その九州で直冬は南朝方との連携も模索。1350年に入ると、その南朝方の武将たちが直冬を立てて挙兵します。この動きを察知してか直義も京から出奔し、高師直らを討つために決起したのです。
ここに観応の擾乱が本格的に始まります。
更に関東執事の上杉憲顕と高師冬の争いが起きて高師冬勢が駆逐されると、尊氏は直冬の対処だけに集中できず直義に対する対応も必要となりました。
北朝の光厳上皇に直義追討令を出してもらうと、今度は直義が南朝方と手を結んで対抗したのです。とは言え、直義はこの時期の文書に北朝の年号を使用しており、高一族を排斥するために便宜上南朝に下っただけでした。
多数の反師直勢がいたため、一旦は尊氏・師直軍を撃破。師直兄弟の出家を条件に和睦しますが、以前師直配下に誅殺された上杉重能の養子が高兄弟を誅殺してしまいます。
高師直らを排除した直義でしたが、師直ら高一族との対立だけではなく反直義派が出来上がっていました。幕府内で軍事面に重きを置いた尊氏ですから反直義派がまんま自分の支持層になっているわけで直義との諍いが避けられるわけがありませんでした。
尊氏と直義との対決
高師直の死から半年。それぞれの武将たちが勝手に行動をとって直義 vs. 反直義の衝突が避けられない状況になると、いよいよ尊氏は直義派を一掃をはかり始めます。尊氏は処罰や恩賞を自派に優位に与えていったのです。
直義にそれができるか?というと・・・これまでの支持層の関係から戦績に見合った恩賞を与えることができません。少しずつ直義派の者達は尊氏派に流れていき、時に尊氏も自派に流れるように脅したり懐柔したりしながら直義派を追い詰めます。
加えて高師直の死の前日、観応の擾乱真っただ中でたった一人の我が子・如意王を亡くし直義は覇気を失くしていたなんて話もあります。
幕内での立場を失くしていった直義は南朝に帰順。それでも幕府の正当性を訴えて南朝と北朝の和睦を画策しますが、和睦はならず。南朝方の武将でさえも「今戦うなら自分は南朝相手にやる」と言わせるほどの南朝方の態度でした。
そんな中で直義派の武将の暗殺や襲撃事件が立て続けに起こり、尊氏と義詮が挙兵。直義は事態を察知し、京から脱出。
直義派の基盤である北陸・信濃を通って鎌倉へ(北陸・信濃・鎌倉は上杉家の影響下にある地域です)。鎌倉から関東を抑え、北陸・山陰もまとめます。そして、もうお一人。直義の強い味方で忘れちゃダメなのが直冬です。直冬は九州で勢力を伸ばしつつ中国地方に対する政治工作も行っておりました。
南朝に帰順した直義と西国を抑えている直冬。ここまで大規模な反尊氏勢力にまで膨れ上がると尊氏でも厳しいのか、別の意図があったのか・・・直義と南朝の分断を図るため、尊氏が南朝に下ることにしたのです。
南朝有利の条件で和睦をはかり(=正平一統)、贋物とされた北朝の三種の神器も南朝方に返されます。ここにきて一気に南朝が政治的に優位に立ちました。一方の北朝は神器もないし、天皇も皇太子も廃され正当性を失い、幕府も北朝も政治的にガタガタとなります。
そうこうしているうちに尊氏は直義追討のために出陣。元々戦が得意な尊氏と苦手な直義ですから、尊氏が割と短期間で鎌倉まで追い込むと直義は降伏します。その身を幽閉された寺で一か月後に直義は急死。直前まで元気だったにもかかわらず、です。1352年3月12日、享年47歳でした。
最後は直義の死をもって観応の擾乱は終結(1352年)を迎えました。
公には病没ですが『太平記』では尊氏による毒殺とされています。時期が時期、死に方が死に方だけに毒殺疑惑が優勢ですが、ハッキリとしたことは分かっていません。
直義が亡くなったのは尊氏の四男(正室との間だと次男)・基氏が元服した翌日で高師直の一周忌、夭折した実の我が子の命日の翌日でもありました。我が子の元服というおめでたい日に毒殺するか?という疑問や尊氏が直義を殺す理由が見つけられない、尊氏がわざわざ師直の一周忌に毒殺するような性格ではない等の理由で、近年は毒殺説を否定する説も増えています。
