妻木煕子(明智煕子)の夫・光秀を支えた一途な人生
明智光秀の正室・煕子は、帰蝶同様に出生の謎が多くいつ亡くなったのかもはっきりしていません。わかっている事と言えば、美濃の武士で妻木広忠の長女としてうまれたとしています。
今後、麒麟が来るでやるかもしれませんが、1545年頃の光秀20代頃、煕子15歳で婚姻したとされています。
明智光秀・煕子夫妻のラブラブエピソード
二人の結婚前のエピソードとして、煕子が婚約後に疱瘡に感染し跡が残り、その美貌が損なわれる悲劇が襲いました。婚約の破断を恐れた妻木宏忠は、煕子にそっくりな妹の芳子を身代わりに出すのですが、それを見破り外見を度外視し煕子と結婚したのです。
そんなエピソードがあったからこそ、煕子は光秀が斎藤家を出奔して無職となった時に、必死に支えたと思います。
浪人で無収入の光秀が連歌の会を主催する順番が回ってきたが、接待費の工面に困っていた所、煕子は自分の美しい黒髪を切り落としそれを売って会の接待費を工面したそうです。
その計らいに光秀は感謝し、生涯を通して彼女への愛を貫き、側室や妾を抱える事はなかったそうです。
その連歌会は朝倉家との会合であり、その後10年間、朝倉義景の下で仕えたので、煕子は朝倉家への再就職のキッカケを作った事にもなります。
そもそも光秀が朝倉家の家臣だった事が疑問視されていますが、ようするに煕子と光秀は相思相愛の中睦まじい夫婦だったという事です。
妻木煕子が生まれた年
煕子が生まれたのは、1530年と1534年の二つの説があります。西教寺に残されている過去帳に書かれた1530年説と明智軍記に書かれていた1534年説です。
これの間を取り、1530年代の前半に生まれたのは間違いないのではないかと考えられています。もし1534年生まれてですと、織田信長と同い年となります。
生まれは明智家と同様に美濃守護である土岐氏の流れを汲む妻木氏であることが考えられています。彼女の名は【妻木煕子】や【明智煕子】と呼ばれることが多いのですが、この時代に名字と名前で表現する女性は非常に珍しい存在でした。たいていは【濃姫】や【淀の方】のような名称を付けられています。
彼女の娘である【細川ガラシャ】が有名になるにつれて、名字と名前の表記が母にも定着したのではないかと考えられています。
以前まではお牧の方や伏屋姫という名ではないかと言う説がありましたが、麒麟がくるでもお牧の方は母親で、伏屋姫も別の女性説が有力となっているようです。
明智光秀と煕子の結婚
謎の多い半生の二人ですから、結婚時期も定かではありません。
光秀の常識的な性格と戦国期の慣例を照らし合わせれば、煕子が10代の内に婚姻関係を結んだのではないかと推測されます。
以前、光秀の記事に書いた通り、本能寺の変時点での光秀の年齢を55歳とすれば、2人の年齢差は5歳くらいなので、煕子15歳、光秀21歳くらいの婚姻ではなかったのかなと思われます。
前田利家のように異例の年齢差であれば、何かしらの史料が残っていてもおかしくはないので、話題にならない程度に常識的に収まった婚姻関係と言えるでしょう。
結婚生活も、斎藤家を出奔、朝倉家に居候など世に出てくる1568年までは苦労した光秀をよく支え、冒頭で述べたような逸話が出る程の相思相愛ぶりを発揮していたようです。
二人は常に行動を共にしていたようですから、光秀の行動をたどれば煕子をたどることができるのではないのでしょうか?
織田信長の家臣時代
織田信長に仕えた光秀は、1571年の比叡山焼き討ちの功で、近江坂本に領地を与えられ、煕子もそこに移り住みました。1568年前後は、足利義昭を介しての信長との付き合いでしたが、1573年の【槇島城の戦い】で足利義昭を京都から追い出した時点で、正式に取り立てられました。
- 1540〜1550年辺りに結婚
- 1556年以前 美濃(斎藤家に仕える)
- 1556年以降 美濃を追われて越前・朝倉氏の世話になる
- 1568年 足利義昭を奉じて上洛
- 1571年 近江坂本城に移り住む
- 1576年に煕子の死亡説(1579年に生存の記述もあり)
- 1582年本能寺の変
光秀は側室を設けなかったとありますが…
煕子を深く愛していた光秀は、側室を設けなかったと言われているのは、裏切者として書かれがちな彼の美徳として創作などでこの設定がなされていたことから始まります。先述した、結婚前や黒髪のエピーソドなんかは、どれも軍紀ものや二次史料が出典であるために創作の可能性がとても高いのです。
しかし、当時の公卿・吉田兼見が記した一次史料『兼見卿記』に注目すると、煕子のほかに複数の女性がいたのではないかと思わせる記述があります。
先日もブラック企業信長の記事でも触れましたが、1576年に光秀は大坂を攻めている陣中で倒れてしまい生死をさまよいます。筆者の吉田兼見は神職にもついていたので、彼が病気治癒の祈祷を担当しました。
兼見の祈祷の甲斐があって、光秀は無事快方に向かいまが、その同年には煕子も病に倒れたと書かれています。
この記述は、光秀の愛妻家ぶりを裏付けるものとして、好意的な文脈で採用されることが多いのですが、他の史料とこの記載に関連する内容を突き合わせていくと、興味深い内容が浮かんできます。
それは光秀には2人以上の妻と側室が居たのではないかという説です。先ほど書いた煕子の死去についての記述が根拠となっています。
西教寺の『過去帳』に次のような記載があります。
【天正4年(1576年)11月7日に明智光秀室(妻)死去】
と書かれています。
一方で『兼見卿記』では同年10月24日の時点で妻の病気が快方に向かっていることが述べられており、光秀が妻一筋であれば…
煕子は10月24日に快方に向かっている(兼見卿記)が、11月には死去しました。(過去帳)
となるはずです。
もしも10月に快方に向かって11月に死去しているのであれば、兼見卿記で死去について触れていないのはなんとも不可解なことです。しかも、明智軍記によれば「1579年当時の煕子は45歳だった。」という記述もあります。
1576年に亡くなっているはずの煕子が1579年に生存していると明智軍紀には記されているのです。
この明智軍記に史料的価値があるかは疑問視するところですが、戦国時代当時、病状が急変して亡くなるのは珍しい事ではないのですが、もし2人以上の妻や側室が居たのなら上記の疑問がしっくりくると思います。
この説にはもう一つ根拠があり、光秀の子供である三男四女が明確に煕子の子である根拠がないという点です。先ほど細川ガラシャが煕子の子供と言いましたが、彼女ですら煕子が母親と言う明確な証拠がないという事です。
明智家自体の家系図にも明らかな矛盾や混乱が含まれているとも指摘されていますようです。
ようするに、光秀が妻一筋だった可能性もあるのですが、戦国の習いで複数の妻を迎えていた可能性もあるのです。
本能寺への信長への逆臣があるために、光秀の評価は裏切者のイメージが多いのも事実ですが、時が流れるにつれて彼の評価も変化していきました。光秀の人柄や能力にも注目が集まるようになり、その再評価に連動する形で明智家の人々や妻・煕子にその焦点が集まってきました。
濃姫(帰蝶)以上に史料が乏しいうえに、裏切者の明智家の人物なのでその実情ははっきりしませんが、今後『麒麟がくる』を見るうえでの参考になればと書かせてもらいました。