東北の雄、伊達氏の登場と東北の勢力争い
東北地方(奥州)は、平氏政権・室町幕府などの近畿地方ほ政権下では、政権中心から遠いため、独立的な勢力が生まれていました。しかし、鎌倉幕府・江戸幕府のような関東地方の政権では、東北地方までその影響が届いていました。
奥州藤原氏の繁栄
平安末期頃から、北上川流域を中心に奥州藤原氏が栄えて、世界遺産に登録された平泉が平安京に次ぐ日本第2位の都市までに発展します。陸奥・出羽の両国の院領や摂関家荘園の税を徴収することでその財を蓄えたとされています。
しかし、源義経を匿ったとして、鎌倉幕府を開いた源頼朝により攻め滅ぼされてしまいます。その後は、現在の茨城県出身を中心とした武士たちが治めるようになり、執権・北条氏の所領が設定されるようになりました。
その北条得宗家から、安藤氏が蝦夷代官として派遣され、北東北から北海道を支配し本拠地を十三湊(とさみなと)に置き、交易が盛んな日本有数の都市となりました。しかし、室町時代になると南部氏との争いで、津軽地方を追われ秋田地方に移り、その繁栄は失われました。
伊達氏の登場
室町幕府は、南北朝の時代が終焉した頃に奥州を鎌倉府の管轄としました。1400年には、大崎氏を奥州探題に任命し、以降大崎氏が東北地方で勢力を持ちます。
一方で出羽(山形地方)では、羽州探題として最上氏が世襲していきました。
そんな東北地方二強状態の中で頭角を現したのが、江戸幕府では仙台藩初代藩主となった伊達政宗を輩出した、伊達氏が登場しました。伊達氏は、藤原氏の子孫で源頼朝の奥州討伐に従軍し、その戦功から現在の福島県伊達市を頼朝から与えられたことから【伊達】と名乗ったのが始まりです。
伊達稙宗の躍進
11代当主・伊達持宗の時代には、東北地方という京都から離れた立地でありながら、室町幕府への献金策をとっており、何度も上京し貢物をしました。こうした努力が実を結び、歴代の当主が将軍の名をもらうようになりました。14代当主・稙宗は、1517年に将軍・足利義稙から一字をもらっています。
幕府との綿密な関係を構築する傍ら、稙宗は政略結婚による勢力拡大を図っていました。21人の女子のうち10人以上を奥州の有力家に養子や婿入りさせています。しかし、こういった政策が婚姻関係や利害関係を複雑化させて対立するきっかけともなりました。
1520年に稙宗の妹が嫁いだ最上義定が死去し、その家督争いに稙宗が介入したが、最上氏諸将たちが反旗を翻し伊達氏と最上氏が対立します。
1522年には、元々守護職がなかった陸奥国でしたが、幕府から【陸奥国守護】の任命を受けます。この陸奥国守護の任命により、大崎氏・最上氏の奥州・羽州探題制度が事実上崩壊し、伊達氏が東北地方を治める大義名分を得たのでした。
こうして、最上・相馬・蘆名・大崎・葛西ら南奥羽の諸大名を従属させ、東北地方の実権を握ることができた伊達稙宗は、家中の統制を図るために1533年に【蔵方之掟】を制定し、【棟役日記】と1538年の【御段銭帳】等の税に関する台帳を作成します。
また、171条にも及ぶ分国法【塵芥集】も制定しました。
伊達稙宗と晴宗が争う天文の乱
伊達稙宗の権力の集中化と意見の対立から嫡男・晴宗との対立が激化します。
更なる領土拡大を考えた稙宗は、三男・実元を上杉氏へ養子へ送る案を出したところで、父子間の対立が決定的なものとなります。1542年に晴宗は、鷹狩りの帰路の所を狙い稙宗を襲い西山城に幽閉しました。
しかし、小梁川宗朝によって稙宗は救出され、晴宗と徹底抗戦の構えをとりました。
この伊達家親子の内紛は、奥羽諸大名を巻き込む大乱となりました。序盤は、多くの諸大名は稙宗に加担し、父が優位につけました。陸奥では、稙宗派の大崎氏・黒川氏が晴宗派の留守氏を抑え、出羽では最上氏らがほぼ制圧しました。
ところが、1547年になると、稙宗派の田村氏と蘆名氏に不和が生じて争い始めると、蘆名氏は晴宗方に寝返りました。これにより、戦況が晴宗に傾き始め、稙宗派から離反者が相次ぎました。
1548年9月に足利義輝の仲裁を受けて、稙宗が隠居して晴宗に家督を譲ると言う条件で和睦が成立し天文の乱が終結しました。
天文の乱の戦後処理
上杉家の養子縁組が頓挫したことにより、越後では1550年に上杉定実が死去し、越後守護上杉氏が断絶し、守護代・長尾景虎(上杉謙信)が越後国を治めることになります。
この6年間の乱により、東北地方に一大勢力を誇っていた伊達氏の勢力は一気に落ちていきます。伊達氏に従属していた、蘆名氏・相馬氏・最上氏が乱に乗じて独立をし、勢力を拡大します。特に蘆名氏が伊達氏と肩を並べるほどの大名へと成長しました。
