大宰府と太宰府の違いとその役割について
2019年4月1日に新元号の令和(れいわ)が発表されました。
令和の由来は、約1300年前に福岡県の大宰府で行われた【梅花の宴】を記した万葉集の歌の序文が採用されたそうです。当時の大宰帥(だざいのそち)=太宰府の長官だった、大伴旅人の邸宅にて梅花の宴が開かれ、その邸宅跡が大宰府政庁跡や坂本八幡宮の付近にあったとされています。
今回はそんな【大宰府】について書いていきたいと思います。
大宰府とは?
九州の筑後国筑紫郡(=現在の福岡県太宰府市)に701年の大宝律令によって整備された政府機関の事を大宰府と言います。
古くから筑紫の地は日本と大陸の玄関口となっており、律令制において外交や防衛などの国家機能を持ち、九州および壱岐・対馬の統括機関として置かれました。
大宰府が設けられた背景
大宰府の起源は、大和朝廷時代の527年に筑紫君磐井の乱を平定後、宣化天皇は北部九州の支配確立と、流動化する朝鮮半島政策の担う拠点として「那津官家(なのつみやけ)」という出先機関を置いたのが起源とされています。
日本書紀には、宣化天皇元年(536年)に、非常に備え那津に各地から集めた食糧を保管する官家と言われる、政治・経済・軍事上の拠点を作らせたと言う記述があり、ここが政府の直轄地であることが伺えます。
660年に朝鮮半島の百済が唐や新羅に滅ぼされると、663年に百済・倭国連合が唐・新羅と戦う白村江の戦いで敗れると、朝鮮半島から倭国は完全に撤退を余儀なくされました。
大和朝廷は、唐・新羅を監視するために、朝鮮半島に近い那津官家(なのつみやけ)」を最前司令部とし、対馬・壱岐及び筑紫の海岸線に沿って防人(さきもり)と烽(※とぶひ)を置きました。
また、筑紫には大堤を築いて水を貯えた水城を造り、百済の亡命貴族を遣わせて大野城も築城しました。これらの防衛施設に守られた、より内陸部に入った地に大宰府が移設されました。
「のろし」をあげて外敵の襲来などの変事を都に急報するための設備の事。
大宰府は8世紀になると、日本が律令国家へと体制を整えるに従い、当初の対防衛的色彩の濃いものから、外国からの使節を迎え、あるいは日本から外国へと使節を送り出すという対外交渉の窓口として、九州全体を治める律令制最大の地方官衙(役所)的役割の施設へ変わっていきました。
律令制での大宰府の役割
律令制での地方行政は、中央政府による諸国直轄を原則としていましたが、対外交渉に重要な役割を果たしていた大宰府を治める人間は、その与えられた大きな権限から【遠の朝廷】と呼ばれていました。
軍事面では、管轄下に防人統括する防人司・主船司を置き、西辺国境の防備を担っていました。
外交面では、古来より大陸の王朝たちとの交流の玄関的機能を果たしていた背景から、那津の沿岸に海外使節たちを接待する迎賓館である、鴻臚館(こうろかん)が置かれました。
大宰府の官人構成
四等官は長官の大宰帥(だざいのそち)、大宰権帥(だざいのごんのそち)の下に、
弐(すけ) | 大弐(だいに) | 少弐(しょうに) |
監(じょう) | 大監(だいげん) | 少監(しょうげん) |
典(さかん):大典(だいてん)・少典(しょうてん) | 大典(だいてん) | 少典(しょうてん) |
大判事 | 少判事 | |
大令史 | 少令史 | |
大工 | 少工 | 博士 |
陰陽師 | 医師 | 算師 |
防人正 | 防人佑 | |
主船・主厨・史生 | 主厨 | 史生 |
祭祀を司る主神 |
上記の役職の者が50人ほど配置され、さらに雑務に携わる者などが多数おり、その数1000人を超える大所帯と言われています。
長官の大宰帥をはじめ、府官人の位階は諸国司より高く、経済的にもかなり優遇されており、現在でいう所のエリート官僚と言ったところでしょうか。
