織田家のブラック企業体質が本能寺の変を引き起こした!?
平成から令和になっても解決されていないブラック企業の労働問題。長時間労働の末、過労死や自ら命を落としてしまう労働者が後を絶たないの現状です。
しかし、この【ブラック体質】は、昭和・平成になって突然出てきたものではなく、歴史をさかのぼれば戦国時代にすでに存在していました。
今回は、歴史上有名なブラック企業・織田信長株式会社で勤めていた明智光秀さんにスポットを当てて、織田家のブラックぶりをのぞいてみましょう。
信長社長から絶大な信頼を得ていた光秀部長
明智光秀の人生と本能寺の変の記事はリンクを張っておきますので、参考にして見て下さい。今回は、光秀の社畜人生にスポットを当ててみます。
足利義昭と信長の関係が悪化すると光秀は、派遣元の足利家を辞め、派遣先の織田家に働く事を決意しました。能力の高かった光秀は、1570年には信長の若狭・越前・近江・摂津攻めに従軍し結果を出しました。
これらの功績が認められ、戦略上の要である近江滋賀郡を与えられ、この地に坂本城を築城しました。この頃の織田家は、信長包囲網に参加した諸大名との戦いに明け暮れており、光秀も戦の毎日を送っていました。
1573年には、挙兵した足利義昭を倒し、長かった試用期間が明け織田家の正社員として認められました。その後は、京都所司代の傍ら、朝倉氏の後の越前の内政統治にも携わる日々を送りました。
この時点で、有能が故に現場からデスクワークまで多方面の仕事に奔走し、若狭・越前・近江・摂津を行ったり来たりとしていたことが分かります。交通網が整備された現代でも、この範囲の出張は面倒なものですが、それを光秀は整備されていない道を馬で行ったり来たりですから、かなりの負担だと思われます。
これを命じる信長はまさに現代のテンプレブラック上司そのものでした。
人生で一番働いた1年
光秀が一番働いたのが、1575年~1576年と言われています。
この年の上半期だけで
- 高屋城の戦い(本願寺攻めの一つ)
- 長篠の戦い(武田勝頼との戦い)
に参加しつつも数多くの武功も上げています。
その功績が認められ、7月には【惟任】の姓を与えられ、同時の【日向守】にも任じられました。それに加え、信長は光秀に【丹波攻め】の指令を与えました。
現代で言うと、【大きな商談をまとめてすぐに、大きなプロジェクトリーダーになる】みたいなものでしょうか?これが一年の間に起きるのですから、私はついていけないかもしれません。
織田家での出世街道は走っていますが、光秀にはとんでもないプレッシャーがかかっていたはずです。自分だけではなく、明智一族や家臣達の生活も背負って働くとなればなおさらです。私のような「エセ社畜」なぞ、光秀から見れば取るに足らない労働者にしか見えないかもしれませね。
丹波攻めの合間に越前へ…
1575年6月には、丹波攻略を命じられていましたが、実際に丹波へ攻めたのは9月でした。この空白の3か月間、光秀は社畜らしく越前の一向一揆の撲滅戦に参加していました。越前では、加賀まで攻め込むと言う活躍ぶりを見せましたが、正式に丹波攻めの指令が入ったので坂本へ帰還しました。
丹波攻めに本腰を入れた光秀でしたが、想定外に丹波の国衆達の抵抗に合い、中でも【丹波の赤鬼】と異名がある赤井直正が光秀の前に立ちはだかりました。当初の想定と異なる抵抗に多少の混乱はあったようですが、光秀は淡々と手際よく丹波平定を進めていきました。
9月から始まった平定戦は、12月には赤井正直軍を蹴散らし、拠点の黒井城を包囲し、周辺諸侯は光秀の勝利間違いなしと言われるほどまで作戦が進んでしました。
こうした多少のトラブルも物ともせずに対応する能力があった事で、信長に評価され織田家の出世ルートが確定していったのだと思います。しかし、この丹波の平定完了ムードは、予想外の事件によって大どんでん返しが起こるのでした。
突然の裏切りに作戦が失敗
