鎌倉時代

両統迭立とは?南北朝の動乱のはじまりを詳細に見てみよう!

歴ブロ
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南北朝時代(日本)wikipediaより 

室町時代は同じ武家政権の鎌倉時代や江戸時代と比べると安定してない印象を受けますね。そのイメージの原因の大半は戦国時代が始まったことが大きいです。そしてもう一つ。室町時代の開始と共に南北朝の動乱で朝廷が分裂して争っていた件も無関係ではありません。

南北朝時代を見れば、室町幕府がどのように隆盛し力を失っていったのか・・・その一端が見えるかと思います。そんなわけで今回は南北朝の動乱に迫っていきましょう。

 

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南北朝の時代の先駆け!両統迭立の時代

皇室が南朝と北朝に別れて争った時代 を 南北朝時代と呼びます。そもそも何故そんな事態に陥ったかというと、鎌倉時代の第88代・後嵯峨天皇が後継者指名を行わず皇統が二つに分かれて両統迭立(りょうとうてつりつ)となったことが始まりです。

両統迭立とは・・・

一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態

両統迭立 – Wikipediaより

両統迭立までの流れを見てみよう

両統迭立までの流れを年数を追って見てみると

年代 出来事
1242年  後嵯峨天皇が即位
1246年  久仁親王(後の後深草天皇/後嵯峨天皇の第2皇子)が4歳の時に譲位して院政開始
1258年  後嵯峨上皇が後深草天皇16歳の時、同母弟の恒仁親王(亀山天皇)に譲位させる
1265年  後深草上皇に第二皇子・煕仁(ひろひと)親王が生まれる
1268年  後嵯峨上皇が亀山天皇の嫡男・世仁親王(後宇多天皇)を皇太子に抜擢
1272年  後嵯峨上皇、53歳で崩御
1274年  亀山天皇、世仁親王に譲位

 

南北朝のきっかけ

ところが、後嵯峨上皇は世仁親王の時の皇太子を指名する遺言を残すことなく息を引き取ります。

遺言に残したことと言えば

  • 大荘園群の長講堂領を後深草上皇に
  • 坂上田村麻呂の御佩刀を亀山上皇に
  • 後継者は鎌倉幕府の意向に従うように

というもの。

後深草院も亀山院も院政を敷ける治天を望んだため幕府に裁定を持ち込みます。幕府は裁定の時、後深草上皇と亀山上皇の生母に後嵯峨上皇がどのように考えていたのかを照会することに。

これまでの流れからして後嵯峨院の意向としては亀山上皇の系統を後継者に望んだのは明らかで、実際に二人の生母からも「亀山上皇の系統で」という答えが返ってきます。

ところが、幕府も亀山上皇の系統にさせておけば後々拗れることもなかったのでしょうが…鎌倉幕府のキーマン・北条得宗と朝廷・院との調整役だった西園寺実兼の仲が『亀山父子<後深草父子』で後深草上皇の立場に同情したために両統迭立の時代へと突入します。

※10年交代の部分消しました。近年では幕府による妥協案である「10年交代で両統迭立しましょう」という和議が成立していないという説が有力となっています。

 

なお、互いに区別するために亀山上皇の皇統を大覚寺統、後深草上皇の系統を持明院統と呼んでいます。

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※光厳天皇は後醍醐天皇が失脚したことで鎌倉時代末期に皇位を継ぎましたが、後醍醐天皇が光厳天皇の即位を否定したため歴代天皇に含まれていません。

ただし、光厳天皇の弟・光明天皇が尊氏の擁立により即位した後は治天として院政を敷いていることから、北朝では第1代目の天皇として扱われています。

 

経済面での対立も発覚!?