擾乱の終結後
直義の死によって観応の擾乱が終結したかに見えましたが、実際には擾乱以上の混乱が待っていました。というのも南朝方が京から尊氏ら幕府勢力と北朝を追い出そうとしたためです。
尊氏の征夷大将軍の地位を解き、後醍醐天皇の皇子を征夷大将軍につけました。この事態を受けて尊氏は南朝と戦い奮戦しました。一度は鎌倉から追いやられたものの、再び占領。やはり戦いにおいては尊氏に分がありました。息子の義詮の方は苦戦してしまい、北朝の三上皇と皇太子を奪われます。
ちなみに神器は返しましたが即位に絶対必要なもの、という訳でもなく過去に神器なしでの即位の例があったことから「尊氏が剣に、良基(=二条良基、元関白)が璽となる」として北朝を無理やり復活させたのです(これが後々「南朝が正当」とする一因になりました)。
ですが本当に無理やり。というのも神器のない即位の時には治天(院政を敷いていた上皇)による宣言が必要だったのに、そもそも上皇すら南朝に奪われている状況だったためです。光厳・光明院の生母にどうにか女院として立て危機を乗り切ったのでした。
こうして南北で統一したはずの時期はすぐに終わりを告げ、新たに北朝を立てることになったのです。
この南朝との対決があったことで、旧直義派と反直義派が一時は協力関係を構築できたかと思いましたが、実力主義の室町時代。2代目将軍の義詮の元で飛躍した、これまた『ばさら大名』の佐々木道誉とのトラブルにより南朝へ行くような武将が出て政変や戦が繰り返されていきます。
さらにもう一人。直義派で忘れてはいけないのが直冬です。尊氏とは反発しまくった直冬ですが、九州で地盤を固める際には父親が尊氏であることを大いに利用していました。直冬と尊氏は確かに対立していましたが、その対立を「師直による陰謀」として地盤固めをしています。
そんな訳で、師直と直義(=反師直勢力の筆頭)が死亡したために九州での地盤保持が困難となります。そこで兼ねてから政治工作していた中国地方で足場を固め南朝に帰服し、反尊氏派と共に北朝との戦いに身を投じました。身を投じると言っても前線に立つタイプではなく後ろで指揮するタイプの武将だったそうですが…
南朝の衰退とともに直冬も直冬党も瓦解。1363年には中心的存在だった大内弘世や山名時氏らも幕府側に帰順。直冬自身も1366年以降消息を絶っています。
こうして観応の擾乱が本当の意味で幕を閉じたのです。
尊氏自身は1358年、直冬らとの戦いで負った傷による腫れ物が原因で亡くなったと言われています。その死の直前には弟の従二位に叙位するよう後光厳天皇に願い出ており、日付は不明ながらそれ以上の正二位の地位を直義に授けています。この意味は直義に対する贖罪なのか何なのか・・・
権力ある人達の兄弟間での諍いは歴史上何度もありますが、仲の良かった兄弟同士で争うケースは多くありません。
南朝と組んで師直と尊氏を破った後に直冬を将軍位につけなかったのは、直義は尊氏に対する情が残っているように見えます。直冬には正当性もありますし、直冬と尊氏とは不仲なわけで一気に尊氏派を追い出すことができたのに、それをしなかった。
直義が本格的に南朝に下った後、幕府と徹底抗戦する道もあったのに南朝からの和睦を探ったのは兄の地位を脅かさずに自身の位置を確保するためではなかったのか?
尊氏による直義の幸せを祈る願文の奉納と上記のような推測もあって、ネットの書籍レビューで見かけた『尊氏の南朝への帰順が息子を亡くして無気力となった直義を担ぎ上げる側近から離すためだった』説(私自身は裏付けを見つけられませんでした)を信じたくなりますし、尊氏による毒殺ではなく『(直義の甥っ子で一時期育ててたこともある)基氏の元服を見届けた上での自死』であって欲しいと思う訳です。
なかなか性善説で歴史上の人物を見ることはないのですが、尊氏・直義の兄弟に関しては別。そういう意味でも幕府を開くだけあって稀有な人物だと思うのです。