現代史

【現代史の学び直し】冷戦開始からの国際政治の動向と第三世界の台頭

歴ブロ

1970年代からヨーロッパを舞台にアメリカが資本主義をソ連が共産主義を提唱して対立しました。この対立は戦争をしたわけでなかった事から冷戦と呼ばれるようになります。

ヨーロッパの西側では資本主義陣営が、東欧諸国を含むソ連は共産主義的な団結をしてドイツが東西に分裂。

そこで今回の記事では、冷戦の開始からの国際政治の動向についてまとめてみました。

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冷戦になるまでの流れ

第二次世界大戦の終結直前にヤルタ会談の場で、アメリカとソ連が互いに協力関係を築こうと模索していました。しかし、アメリカが自由主義をソ連が共産主義を掲げ、それぞれの国がブロックを作り、その陣営圏内で政治や経済などを優先させる縄張りみたいなものが出来上がります。

そのため、自由主義の西側陣営と共産主義の東側陣営でたびたび政治面や軍事面などで対立する事になります。この時は、アメリカとソ連の直接的な戦争はありませんでしたが、他の国で代理戦争を東西で繰り広げていました。

これが冷戦体制と言います。

そのへんの詳しい事はこちらにまとめてありますの良かったどうぞ。

冷戦時代のアメリカの動向

1947年以降、トルーマン・ドクトリン※マーシャル・プラン※を通して、ヨーロッパの自由主義の国々を団結させるようにし、共産主義が広まらないような枠組みを打ち出します。

この枠組みが北大西洋条約機構『NATO』と呼ばれるものです。

こうして、西側諸国で軍事的な団結力を高めていくのでした。

トルーマン・ドクトリンとは?

アメリカのトルーマン大統領が、ギリシャとトルコに軍事的な援助を議会でお願いした演説で明らかになった、冷戦時のアメリカの基本的な決まりのこと。

マーシャル・プランとは?

アメリカの国務長官・マーシャルが提唱した、ヨーロッパの戦後の復興を支援するための計画のこと。

上記のプランにソ連と東欧諸国が参加しなかった事で、ヨーロッパが東西に分裂してしまう大きな要因を作ってしまいました。こうして、アメリカは資本主義の国と協力をして、ソ連と共産主義の勢いを抑えつけようとした政策を行いましたが、結果的には失敗に終わっています。

冷戦時のソ連の動向

一方でソ連を含む東側諸国では、国際共産党情報局(コミンフォルム)や経済相互援助会議(COMECON)を作ってヨーロッパの東側の国々の政治や経済などの団結力を高め、ワルシャワ条約機構(WTO)で軍事の面での団結力を図りました。

アジアでは、1940年代に、中国、朝鮮、ベトナムが東西に分裂。特に中国は、国内での対立があった事で中華人民共和国と中華民国に分けられます。特にアジアでは、冷戦構造に軍事力が加わり、朝鮮戦争やインドシナ戦争などが起こりまさに『熱戦』となりました。

1950年代~1970年代の世界の動向

1950年代の初めに、アメリカとソ連が水爆実験に成功し、世界的な核戦争が起こるという不安が世界に広がりました。そこで核戦争が起きないように、東西の対立を無くそうとする緊張緩和が言われるようになります。

それが

  1. 朝鮮戦闘とインドシナ戦争の終結
  2. アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が集まり会談を行う

と言ったものでした。

1956年にソ連のフルシチョフ共産党第一書記がスターリンやり方を批判し、資本主義と社会主義が平和共存をすることは出来ると考えます。東西の緊張緩和は、東西の対立を無くすことではなく、落ち着いた状態でキープすることを目指しました。

そのため、東西の対立は終わることがなく、キューバ危機が起きたり、アメリカとソ連との間で核軍拡競争が始まります。

キューバ危機とは?