また、大崎・葛西氏では、養子に送り込んだ稙宗の子が粛清され、お家乗っ取り計画が失敗に終わりました。伊達家中でも、稙宗派の家臣たちの鎮圧に時間がかかり、重臣が乱に乗じて勢力を伸ばし、家中最大の勢力となって裏で権勢を振るうようになりました。
1564年、伊達輝宗は父・晴宗より家督を譲り受けました。
しかし、実権は隠居した父と天文の乱で家中最大実力者となった中野親子に握られていました。そのため、家中の統制を図るために1570年に中野宗時に謀反の疑いがあるとし、居城・小松城を落とし、中野親子の追放に成功します。このときに、輝宗に非協力的であった、小梁川盛宗・白石宗利・宮内宗忠が処罰されました。
同じ年に、妻の実家の最上氏で親子喧嘩が始まると、父・義守に味方しますが、妻・義姫が撤退を促したため兵を引きました。
中野親子を退けた輝宗は、家中の実権を掌握することに成功しました。
輝宗は、人事を一掃し鬼庭良直を評定役に抜擢、また敵方中野氏の家臣であった遠藤基信の才能を見込んで召抱えて外交を担当させました。この両名を中心にした輝宗政権は、晴宗の方針を引き継ぎ蘆名氏との関係を保ちつつ、幅広い外交活動を展開しました。
1575年には、当時の実力者【織田信長】に鷹を送り、北条氏政や柴田勝家とも頻繁に書簡のやり取りをして友好関係を築いていきました。
1578年に上杉謙信が死去し、お家騒動が起こると輝宗は相馬氏をの相馬戦を亘理元宗に託し、上杉景虎側に着き参戦しました。しかし、上杉景勝が勝利し、蘆名・伊達軍はいい所がありませんでした。
一方で相馬戦では、戦上手の相馬盛胤・義胤父子に苦戦し、戦局はよくありませんでした。1579年には、田村清顕の娘・愛姫を政宗に嫁がせ相馬氏の切り崩しを図り、1582年には、小斎城主・佐藤為信の調略に成功します。
1583年、ついに重要課題だった要衝・丸森城の奪還したところで相馬氏と和睦をし、稙宗以来の勢力圏11郡をほぼ回復し、南奥羽に大きな影響力を持つことになりました。
伊達政宗の家督相続と二頭体制
1584年、蘆名盛隆が痴情のもつれから家臣に殺害されると、輝宗は生後わずか1ヶ月の盛隆の子の後見となります。これをきかっけに、政宗に家督を譲り自身は、越後の介入を睨んで館山城に移り住みました。
この時、輝宗41歳、政宗18歳の事でした。
まだ、働き盛りの41歳での隠居は、前当主の父と現当主の息子による二頭体制での政治体系となります。この体制での統治は、2人とも同じ方向を向いていたらよいのですが、一度意見が食い違うとお家騒動に発展します。
政宗程の人物が父のお飾りになるわけもなく、家督を相続した直後に外交方針を大きく変えます。これまで、友好関係を保っていた蘆名氏との同盟を解消し、1585年に会津へ侵攻します。
これには理由があり、伊達家に従っていた大内定綱が政宗に背いたためでした。
政宗は、定綱を撃つと同時に、支援をしていた畠山義継も攻撃。義継は、伊達家に和睦を申し入れますが、突然、交渉の仲介に動いていた輝宗を拉致します。
父を人質にとられた政宗は反撃を開始。この攻撃の過程で、父・輝宗ごと畠山義継を射殺し、その勢いで畠山領へせめて行きます。この行動が、蘆名・佐竹らの反感を買い、政宗との対立色を強めていきます。
政宗は父の弔い合戦と称し、畠山氏の二本松城を包囲しますが、佐竹氏を筆頭に南奥羽連合の3万の大軍が救援に。圧倒的に数で劣っていた伊達軍は、たちまち潰走し辛くも退却します。
争い後との絶えない時代だったとは言え、父親ごと敵を射殺する行動は、周囲の大名たちもさすがにやりすぎだと思っていたようです。ドラマなどでは覚悟を決めた輝宗が【わしと共に撃て】と叫ぶ描写がありますが、これは創作です。
一説によると、父との二頭体制の中で外交政策でそりが会わなかった政宗による計画的反抗だったとも考えられています。真相はわからずじまいですが、伊達輝宗の考えていた二頭体制は、終焉を迎えることになります。
1586年に、リベンジとして二本松城を再び包囲します。7月には相馬氏の仲介の下、畠山氏が城を明け渡すと言う条件で和睦が成立します。これにより二本松領は、伊達家の領土となりました。
その後、佐竹氏を含む南奥羽連合諸侯たちと和議を結び、再び東北地方に平和が訪れますが、そう長くは続きませんでした。
この続きと詳しいことは、人物伝で伊達政宗を書きたいと思っているので、そこで詳しく書かせてもらいます。
人物伝・伊達政宗に続く…