大宰師は大納言・中納言の政府高官が任命されることが多く、平安時代には親王が任命されることもあったようです。しかし、実際に赴任しないことが多く大宰府を仕切っていたのは、次席である大宰権帥が政務を取り仕切っていました。
大宰府の構造と建て替え
大宰府はこれまで3度の建て替えが行われており、創建時には堀立柱式であったことが明らかになっています。律令制にともない礎石建ち瓦葺き建物となり、左右対称に建物を配置する朝堂院形式に建て直されました。
平城京や平安京と同じく、条坊制を布き、自然の山河や水城、大野城、基肄城に護られた防衛都市であり、風水思想に則り築かれた都市でもありました。
941年の藤原純友の乱で焼き討ちに合い焼失したのちに、3度目の大宰府再建工事が行われました。
大宰府の衰退と廃止
天平時代になると、大宰府は中央で失脚した貴族達の左遷先になることも多く、菅原道真や藤原伊周などが赴任しました。
739年に大宰府に左遷されてきた、藤原広嗣は聖武天皇に遣唐使であった吉備真備(きびのまきび)と玄昉(げんぼう)の排除を求めて上奏文を送りますが、聖武天皇はこれを国家転覆を企んだ謀反とみなし、藤原広嗣を処刑する事件が起きています。
その影響で、742年~745年の間は大宰府が廃止され、代わりに筑前国司が大宰府の行政機能を管轄し、筑紫に鎮西府を作り軍事機能を移転しました。
平安時代の大宰府
時代が進むと、大宰府の実権は下級官人に移っていき、府官人の土着化あるいは土豪の府官人化が進みました。
平清盛の時代になると、日宋貿易の利を求め、平清盛や弟の頼盛と大宰大弐に就任し、貿易の権限を掌握しようとしました。しかし、鎌倉幕府の成立により律令制下の「大宰府」はその機能を停止しました。
大宰府がどのタイミングで廃止されたのかはわかりませんが、最近の発掘調査によると12世紀前半にはかなり荒廃が進んでいたとされています。
大宰府のその後
建物としての大宰府は消滅しましたが、権威として【大宰府】は残っており、鎌倉幕府の鎮西将軍は、朝廷の役職・大宰少弐も兼務しており、実質大宰府の最高権力者として官人たちを従えて政務を執りました。
後に、大宰府を居城とし少弐氏として豊後国の大友氏と並ぶ有力武士として、九州政治に大きな役割を果たすことになります。
室町時代になると少弐氏にかわって筑前を支配したのは、周防・長門を本拠とする大内氏でした。応仁の乱には少弐氏が少し盛り返し、一時的に筑前を奪取しますが、乱の終結で大内政弘が京から帰国するとすぐ筑前を取り戻します。
大内氏の滅亡後の筑前の支配は、豊後を本拠とする大友氏へと移りますが、日向耳川の合戦で大友氏が島津氏に大敗し、九州内は激しい戦乱状態におちいり、太宰府もしばしば戦闘の舞台となり、寺社も多く焼失する事となりました。
そんな激しい戦乱も、島津氏の岩屋城攻めを最後に大宰府は静かな農村に姿を変えて、江戸時代を過ごしていきます。
その後は、菅原道真が祀られた太宰府天満宮とその門前町がまちの中心になり、全国からの参拝者を迎える都市が作られていきます。
幕末には、京都を追われた尊皇派の三条実美たち五卿が太宰府に移され、王政復古で帰京するまでの約3年を太宰府天満宮で過ごしました。この3年間、五卿のもとには、西郷隆盛・坂本龍馬など勤皇の志士たちが訪れて情報を交換していたことから、太宰府は後に「明治維新の策源地」と呼ばれました。
大宰府と太宰府の違い
役所である大宰府と現在の菅原道真公を祀っている太宰府天満宮の【大】と【太】と言う字に違いを書いていきたいと思います。
大宰府とは飛鳥時代の大宰という数か国程度の地域を支配する地方行政長官を担った役職の事を指します。
一方で【太宰府】は、土地や建物の名称に使われます。そのため、太宰府天満宮は【太】と言う文字を使用しています。
よって、日本史での問題に出てくる大宰府=役職や役所を指すことが多いので、太宰府と書かないのように注意しましょう。