交互に即位することになった大覚寺統と持明院統ですが、後嵯峨上皇の遺言を思い出してみてください。

  大荘園群の長講堂領を後深草上皇に

という部分です。重要な財政基盤は持明院統が握っている状態でした。財政基盤が安定しない組織は経済面で優位な組織に吸収されがちなのは今も昔も変わりません。そこで財政基盤の不利な亀山上皇は一計を講じて大荘園群の八条院領を手に入れることに。

この一件により皇族たちが分散して管理していたはずの王家領荘園群の争奪戦が激化し、政治的にだけでなく経済的にも完全な分裂状態となってしまったのです。

また、後嵯峨天皇の時代に息子の宗尊親王が鎌倉幕府の将軍の地位につくようになって以降、朝廷と幕府の位置が近づきます。幕府からの干渉が増えたことに対する不満を募らせる天皇も当然出てきました。

 

後醍醐天皇の即位と鎌倉幕府の滅亡

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後醍醐天皇像(清浄光寺蔵) 

建武の新政で有名な後醍醐天皇。実を言うと先々代の後二条天皇が若くして亡くなった上に後二条天皇の嫡男が幼年で病弱だったため、後二条天皇の後に皇位についた持明院統・花園天皇の後継を決める際、揉めに揉めました。

そこで立てられたのが予想外の後醍醐天皇です。いわゆる中継ぎの天皇でした。後醍醐天皇は自身の子が皇統につけないことにも持明院統から鎌倉殿が出ていることにも不満を持ちました。

さらに当時は院政で上皇が政治を執り行っている時代の中、31歳で皇位についた後醍醐天皇も例外ではなくお飾りの天皇として即位しました。面白い訳がありません。

皇統が二つに分かれている以上、権力を集中させることも難しい。

ということで(多少乱暴ですが)

「持明院統と幕府がなくなればオッケーじゃない?」

って話になり、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒幕させる方向に動いていきます。

干渉されなければ自分も我が子も皇位につけますし。ちょうど両統迭立時代に鎌倉幕府滅亡の遠因とも言われる元寇があったことも追い風となります。御恩ー奉公の関係で結ばれていた将軍と御家人の関係に綻びが生じていたためです。

そんな背景もあって後醍醐天皇の動きに呼応する悪党も出てきます。が、一度目は失敗し捕縛。後醍醐天皇が失脚したことで持明院統の光厳天皇が即位しています。この時、足利尊氏は鎌倉幕府側として参戦しましたが、流罪先から脱出して二度目の倒幕運動を起こす際に尊氏は鎌倉幕府から反旗を翻して後醍醐天皇について幕府を倒します。

こうして鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇は天皇中心の国家を作ろうと動き始めました。

後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕までの道のり 後醍醐天皇は、廃位と即位を繰り返した天皇として知られています。 後宇多上皇の第二皇子として1288年に生まれました。31歳...

 

不評だった建武の新政と新朝廷の開設

後醍醐天皇の倒幕理由は『武家政権からの口出し』も理由の一つ。「武士達に力を与えるのはマズいだろ」ということで、鎌倉幕府滅亡に力を貸してくれたはずの武士たちに対しても正当な恩賞を与えることはありませんでした。

軍事力を担っているのは朝廷よりも武士達。政権を運営するために軍事力は必要不可欠なはずなのに、その軍事力を持っている武士からの影響を極力排除した結果、武家たちの不満は募り政権運営にも支障をきたし始めます。

政権が不安定なのを目の当たりにした北条氏が鎌倉幕府再興を目指した1335年の中先代の乱を機に挙兵。尊氏はその討伐に行きますが、弟や側近ら足利方が不利になると彼らを助けるため新政権に反旗を翻します。

追い詰められる場面もありましたが、翌年には足利尊氏が京都を制圧。後醍醐天皇は敗北に終わり、三種の神器を尊氏に渡し和睦します。尊氏はその三種の神器を持って持明院統の光明天皇を擁立し、幕府を開くために建武式目を発表。この時に開かれたのが室町幕府です。

一方で廃帝された後醍醐天皇は幽閉先から抜け出して吉野へ行き、

「尊氏に渡した三種の神器は贋物だから即位は無効ね」

と新たに自らを天皇とした朝廷を開きます。吉野は修験道の聖地で多くの寺社が存在します。当時のお寺勢力と言えば武家政権・朝廷に並ぶ一大勢力。後醍醐天皇はこの寺に目を付け、全国津々浦々にネットワークを構築していきます。

この朝廷は、京都にある朝廷に比べて南にあるので南朝と呼ぶようになり、一方の尊氏が擁立した京の朝廷を北朝と呼ぶようになります。

以上の様な経緯で、南北朝時代が幕を開けます。こうして室町幕府は北朝を支援することとなり、長い期間対立していくことになったのです。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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