1575年は、過酷労働にも関わらず数多くの功を上げて信長に認められてきた光秀ですが、年明けの1576年に事件が起き丹波平定がとん挫します。
これまで光秀の平定に手を貸していた丹波の有力者・波多野秀治が反旗を翻したのです。突然の裏切りによって光秀は敗れ、作戦を立て直すため丹波に兵を残しに坂本へ帰還します。短期決戦を考えていた信長ですが、この敗戦で平定作戦を長期戦に切り替える事になります。
坂本に帰還した光秀は、3月~4月には京都で寺工事の指揮を取ったのち、本願寺攻めのために大坂へ進軍します。ところがこの天王寺の戦いで、光秀は大苦戦を余儀なくされます。
信長と共に出陣していた武将・塙直政が討ち死にし、彼と佐久間信栄が守っていた天王寺城が本願寺の配下にある一揆勢の猛攻を受けていました。光秀を含めて城内は危機的状況に陥り、信長本人が急遽彼らの救援に向かうほどの苦境でした。
この天王寺の戦いの敗北で、多くの同僚が責任を取り粛清されていきました。光秀自身も粛清の実行役を行ったこともあったようです。こうした環境の中、丹波平定の失敗や度重なる敗戦で「次は自分かもしれない」という精神状態になっていたかもしれません。
いくら数多くの修羅場をくくり抜けた光秀と言えど、精神的な苦痛は計り知れないものだと推測されます。
大坂攻めの陣中で病に倒れる
大坂の本願寺を攻めている陣中で光秀が倒れたと吉田兼見のもとへ届きました。兼見は光秀の病状を「重い病」と書き記しており、命に関わる状態だったことが伺えます。信長と親しかった山科言継は「光秀が風痢(激しい腹痛を伴う下痢)によって死んだという噂話がある」と書き留めています。
この情報は、デマなのですが「死亡説が流れるほどに光秀の病状が酷かった」とも言いかえることができます。
兼見の必死の看病・祈祷?が効いたのか、6月中頃には書状を一通出せるまでに回復をしています。
光秀は回復したが妻・熙子は…
ところが、同じ年の10月に光秀の妻・熙子が病に倒れたという記録があります。
光秀は再び自分を治した兼見に祈祷を依頼し、実に効果てきめんだったようで、熙子も数週間後には快方へ向かい、光秀は彼への感謝として銀貨1枚を贈ったそうです。
一方で、近江の西教寺に残る過去帳を調べると「1576年の11月に光秀の妻が死んだ」という記述があります。この妻が熙子であれば、快方に向かっていたものの症状が急変して亡くなったのでしょうか?
この真相は、謎に包まれたままです。
現代人の私たちからすれば、「祈祷で病気が治る」というのは信じがたいものですが、実際に光秀と妻・熙子が回復しているのは確かで、兼見の存在が病に好影響を与えたのかもしれません。
過労死寸前だった光秀は回復し再び丹波攻めへ
過労死寸前で生死の境からよみがえった光秀は、1579年に丹波の平定を成し遂げました。この功績は、光秀の生涯で一番の戦績とも言われ、信長もその功績から平定した丹波をそのまま光秀の領地として与えました。
以後、光秀は本能寺の変を引き起こすまで織田軍屈指の実力者として重用されていきます。
織田家での優秀すぎる光秀の社畜ぶりを見ていると、優秀すぎるが故に仕事が増えすぎているのが分かります。現代でも、優秀すぎて多忙になる会社員は多く、この辺は戦国時代でも変わらない問題とも言えるでしょう。
「できる男は出来るなりの悩みがある」というのを光秀の働きっぷりと倒れっぷりを見ると学ぶことができます。
本能寺の変の原因は今だ解明されていませんが、もしかするとブラック上司・信長のパワハラが原因で本能寺の変を引き起こしたのかもしれませんね。(怨恨説に近いのかな?)
社畜によるブラック上司・企業への反乱と考えれば…あの働きを見ればその理由も納得いきます。もちろん本人にその胸の内を聞くことができるわけではないので、その可能性があると言うだけですが、そういったことを考えて楽しむのも歴史の醍醐味かもしれませんね。