戦国時代でも側室を持たず妻一人を愛した武将達
戦国大名たちは、自分の死後に家を残すために『ご世継ぎ』を作ります。
子どもは授かりもので理由は様々ありますが、どんな名家でも子宝に恵まれない夫婦の一組や二組はいたもの。そんな時は、血が途絶えないように養子を迎えたり、姫には婿養子を取らせ、お家存続を図っていました。
また、本妻以外の女性=【側室】をそばにおいて、自分の子供を産ませたりもしています。無論、その子供が男子であれば、次期当主となる可能性が出てきます。そうなると、当主たるもの複数の側室を持つのは当たり前の時代で、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康も多くの側室を持っていました。
徳川幕府の家康以外の14人の将軍のうち正室の子は徳川家光のみなのは、徳川秀忠が正室しか持たなかったからでしょう。
そこで今回は、秀忠のように側室を持たなかった妻一筋の戦国武将を紹介して行きます。
正室・側室・継室ってなに??
【正室】は将軍や大名家など本妻の事を言います。天皇家でも明治天皇までは側室を持っていました。
日本の一夫多妻制時代は、本妻として正室という存在があり原則一人とされています。織田信長も正室・側室合わせて10人ほどいたようですが、正室は濃姫一人でした。
将軍や大名家の後継ぎには、正室が産んだ子供が優先されますが、必ずしも男子が生まれるとは限らず、戦死や早世することもあります。こうした場合には側室をもうけてその子供が跡を継ぐことがありました。
一方で継室とは、正室の死後に再婚してもらった奥さんのことを指します。
徳川家康を例に挙げると、築山殿の死後、秀吉の妹・旭を正室に迎えています。この旭が継室となります。秀吉による政略結婚でしたが、旭の死後に手厚く葬られている事から、築山殿より情があったのかもしれません。
正室と側室では身分が違う
子孫繁栄のために何人も側室が設けられますが、正室は一人だけでした。
室は、正式な部屋を持った妻なので、正室も側室も奥さんの一人であることには変わりません。そのため、側室でも一定の身分以上の家柄が必要でした。
とは言え、同じ妻でも正室と側室とでは身分に違いがあります。正室は、将軍や大名の正式な妻であり政略結婚で座る椅子でもあった事から、正室は大名家の娘が嫁いできます。一方で、側室は産んだ子供で正室と権力争いを起こすと困るので家臣達の娘などを採用していました。
そのため、正室の方が身分が高く両者は主従関係にあります。
側室が当たり前だった時代に妻一筋だった武将達
越後国・上杉謙信は正室・側室も持たず生涯独身を貫いた強者は例外ですが、側室が当たり前だった戦国時代に正室しか持たなかったのも少数派であったようです。
逆に徳川家康は側室を多く持ったことでも有名。彼女らの役割は子孫を残すことでしたが、阿茶の局のように政治に関与した女性も存在しています。
話が飛びましたが、タイトルにある通り9人の妻一筋武将を紹介していきましょう。
同盟強化で結ばれた武田義信と嶺松院
武田信玄の嫡男として生まれた義信は、元服後に今川義元の娘の嶺松院を正室に迎えました。今川義元の妻が武田義信の祖父・信虎の娘であった事から、義信と嶺松院はいとこ同士にあたります。
2人の婚姻は当時の常識である政略結婚でしたが、仲睦まじい夫婦であったとの事です。
一女をもうけますが、今川義元が桶狭間で討たれて信玄が今川家を見限ると、義信と信玄が対立。義信が自害すると嶺松院は兄・今川氏真の駿河に送られ、その後は出家して人生を全うしたそうです。
同盟解消で離縁させられた北条氏政と黄梅院
氏政の経歴は省略しますが、相甲駿三国同盟の際に信玄の長女・黄梅院を正室に迎えることになりました。しかし、信玄が駿河を攻めたことによって三国同盟は崩壊。北条氏が今川との同盟を重んじた事で北条と武田との同盟が解消し、五人の子を産んだ黄梅院でしたが、離縁され甲斐に送り返されています。
1555年に生んだ最初の男児は亡くなりますが、その後の女児の誕生をきっかけに、氏直・氏房・直重・直定と5人の子宝に恵まれました。
黄梅院は離縁後、一年も満たないうちに死去したと言われていますが、新説では同盟解消後も夫・氏政の下で天寿を全うしたとも言われています
敵対する家の娘を迎えた吉川元春
安芸の国人であった熊谷氏は毛利氏と敵対関係でしたが、両氏と和を結ぶことで吉川元春は熊谷信直の娘・新庄局を妻に迎えました。熊谷氏の中で、信直は親毛利派だった事から、この婚姻が実現したと言われています。
