仙台藩初代藩主までになった伊達政宗の生涯 ②
前回の記事では、伊達政宗が南奥州の覇者となった所まで書きました。
今日は、豊臣秀吉政権下での伊達政宗を見て行きたいと思います。
豊臣政権下の伊達政宗
1589年、会津・黒川城を居城とした政宗でしたが、中央では豊臣秀吉による天下統一の総仕上げが行われようとしていました。
1590年の小田原征伐です。
伊達氏と北条氏は父の輝宗の代から同盟関係にあったため、政宗は秀吉と戦うべきか従うか迷っていました。結局は、20万の大軍を率いる秀吉には逆らえず、政宗は服従することに…
しかし、東北地方での惣無事令違反をした上に、小田原に遅れてきた政宗は、せっかく奪った会津の黒川城を没収されて、家督相続時の所領まで減封されました。
こうして、政宗の南奥州制覇は振り出しに戻ることになりました。
小田原征伐の遅参した時の甲冑の上に白い喪服を着て【死に装束】姿で秀吉と対面したエピソードは有名です。
奥州仕置と一揆の扇動
奥州仕置小田原征伐を終えた秀吉は、奥州の領土仕置を行います。
内容は次の通り…
小田原征伐に参陣しなかった
石川昭光、江刺重恒、葛西晴信、大崎義隆、和賀義忠、稗貫広忠、黒川晴氏、田村宗顕、結城義親は、改易処分となりました。
減封処分
伊達政宗は、小田原征伐の遅刻と会津侵攻が惣無事令違反として、奥羽114万石からおよそ72万石に減封しました。
所領安堵…小田原に参陣し、かねてから秀吉と親交があった大名家
最上義光、相馬義胤、秋田実季、津軽為信、南部信直、戸沢盛安
新封
蒲生氏郷…会津黒川42万石を与えられ、さらに翌年に92万石まで加増されます。これは、奥羽ににらみを利かせるための措置だと考えられています。
木村吉清…葛西大崎30万石を与えられますが、一揆の責任を問われ改易。
この奥州仕置で、改易となった葛西氏・大崎氏の旧臣らが不満をあらわにし、葛西大崎一揆を引き起こします。この一揆鎮圧に政宗と蒲生氏郷が派遣されました。
ここで政宗にトラブルが発生します。
政宗の家臣が蒲生氏郷の陣へ訪れ、【この一揆は政宗が扇動している!】と訴え出てきたのです。さらに、政宗のそばに使える書記官(祐筆)も政宗一揆勢に宛てた密書を持参したのです。
また、政宗軍の鉄砲が空砲と言う報告もありました。この報告を受けた秀吉は、政宗が一揆の鎮圧の手柄として所領を拡大するための自作自演だと考えました。
一揆の鎮圧は、思いのほか苦戦しまし勝利しましたが、実際に一揆を扇動したかどうかは、ハッキリしていないのが事実です。政宗は、一揆の首謀者たちを集めて皆殺しにしていることから、口封じに消したと言う見方もされています。
扇動の真意は不明ですが、一揆鎮圧後の政宗の所領は、40万石没収され蒲生氏郷に与えられ、代わりに一揆により荒廃した葛西・大崎30万石が政宗に与えられることになりました。
この仕置きで、伊達氏の所領は困窮し重臣の出奔が相次ぐことになります。一時は、南奥州の覇者にまでなった政宗でしたが、豊臣政権下では不遇の立場に追いやられました。
東北地方の関が原、長谷堂の合戦
1598年、蒲生氏郷が亡くなり、東北地方の睨みの弱体化を防ぐために、五大老の一人上杉景勝を越後から会津へ転封しました。
上杉景勝は、謙信の代に織田信長と断交して以来、その同盟者である徳川家康とは対立関係にありました。さらに、本能寺の変以降は石田三成経由で豊臣政権の五大老になっており、三成とは親しい関係でした。
伊達氏と最上氏の睨みを利かせる120万石の大名が上杉家でした。
1600年、徳川家康は上杉家重臣・直江兼続の【直江状】をきっかけに会津攻めを決意します。しかし、石田三成の挙兵の知らせを受けた家康は、反転三成征伐を開始します。
上杉景勝と石田三成の両者が徳川家康を挟み撃ちするには、上杉の背後にいる東北の伊達・最上を叩いておく必要がありました。このような背景から、伊達&最上VS上杉 の対決構造が出来上がります。
120万石大大名・上杉氏を叩くのは、東北勢には厳しい状況でした。
しかし、上杉とて東北2強の大名を一気に攻め滅ぼすことはできません。そこで、最初は最上氏を従え、そのあとに伊達氏を取り込もうと言うプランを立てました。
とは言うものの、すぐに戦闘は始まったわけではなく、当初上杉は、伊達・最上両氏が上杉の支配下に入り関東に進軍することを条件として和睦交渉を持ちかけました。しかし、最上側が時間稼ぎをしながら、戦の準備を進めていると知った上杉は、直江兼続が山形へ進軍します。
こうして、東北の関が原と言われる【長谷堂合戦】が始まります。
長谷堂城には、最上氏の家臣・志村光安と1000人の兵が守備していましたが、それに対し上杉軍18000人で城攻めには十分すぎるほどの兵力差でした。
9月15日に圧倒的な兵力をもって直江兼続は、長谷堂城を攻め立てます。城主・志村は健闘しながら必死に上杉軍の猛攻を防ぎます。9月16日の夜、志村は決死隊を募り上杉本陣へ夜襲を仕掛け、上杉陣営を混乱に落としいれる戦果をあげました。
9月17日に直江兼続は、さらに城を攻め立てましたが、長谷堂の周りは深くぬかるんだ田んぼになっており、人も馬も迅速に行動できませんでした。そこへ最上軍が一斉射撃を浴びせ上杉軍を蹴散らしました。
