原敬内閣をわかりやすく 米騒動後の政党政治と外交<人物伝>
第一次世界大戦後の日本は、大戦景気の反動、米価高騰と米騒動、そして国際秩序の再編という複数の課題を同時に抱えることになりました。
その転換期に首相となったのが、立憲政友会※総裁の原敬(はら たかし)です。原敬は1918年9月29日に首相へ就任し、1921年11月4日に東京駅で暗殺されるまで政権を担いました。
ここでは原敬が実際に何をしてどんな功績を残したのか、なぜ暗殺されることになったのか?深堀りしていきたいと思います。
※立憲政友会の結成までの経緯は下の記事に書いてあります
原敬(1856~1921年)の基本情報
官僚(外務省)と政党政治の両方を経験した原敬は、立憲政友会の実力者として西園寺公望を支えたのち1914(大正3)年に政友会総裁となり、1918(大正7)年9月29日、原は内閣総理大臣に就任します。
爵位を持たず、衆議院に議席を持つ初の総理大臣だったことから平民宰相と呼ばれ、1921(大正10)年11月4日まで在職しました。
- 生没:1856年3月15日(安政3年2月9日)~1921(大正10)年11月4日
- 出身:岩手県(現・盛岡市)
- 立憲政友会総裁:1914(大正3)年就任
- 第19代内閣総理大臣:1918(大正7)年9月29日~1921(大正10)年11月4日
- 経歴:外務官僚→新聞社経営→政友会幹部→首相
- 特徴:平民宰相/初の本格的政党内閣/東京駅で暗殺
原敬が政治家になるまでの経緯をみてみよう
原敬は1856(安政3)年、盛岡藩(現岩手県)の上級藩士の父・直治と母リツの間に誕生しています。近江浅井氏の流れを汲むとされる家系です。
幼少期の父の死(1865年)や戊辰戦争(1868-69年)での盛岡藩の苦境もあって家禄が減り、家計は苦しくなりました。それでも学問を続け、なかでも西洋文化やフランス語を学んでいたようです。
出自に縛られにくい登用や機会の拡大を重視する政治姿勢は、こうした身分秩序が揺らぐ時代を生きたからかもしれません。
ジャーナリストへ
1876(明治9)年になると司法省法学校に入学しますが、寄宿舎の待遇改善を求めてくだされた処分への抗議で退学処分に。退学後に記者として働くと、論説も手掛ける言論人となり、政界や官界との接点を持ちはじめました。
記者時代の転機が1881(明治14)年。原の希望で官僚の全国周遊旅行に随行したことで、地方政治や産業の実情をつかむ経験を積んだとされています。ところが、明治十四年の政変※後、新聞社内の体制変化もあって退社。
原の働いていた新聞社が野党勢力の代表(大隈重信)に買収されて世論形成を進めていくような流れがあった中で、政府側も大阪での情報発信を強めることを意識し始めていました。
そんな中で原は外務卿の井上馨の周旋で政府系の機関紙『大東日報』の記者になって以前以上に政財界とのつながりを深めました。
↓下の記事は明治十四年の政変についてさらっと触れているので、気になる方はご覧ください。
官僚の道に転身
その後、原は井上馨の推挙で外務省へ入省。官界へ転身します。当時はフランス語を話せる人材が少なく、井上にとっても貴重な人材だったそう。
若い頃に勉強したフランス語が転身の原動力となったようです。
外務省に入った原は、1883(明治16)年には天津領事に任命され、外交の現場に入っていきます。この時に伊藤博文から原の高い能力を認められることとなったのです。
原敬、政治家となる
外務省では通商局長、外務次官まで歴任。それ以外の省庁(農商務省)でも秘書官・参事官などを務めましたが、1897(明治30)年に官界を退きました。
その後、再び民間(新聞社経営など)を挟みながらも政界要人との連絡は取り続け、1900(明治33)年に伊藤博文を中心に結成された立憲政友会の幹部として参加しました。官界にも財界にも政界にもパイプを持っていたことが功を奏したようです。
なぜ「平民宰相」と呼ばれたのか
1902(明治35)年には衆議院議員に初当選し、以後連続当選(8回)を重ねて党の実力者となっていきました。
政友会では西園寺公望を補佐し、内務大臣などを歴任して政権運営の中枢に入ると、1914(大正3)年には政友会総裁となり、とうとう1918(大正7)年9月29日には内閣総理大臣に就任したのでした。
当時、首相は華族が就くことも多く、爵位を持たない原敬の総理就任は目立つ出来事でした。このため原は「平民宰相」と呼ばれます。
原敬内閣が成立した背景(米騒動と寺内内閣の退陣)
原が政友会総裁となったのと同年、1914(大正3)年7月28日。
世界に目を向けると、オーストリア=ハンガリー帝国のセルビアへの宣戦布告により第一次世界大戦が勃発していました。