1962年にソ連がキューバにミサイル基地を作ったことを理由にして、アメリカがキューバの海上の交通を封鎖してしまったことで、世界が核戦争になりかけた出来事。

こうした事件の一方で、東西の対立を落ち着いた状態にキープする動きもありました。

キューバ危機の後に、アメリカとソ連の間でホットライン協定というものが結ばれ、首相どうしで直接対話ができるようになります。

1960年代になるとアメリカとソ連の2強の国際政治が様々な国が中心となる政治になってきました。

西側諸国では日本や西側のヨーロッパの国々が経済面で力を伸ばし、フランスが独自の核兵器を作り1966年にNATOを抜けました。また、アメリカはベトナム戦争で事実上敗戦し、その影響力を落としてしまいます。

東側諸国は中国とソ連が対立し、チェコスロバキアで民主化を目指す『プラハの春』と呼ばれる運動が起きました。この運動を、ワルシャワ条約機構が押さえつけてしまいます。これをチェコ事件と言います。

1970年代になると、アメリカ政府がデタント(緊張緩和)政策を行いました。その後、アメリカとソ連の間でお互いの軍備を制限する=軍備管理が進みます。

また、アメリカと中国では和解も行われました。

1975年には全欧安保協力会議(CSCE)が開かれ、人権や経済の分野で東西の対話が行われて、東西の緊張は少し緩和されたと言われています。この会議には、ヨーロッパの国々、アメリカ、カナダなど35カ国が参加しました。

冷戦の終わりと第三世界

1979年にソ連がアフガニスタン侵攻を始めたことによってアメリカとソ連の関係が悪化。

そこで、アメリカはソ連を『悪の帝国』と呼び、核を増やすなどの強気な姿勢を取りました。新冷戦のはじまりです。

1980年代後半にソ連では、最後の書記長・ゴルバチョフが政権を取り、民主化などの改革や西側諸国と融和を図ることを目指した『新思考外交』を進めていきました。

こうして、アメリカとソ連との緊張は解かれ両国の首脳会談が実現します。1987年には中距離核戦力(IMF)全廃条約が結ばれたりして、アメリカとソ連は和解の方向に向かって行きました。

そして、1989年12月についにマルタ会談で、アメリカとソ連の首相が、冷戦の終結を認めました。

冷戦終結後の各国の動向

ドイツは1989年11月にベルリンの壁が崩壊して、その翌年に統一ドイツが成立しました。東欧諸国では、次々と社会主義政権が潰れ、ワルシャワ条約機構が消滅。

1991年にソ連が解体され独立国家共同体(CIS)が作られます。

1995年にCSCEが欧州安保協力機構(OSCE)として冷戦後が安定することに貢献しています。しかし、中国と台湾との対立や南北朝鮮が分かれているという状況は現在も解決はされていません。

ソ連崩壊後の社会主義国の動向は、こちらの記事で書いてますので参考にしてください。

第三世界の誕生

第二次世界大戦後にアジアやアフリカの植民地が次々に独立しました。

これらの国々は1955年にアジア・アフリカ会議を開き、平和10原則を発表します。

平和10原則では人種差別をしない、他国の政治に関わらない、紛争を平和的に解決することを主張した上で独立をした国々の間での連帯感を促しました。

平和十原則の内容は以下のとおりです。

  1. 基本的人権・国連憲章の原則を尊重
  2. すべての国家の主権と領土保全の尊重
  3. すべての人種・すべての国家の平等
  4. 内政不干渉
  5. 自衛権の尊重
  6. 大国による集団的防衛の利用と他国への圧力行使の阻止
  7. 侵略行為・侵略の威嚇の回避
  8. 国際紛争の平和的解決
  9. 互恵・協力の増進
  10. 正義と国際義務の尊重

1960年はアフリカで17の国が新しく独立をしたのでアフリカの年と言われています。

こうした独立をした国々を第三世界と呼ばれ、東西のどちらかに組み込まれるということは少なかった。そのため、インドみたいに冷戦の対立を緩和させる非同盟中立の立場を取る国が多くありました。

そこで、国際的影響力の強化を目的として1961年にベオグラードで、第一回非同盟諸国首脳会議という会議を開きます。

こうして世界は2000年代に突入していくのですが、21世紀になってからもアフガニスタン戦争やイラク戦争など、最近ではロシアのウクライナ侵攻やイスラエル問題も抱えています。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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