2人は生涯寄り添い続けて元春は生涯側室を持たず、四男二女をもうけています。戦場を駆け巡った元春を妻は良く支え、元長や広家ら子供達にとっては賢母であったようです。
子はなかったが生涯側室を持たなかった小早川隆景
隆景の妻は、桓武平氏の流れをくむ小早川家の娘・問田大方と呼ばれる女性でした。
妻一筋の武将に共通するのが、夫婦仲が良い事。二人には子供が出来ないにもかかわらず、隆景は生涯側室を迎えることはありませんでした。隆景の養子となった秀秋も嗣子がなく没した事で小早川家は改易しますが、問田大方は1619年まで生き続けました。
主君は裏切るが妻は裏切らない明智光秀
美濃国土豪時代、妻木氏の長女・煕子を妻にしたのが明智光秀。婚約直後、煕子が天然痘にかかり、顔に疱瘡跡が残った事から父が妹を替え玉に光秀の下へ送りましたが、すぐに送り返されて改めて煕子を妻に迎えたエピソードは有名です。
側室を持たず、明智軍記では三男四女をもうけその中には、細川ガラシャ(お玉)がいます。しかし、明智系図では側室を含め六男七女があったともしています。
煕子に関しては、光秀流浪時代に黒髪を売ってお金を工面したなどの賢妻エピソードがある事から、光秀との絆は深いと思われます。1576年に残念ながら死去してしまいますが、同じころに光秀がダウンしている事から、仕事と看病が祟ったのでは?と思います。
伊達輝宗は最上の姫を娶り、政宗を生む
伊達輝宗は、最上義守の娘・義姫と婚姻し、1567年に嫡男・政宗をもうけます。さらに、弟・小次郎も生まれ、二男二女を産みますが女児は2人とも夭折した様です。
伊達家と言えば、渡辺謙さんが演じた大河ドラマ【独眼竜政宗】を思い出すのは、私が結構な年齢を重ねた証拠なのでしょうか…その中で、岩下志麻さんが義姫を演じていました。
伊達家は元々、婚姻外交でその勢力を伸ばしてきた大名です。複雑化した婚姻関係から、奥羽では常に骨肉の争いが絶えませんでした。こうした、状況に疲れ果てていたのか輝宗は側室を持つことはなかったようです。そんな意図があるかどうかは本人しか分かりませんが…
スーパー軍師の妻もまた才色兼備の妻だった
戦国最強軍師・黒田官兵衛の妻は、小寺政職の姪・光(てる)で、おそらく政略結婚だとされています。官兵衛の7歳下で二人の間には、黒田長政と次男をもうけました。
さすがの黒田家、妻・光も才色兼備と称えられ、黒田家の重要人物に位置付けられていたようです。秀吉が天下統一を果たすと大坂城で人質となり、そのため関ヶ原の戦いでも西軍の人質に瀕しました。
一説によると、側室がいなかったのが、キリシタン大名であることが要因ではないかと思われます。
キリスト教では、重婚が禁忌とされていました。新約聖書には、キリストが「一人の男子と一人の女子が結婚して一体となることが神が定めたもうた秩序である」と公言した。
内助の功の一豊もまた妻に一途な人物だった
内助の功と言えば、山内一豊の妻・千代。結婚当初は、織田家の家臣として秀吉の下で働いていました。子どもは長浜城主時代(1580年)姫をもうけるが、85年の天正大地震で乳母と共に城の下敷きになったそうです。以降、二人の間には子は恵まれませんでしたが、一豊は側室を迎えませんでした。
一豊の妻・千代は、良妻エピソードが多数あり織田家の馬揃えで千代のへそくりで購入した良馬が信長の目に留まり加増されたなどはあまりにも有名です。
こうした千代の良妻ぶりは、明治から第二次世界大戦が終わるまでの女子教育に採用され、良妻賢母の鏡とされてきました。
戦国一の恐妻家・徳川秀忠
言わずと知れたお江の夫なのが徳川秀忠です。彼女を含めた三姉妹は、秀吉に都合の良い手駒とされ、秀忠に嫁ぐ前に二人と結婚していました。
死別などを乗り越えて、秀忠が17歳、お江が23歳の時に婚姻が成立しました。
ニ男五女に恵まれるが、最初の4人が全て女子だったので、周りからは側室を持ってはどうかと言われたようです。しかし、公式に側室を持つことはなく、最終的には2人の男子を生み、嫡子が三代将軍・家光となりました。
歴史上有名な恐妻家でお江の尻に敷かれていたとされています。そのため、側室を持たなかったというより、持てなかったというのが本当の理由なのかもしれません。実際に、乳母の次女・お静に手を付け、保科正之という御落胤は有名な話です。
調べ上げれば、まだたくさんの一途な武将を見つけることが出来るかもしれませんが、今回は長くなるのでこれまでにしようと思います。