豊臣秀頼出生の秘密と豊臣秀次に対する秀吉の思い
豊臣秀吉は、14人の側室を迎えましたが子供はできませんでした。
しかし、淀殿との間だけ2人の子供が生まれています。生物学的に考えると、淀殿だけに子供が生まれると言うことはありえないことです。秀吉の側室の一人、京極竜子には2男1女が居ましたが連れ子であり、秀吉の下へ嫁いでからは子供は生まれませんでした。
そのため不妊の原因は側室にあるのではなく、秀吉側にあると考えられています。
秀吉不妊説の根拠として、側室だった加賀殿やお種殿などが他に嫁いだら子供が生まれたと言うことからでした。また、淀殿が長男・鶴松の懐妊時期には秀吉がそばにいましたが、次男・秀頼の時は、懐妊可能時期の一ヶ月前から筑前の名護屋城におり、大阪城にいた淀殿が秀吉の子供を懐妊するのは物理的に無理があります。
それこそ、コウノトリが運んでくれない限り、秀吉と淀殿の子供はできるはずがないのですが、どうして子供ができたのか考えてみようと思います。
豊臣秀頼の出生の秘密
それは、秀吉が淀殿を選んだからでした。※この真意は後述します。
まずはどうして選ばれたのかと言うところを説明しましょう。
多くの秀吉の側室も同じ立場であるにもかかわらず、そうして淀殿だけが選ばれたのでしょうか??
それは、淀殿が農民出の自分を大名の地位まで引き上げてくれた、織田信長の血を引いていたからだと考えます。そして、その太恩を織田信長に返すために、その血を引く淀殿の子に豊臣政権を引き継いでもらおうと考えたと思ったのかもしれません。
ところが、自分には子供を作る能力が無かったのは十分理解していたので、第三者の協力が必要でした。そこで、利用したのが民間で子供が恵まれない夫婦にも子を授かる仕組みを利用するのです。
今で言う、人工授精なのですが、当時は現実的にその行為が必要でした。
これが淀殿が選ばれたという真意です。
通夜参籠と呼ばれるこの仕組みは、大坂城内の専用の部屋を作り、僧侶や陰陽師的な者が子宝を授かるように祈祷し宗教的な陶酔が頂点に達すると、そこで父親が判別できないように複数の男性と機式を行うというものです。
長男・鶴松の懐妊時は、この儀式が秀吉の管理の下で行われたので鶴松誕生時には多くの祝賀行事が行われ、正式な後継者として正室・寧々の元で育てられました。
当時の武家のしきたりとして、側室から生まれた子供は正室が育てるのが常識でした。
しかし、1591年8月に鶴松は三歳で死去し、秀吉は非常に落胆しました。そして、跡取りをあきらめたかのように、12月に豊臣秀次に関白職を譲り、自分の後継者としての地位を与えました。
ところが、1593年8月3日に淀殿に次男・秀頼が生まれると事態が予想外の方向へ動き始めました。
この秀頼出生の経緯が、朝鮮出兵のため秀吉が大阪城に不在の時に、淀殿が前回と同じ儀式を行ったと考えられています。秀吉的には、自分の管理外で淀殿が勝手に行った儀式だったわけですから当然、激怒します。
そして、秀頼が生まれると鶴松誕生の時とは違い一切の祝賀行事も行われず、秀頼の育成も異例の側室である淀殿の下で行われることになりました。この時、正室・寧々に送った手紙には【生まれる子は茶々一人の子でよい】と冷たく語ったとされています。
ただ、淀殿に対してはお咎めを与えることは無く、その代償として淀殿付きの女中達と儀式を行った関係者達が処刑や追放されたされています。そんな経緯で誕生した秀頼ですが、鶴松と同じように自分の子と認知し、将来政権を継承させることを望むようになります。
秀次切腹事件と秀吉の思い
既に二代目関白として豊臣秀次が政権を継いでいた状況での秀頼誕生は、複雑なしがらみが生まれます。この想定外の跡取り誕生で1595年に秀次切腹事件と言う痛ましい事件が起きる事になります。
秀頼成人までの継承役として秀次の活用を考えていた秀吉は、切腹を自分への裏切りと捉えた秀吉は、幼い若君4人と姫君、側室・侍女・乳母ら39名が斬首されました。
秀次切腹は秀吉が命令を出したと一般的には認知されていますが、近年の研究ではその史料自体が信憑性が薄いとして違った見方をしています。徳川光圀が監修した【大日本史】に秀次事件の記述があり秀吉は秀次に切腹命令は出しておらず、むしろ生きていてほしいと思っていたようです。
なぜなら、秀次には重要な仕事が控えていました。
1594年1月に秀吉から加藤清正・立花宗茂・島津家・吉川家宛てに朝鮮出兵に関する朱印状が出され、翌年に豊臣秀次を総大将に朝鮮へ大群を渡航させる旨が書かれていました。
明攻略の前哨戦である朝鮮制圧に苦戦していたので、その局面打破に関白・秀次を朝鮮に派遣し軍の指揮を鼓舞させることを秀吉は考えていました。
生まれたばかりの秀頼は、秀吉の血を受け継いでいません。
仮に実子であったとしても秀頼が幼い時点で、秀次を排除するのは明国制圧計画に大きな痛手となりますし、幼い秀頼が朝鮮半島へ行くわけにもいきません。
それではどうして、秀吉と秀次が対立することになったのでしょうか??
これは、秀次が朝鮮出兵を反対していたからではないかと考えます。
秀吉は朝鮮半島で戦っている大名達に、秀次を総大将として派遣すると朱印状を送ったのですから、それを実現させなければ秀吉の威厳が地に落ちることになります。
実際に1595年になってから、二人は大坂城や聚楽第でこれまでに無いほど面会しており、おそらく秀吉が秀次に対して朝鮮出兵に関して説得していたと考えられます。
豊臣政権の実権は秀吉が握っていたとしても秀次自身も関白就任3年を迎え、関白・秀次の承認なしでは事が進まないのもあり秀次の派閥もでき始めていました。
しかし、同年6月に秀次が高野山へ蟄居するに至る事件が起こります。
天脈拝診怠業事件です。
この事件は当時の天皇が体調が優れず、医者が17日、18日、19日と続けて診察をしていたにもかかわらず、20日に医者は同じ時期に具合が悪くなった秀次のいる伏見に診察へ向かいました。
これに困った朝廷は、天皇の容態を一つ書きにして伏見にいる医者の下へ薬を取りに行かせることになりました。この行為が、天皇の診察より関白・秀次を優先させたと言う事になってしまうので、問題となり秀吉に問い詰められた秀次は自らの意思で高野山へ蟄居しました。
この事件と秀次蟄居が各大名家の動揺とならぬ様に、7月12日付けで【秀次高野山住】を出しますが、その内容に期限が書いておらず死ぬまで高野山に居なくてはいけないと捉えられなくもない内容だったため、秀次は最悪の事態になったと思い、自害するに至ったと考えられます。
秀吉はそんなつもりは無く、自分の思いとは正反対の行動をとった秀次に対して、怒りが押さえ切れなくなり、39人を打ち首にして秀次が謀反人と仕立て上げたと考えられます。
これにより、豊臣の血を引くものは、秀吉ひとりとなり、1598年の彼の死によって豊臣の血は途絶えることになります。そして、1615年大坂夏の陣において、大阪城落城と共に秀吉が農民の地位から築き上げた豊臣政権が名実と共に消滅したのでした。