豊臣秀頼は「秀吉との親子否定説」や「生存説」など何かと逸話が多い人物だった!?
豊臣秀頼は秀吉と側室の淀殿との子として生まれます。
家康が江戸幕府を開くと、次第に対立し2回の大阪の陣で対決することになり、1615年の大坂夏の陣で豊臣家は滅びました。
ドラマなどでは何かと母・淀殿が強烈なキャラで描かれることが多いので、秀吉の子でありながら影が薄い気がします。私的には、マザコンのイメージを強く持っていますが、実際には中々の人物だったと言われています。
よく考えれば、秀吉に溺愛されて過保護に育てられ、幼い頃から教育ママの下で帝王学を学び頭脳明晰でないわけがありません。
そこで、今回はそんな豊臣家のプリンス・秀頼について迫っていきます。
なお、この記事はYahooニュースエキスパートで書かれた記事をかブログ用に加筆・リライトしてあげています。
二条城会見で秀頼の天下人の資質が…
秀吉が小柄でサルに似ている事から、弱々しい感じの青年かな?と勝手にイメージしていましたが、1611年の二条城会見で実際に家康側にお披露目されると、予想をはるかに超えた大きな体の青年で、一説には秀頼の身長は六尺(約180cm)を超えていたと言います。
家康を始め徳川家臣団のどよめきをもろともせずに秀頼は終始落ち着いました。
実際の会談でも秀頼は豊臣家の今あるべき立場を理解しつつ、家康は年長者であり大舅でもある事から家康に上座を譲る気配りができる人物に成長していました。この二条城の会談は多少のトラブルはあったものの、秀頼は少しも動じる事もなく見事な立ち振る舞いを見せます。
その秀頼の立ち振る舞いに家康は…
二言、三言話しただけで天下人だけが自然と身にまとえる悠揚迫らぬものを持っていると分かった、その賢さにも舌を巻き、さすがの家康も気圧された。
と語ったそうです。
豊臣家は西国では慕われていた!?
1603年に征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた徳川家康ですが、豊臣家のおひざ元の畿内中心では、秀頼が成長するまでのつなぎ政権くらいしか思っていなかったようです。それだけ、豊臣家の威光が畿内中心に根強く残っていました。
実際に幕府は後に燃え残った大坂城を再建するときに、秀吉時代の石垣を土で覆って、豊臣時代の痕跡を地上から消してから大坂城を再建しているほどでした。
そんな中、会見が無事終わると大阪や京都・堺を中心とした畿内の人々は、天下泰平を祝ったと言います。それだけ、豊臣家(秀頼)が慕われていたことがこの文章でもうかがえます。
会見で立派に成長した秀頼を目の当たりにし、西国の秀頼人気を感じた家康はこのまま豊臣家を存続させてはいけないと痛感したのでしょう。会見後に家康は、西国の諸大名たちに将軍に忠誠を誓う起請文を取り付けています。
淀殿は別として秀頼の本心はわかりませんが、本人の自覚なしに周囲が自然と担ぎ上げるだけのカリスマ性が秀頼にはありました。そのカリスマ性は、徳川家にとって大きな脅威に違いなかったのです。
そして『方広寺鐘銘事件』から『大坂の陣』へ向けて動き出しました。
豊臣秀頼の父親は本当に秀吉なのか?
江戸時代の書物『明良洪範』には、豊臣秀頼の身長が6尺5寸(197㎝)・体重43貫(161㌔)と書かれ、取り上げられることが多いです。上記が本当なら、お相撲さんみたいな体格をしていたことになりますね。
別の史料には身長180㎝・体重80㌔のがっちり体系とも書かれ、ほかにも161センチくらいだったと史料によってばらつきもあります。
当時の男性の平均身長が155㎝と考えると180㎝オーバーの秀頼はかなりの大男です。
一方で秀吉は、当時の平均身長より低く『小柄な武将』の部類に入るくらいだったので、【秀頼は秀吉の子ではない】と疑われている要因となっています。また、秀吉は多くの側室がいたのにもかかわらず、子どもは淀殿との間にしか生まれなかった事で『どうして淀殿だけ二人も子供が生まれたのか?』と疑問視されています。
明良洪範にも秀吉の実子ではなく、大野修理(淀殿の側近)と浮気をして捨と秀頼が産まれたと書かれています。
淀殿の味方をするのであれば、秀吉は長浜城主時代に6歳で早世した側室・南殿との間に子供がいました。この話が事実なら秀吉は淀殿以外にも子供が出来たことになります。秀吉の種無し説が否定されることになります。
また、淀殿の父・浅井長政は長身で180㎝あったと言われており、淀殿本人も168㎝と長身なだった事から秀頼が長身でも不思議はありません。
豊臣秀頼の生存説
1615年の大坂夏の陣で淀殿と共に大阪城で自害したとされる豊臣秀頼は、生存説もささやかれています。
大阪城が落城したのちに京都では、
花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ
と言った童謡が流行ったそうです。
この歌からは秀頼だけではなく真田幸村も共に落ち延びたことになっています。
歴史上、生存確認が不明なカリスマたちは、簡単に死なせずに人々によって伝説となる傾向があります。有名な人物では源義経が大陸から逃れてチンギス=ハンとなったとされ、孫のフビライ=ハンが日本に攻め込んだのも祖父の敵討ちだと言われる伝説もあります。
秀頼も本人の遺体が確定されていないことから生存説がささやかれています。そのうえ、鹿児島には秀頼のものと思われる墓も残されています。
また、九州の島原の乱を主導した天草四郎時貞が秀頼の子どもではないかとされています。彼の馬印が千成瓢箪(せんなりひょうたん)で、地元の書物に天草四郎を豊臣秀綱と表記しているものがあるようです。
こうした伝説が残っている一方で、1980年には大阪城三之丸跡で3人の頭蓋骨が発見されました。分析の結果、発達状況から庶民のものではなく高貴な人物で、顎に介錯されたような傷が残っており、年齢が20代前後の男性だと鑑定の結果が出ています。
その頭蓋骨の一つが秀頼のものではないかと考えられており、その遺骨は京都の清涼寺に埋葬され、首塚が建てられています。
豊臣秀頼は歴史上重要なキーマンであるにもかかわらず、史料や研究が進んでいないのが実情で史料の発見や研究が進むにつれて秀頼の人物像が変わってくるかもしれませんね。