続いて、兼続は長谷堂城の志村に挑発を行いますが失敗します。
9月21日には伊達家から派遣された留守政景が山形城東方に到着し、上杉軍本陣から2㌔位のところで布陣。また、最上義光も山形城から出陣しました。
9月29日、ここで直江兼続は、総攻撃を開始。長谷堂城の志村はなおも善戦し、上杉方の武将を討ち取るなどの戦果を上げています。しかし、同じ日に関が原において西軍・石田三成が東軍・徳川家康に大敗したとの知らせが、兼続にもたらされました。
直江兼続は、その場で自害しようとしましたが、そばにいた前田慶次郎に諌められ撤退を決意します。次の日には、伊達・最上方にも関が原の結果が知らされ、戦況は一気に東北勢へ傾きます。
10月1日に上杉軍が撤退を始めると、最上・伊達連合軍が追撃開始。両軍の激しい攻防で、多くの死者をだしました。上杉の前田慶次郎などの活躍や兼続が自ら殿を勤めた甲斐があり、10月4日には米沢城に帰還しました。
勢い付いた最上勢は反撃に転じ、10月1日には寒河江・白岩・左沢を取り返しました。
一方、伊達政宗は自ら出陣し、国見峠を越えて南に進み10月6日には、福島城・本庄繁長の軍勢と衝突しましたが、福島城の堅い守りに阻まれ敗戦。その後、幾度も福島攻略に出兵しましたが、結局取り戻せず、旧領6郡のうち奪還できたのは、陸奥国苅田郡2万石のみでした。
関が原後、政宗が希望した恩賞は、南部領内で発生した一揆を扇動し、家臣に命じて南部領に兵を侵攻させたことが発覚し却下されました。結局、領地は60万石と飛び地で2万石の計62万石となりました。
江戸幕府開設後の伊達政宗
関が原の戦い後、徳川家康に許可を得た政宗は、1601年に居城を仙台に移し、城と城下町の整備を始めました。ここに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生しました。
石高62万石は、加賀藩の前田氏にと薩摩藩・島津氏に次ぐ全国第3位でした。幕府からは、【松平】姓を与えられ【松平陸奥守】と呼ばれました。
仙台の地は、すべて0の状態から作り上げたため、延べ100万人を動員した一代プロジェクトとなりました。
藩政では、エスパーニャとの貿易を企画し、1613年に仙台領内において、国王・フィリペ3世の使節の協力によって、ガレオン船を造船しました。幕府の許可を得た政宗は、支倉常長らを180人余りをメキシコ・エスパーニャ・ローマへ慶長遣欧使節を派遣しました。
大坂の陣
1614年の大阪冬の陣では、大和口方面軍として布陣し、和議成立後は大阪城の外堀埋め立て工事の任に当たりました。同じ年の12月に将軍・秀忠により、伊予国宇和島郡に領地を賜りました。
1615年の大阪夏の陣では、インパクトのある事をやらかしてしまいます。
当初は、豊臣方の後藤又兵衛を自刃に追い込むなどの活躍をしましたが、救援に向かった真田幸村の反撃を受け後退。その後、政宗は真田隊への再三の攻撃要請を断わり、幸村から【関東勢は100万いても男は1人もいない】と言われたそうです。
また、政宗はこの戦闘中、味方の水野隊に発砲してしまう失態を犯してしまいます。続いて、最終決戦となった、天王寺の戦いでも徳川方の神保相茂隊300名を撃ってしまい全滅させたそうです。
これに、神保の遺臣達が政宗に抗議をしますが、【神保隊が明石隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分した。伊達の軍法には敵味方の区別はない】と一蹴したそうです。
伊達政宗の晩年
豊臣家滅亡で徳川の世が決定的になり、情勢が落ち着いてからの政宗は、藩政に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備しました。新田開発にも力を入れ、北上川水系流域を開拓し、現代まで続く穀物地帯を作り上げました。この結果、表石高62万石に対し、内高74万5千石相当の農業生産高を確保しました。
文化面では、上方文化を積極的に取り入れ、技師・大工を招集し、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、国宝の大崎八幡宮、瑞巌寺、また鹽竈神社、陸奥国分寺薬師堂などの建造物を残しました。
幕府には3代目家光の頃まで仕え、家光からは【伊達の親父殿】と慕われていました。政宗は家光の良き理解者でもあり、参勤交代を制定した際には諸大名が不満をあらわにする中で、【背くものがあれば、我に討伐を申し付ける様】申し出て、諸大名を黙らせたと言います。
このように、晩年の政宗は仙台藩を大いに発展させる傍ら、副将軍とも称されるまでの発言力を得ましたが、1634年頃から体調不良を訴え始め、1636年5月24日その参勤交代で江戸に滞在中に満68歳でその生涯を閉じます。
死の直前には、妻の見舞いの申し出も断り【伊達男】の名にふさわしく見栄を貫いたと伝わっています。将軍・家光は、父・秀忠が亡くなった時より嘆き入り、御三家以外では異例の江戸で7日、京都で3日間、殺生や娯楽が禁止されたそうです。