日英同盟を理由に日本も参戦はしましたが、戦争の主戦場がヨーロッパだったため日本本土が戦場になったわけではありません。一方で、この時期の日本は近代的な工場を既に稼働させており、戦争に集中していた欧州列強諸国への物資供給で大戦景気に沸いていました。
ところが、一般庶民にとって恩恵は少ないどころか軍用米の必要性や投機・流通の混乱などから米価が高騰。そんな背景から起こった1918年の米騒動※では庶民の生活不安と政治不信を一気に表面化させ、寺内正毅内閣は総辞職に追い込まれます。
寺内内閣が倒れた後は衆議院の第一党である政友会の原敬が首相となり、政党内閣の色が強まっていったのです。
「初の本格的政党内閣」が生まれた理由
原内閣が「初の本格的政党内閣」と言われるのは、政党(立憲政友会)を基盤にして内閣と議会運営を連動させて政権を動かそうとした点にあります。
衆議院議員たちは、制限選挙で一部と言え、国民の意志が反映される「選挙」によって選ばれた人たちです。米騒動のような大規模な社会不安が起きる局面で「世論と大衆の行動を無視した政治運営は困難」と元老たちも考え、衆議院で支持されている政友会総裁の原敬を推薦したのでした。
帝国議会設置当初は超然主義※から徐々に政党政治に移行した背景には、こうした危機的状況を乗り越えるために衆議院を基盤にした内閣運営が必要という考えに至ったからのようです。
※かなり単純に言うと「政党なんて気にすんな」という考え方
原内閣の功績
ここでは平民宰相ならではの政策や国策の変化、外務省の閣僚経験者でもある原が第一次世界大戦後という難しい局面にどう対応していったかをまとめていきます。
国内政策①選挙法改正で有権者を拡大
原敬内閣期の重要事項に挙げられるのが、1919年の衆議院議員選挙法改正です。納税要件が直接国税10円以上から3円以上へ引き下げられ、有権者数が増えました。米騒動後の社会不安も背景に、政治参加の範囲を広げる必要性が意識された結果だと考えられます。
さらに選挙制度の改正では有権者を増やしただけでなく、政党が候補者を立てやすい小選挙区制も復活しました。
この選挙法改正で衆議院選挙の比重が増し、政党政治の基盤は以前よりも広がったと言えます。
国内政策②教育政策
選挙法改正と並んで原の功績として挙げられるのが、大学令と高等学校令の制定で学校を増設したこと。これにより、慶応義塾大学や早稲田大学、明治大学、法政大学、中央大学などが旧制専門学校から旧制大学へ昇格しています。
その他の国内政策
原首相は選挙法改正や教育政策以外にも交通機関の整備、産業の振興、国防の充実という積極的な財政支出を伴う政策(積極政策)を推進していきました。
ところが、大戦景気が終戦に伴って終わり、1920(大正9)年に戦後恐慌が始まると積極政策は行き詰まることになります。
対外政策/第一次世界大戦後の国際秩序にどう向き合ったか
この時期の日本は対外政策も非常に重要となりました。ベルサイユ体制に順応し、米英との協調を軸にした外交を進めます。パリ講和会議では西園寺公望を首席全権として派遣しました。
日本が国際連盟規約に人種差別撤廃を盛り込む提案を行ったのも原内閣の時期にあたります。
同時に中国では、パリ講和会議での山東問題の処理(ドイツの権益が日本へ移る形)への反発が強まり、1919年の五・四運動へつながります。背景には、1915年の対華二十一か条要求以来の反日感情が蓄積していたこともありました。
暗殺(1921年11月4日)と政党政治への影響
原敬は1921年11月4日、東京駅で刺されて死亡しました。
暗殺理由ははっきりとしていませんが、当時は次のような点から原内閣に対する批判が強まりやすい状況でした。
- 積極政策の行き詰まり
- 立憲政友会の統制拡張による政党間の争いの激化
- 利権をめぐる汚職事件の発生
さらに第一次世界大戦末期から選挙権における納税資格の撤廃を掲げる男性普通選挙の実現を求める運動が活発化し、野党のスローガンに取り入れられていきました。が、原首相をはじめ立憲政友会は普通選挙に対して「時期尚早」と反対。社会運動にも冷淡な態度だったと言われています。
また、同月12日から開かれるワシントン海軍軍縮会議に向けて原首相が軍縮に前向きだったとされており、国民世論からは「弱腰」と見られる場面もありました。
犯人の中岡艮一も原首相に対して批判的な意識を持っており、立憲政友会に対しても横暴であると憤慨していたそうです。
原敬暗殺事件後の立憲政友会は高橋是清が率いて組閣もしましたが、閣内不統一で総辞職。指導者として優秀だった原敬を欠いた政友会は2年後に分裂することとなりました。






