国際政治に大きな影響を与えた門戸開放とは?分かりやすく簡単に解説!
門戸開放通牒とは1899年にアメリカの国務長官・ジョン=ヘイが列強による中国分割をいったん止めることになる通牒のことです。
ここでは、門戸開放通牒にはどんな内容が含まれていたのか、宣言が出された背景、影響などを簡単に紹介していきます。
門戸開放に含まれた内容
当時、清を切り取ろう(中国分割)としていたロシア・日本・ドイツ・フランス・イギリス・イタリアの6か国に対して2回に分けて行った通牒です。
中国の領土と行政の保全、さらに通商上の機会均等を求めました。教科書的に言うと
- 門戸開放(1899年)
制限を設けず、港や市場を開放して経済活動の制限を撤廃しようというもの - 機会均等( 〃 )
開放された活動(通商権・関税・入港税など)の機会を均等にしようというもの - 領土保全(1900年)
で、門戸開放宣言とも言われます。
領土保全が1900年に追加されたのは同年に義和団事件が起こり、八か国連合軍を派兵したことで物理的に分割される可能性が高まっていたためです。
列強の方も一応の賛意を示しており、門戸開放宣言によって一旦の列強による清への進出は留まることになりました。
門戸開放が行われた背景
清が列強により進出され始めていた1860年代のアメリカは南北戦争(1861~65年)の真っただ中ということで、清進出はかなり出遅れていました。
一方でアメリカにもアジア進出の兆しが見え始めていきます。
1890年代のフロンティア消滅、門戸開放の前年の1898年にキューバを巡って争った米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)の勝利によってスペインの植民地の獲得などで権益を拡大し始める時期に突入していたのです。
その米西戦争勝利で獲得した植民地の一つがフィリピンでした。アジア進出の足掛かりが前年に出来ていたわけですね。
土地も人口も非常に多い国ということで恩恵は計り知れません。列強による中国分割、さらに日清戦争(1894~95年)に勝利した日本まで加わろうという情勢にもなっていました。
ところが、アメリカは場所も遠く、租借地の確保にも利権獲得競争にも出遅れてしまいました。
そんな感じでアメリカが「どうしたもんか」と考えていたところに、清進出の先行国だったイギリスにより「機会均等」の原則を宣言することへの主導権を握らないかと提案を受けることになったようです。
以後、アメリカの中国に対する外交の原則では「門戸開放政策」が掲げられました。
※1850~60年代に起こっていた清に関係する出来事に触れた記事を置いておきます。
アメリカ・イギリスが機会均等を望んだ理由とは?
19世紀半ばの時点で既に「世界の工場」となっていたイギリス、南北戦争を主導したリンカン政権以降の高関税政策による国内産業保護と産業革命後発組の利点を生かして重工業分野の産業が発展していたアメリカ。
どちらも大きな市場を渇望しており、中国のような巨大な市場は喉から手が出るほど欲しいものでした。経済的観点からも中国がこれ以上分割されることは両者ともに望んでいなかったようです。
イギリス・アメリカ両国は、日本やロシアのように地理的優位に立っていたわけではありません。また、アメリカは植民地獲得競争後発組で利権獲得に躍起になっていたドイツのように直接的に清への利権の足掛かりを築けていたわけでもありません。
ドイツもまた19世紀にドイツの主導権をめぐるオーストリアとの戦いなどで植民地競争に遅れていたほか、イギリスとの距離の関係などから産業革命でも後発組の一つ。重工業メインで発展するというアメリカと共通点を持っていました。
1895年に日本に対して三国干渉(←露仏同盟によりフランスも参加)を経て「膠州湾租借に関する独清条約(1898年)」で山東省全体の利権獲得したドイツや、「旅順口及大連湾貸借に関する露清特別条約」を結んで大連・旅順の租借権を獲得していたロシア両国への牽制も兼ねて機会均等を望んでいたようです。
門戸開放通牒による清や国際情勢への影響
列強と清のパワーバランスもあって清は門戸開放宣言を受け入れざるを得ませんでした。
清への影響
通牒のうち「領土保全」は中国分割を一度止めることになりプラスに働きますが、一方で経済的には自由競争を通じてガタガタになっていきます。
そうした事情から反列強勢力の義和団事件に繋がりますが、列強の利害がさらに複雑化し、清の権威はますます低下することになったのでした。
国際情勢への影響
列強の利害対立は、やがて日露戦争に発展。日露間でポーツマス条約が締結され、満州南部の利権は日本が獲得することになりました。
この時点では直接対立していませんが、アメリカに門戸開放により中国市場に介入していく方針がある以上、外交次第で潜在的に敵国になってもおかしくない状況が出来上がります。
さらに日露戦争でロシアの力が衰退すると、イギリスがロシアよりも世界政策を掲げるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世率いるドイツを警戒して英露協商や英仏協商を締結。
ドイツが経済的な対立の末にかつて行っていたフランス孤立化政策の政策転換を行って結ばれた露仏同盟も併せて三国協商に繋がりました。三国協商はドイツを中心とした(独墺伊)三国同盟と対立し、第一次世界大戦(1914-18年)に発展したのは良く知られています。
その第一次世界大戦中に日本は中国(中華民国/清は1912年で滅亡)へ二十一か条の要求をしており、列強との協調関係を重視していた外交から逸脱していくことになったのでした。