【地政学的近代史】17世紀~18世紀のシーパワー国家オランダとイギリスの対立
これまでは『地政学の基礎知識』と『大航海時代の始まり』を地政学的に書いてみました。
16世紀の大航海時代の幕開け時に海の覇権を制していたのが、スペインとポルトガルでスペインは【太陽の沈まぬ国】と呼ばれるほどの植民地を有していました。
新しい航路の発見や大陸の発見により、二つの国で世界の領土の半分が植民地になったとも言われています。
しかし、それも17世紀になるとオランダが頭角を現すようになるのですが…
そこで今回は17世紀~18世紀の世界の地政学的世界史を見ていきましょう。
オランダの躍進とスペインの没落
17世紀はオランダが海運業において世界的な覇権を握り、地政学的にも重要な位置を占めるまでになりました。
17世紀初頭になると【太陽の沈まない国】と呼ばれたスペインが没落し、海運業の育成に力を注いだオランダが貿易立国となります。オランダは富裕な商人や船主が存在し、商業的な精神に富んでいたため、世界の海運業において急速に台頭していきました。
オランダは東アジアと東南アジアへの交易を目指し、1602年に東インド会社を設立します。この会社によってアジア貿易を独占し、東インド諸島、インド、日本、中国との交易を拡大しました。また、大西洋の新世界へも進出して1621年に西インド会社を設立し、北アメリカや南アメリカの貿易を行いました。
この頃のアムステルダムはオランダの商業・金融の中心都市として栄え、国際的な商業都市としての地位を確立していました。そして、多くの商人や銀行家が集まり、海運業の根拠地と成長していくのです。
一方でスペインは、度重なる戦争で戦費がかさみ、南米から入ってくる膨大な銀を借金の返済に充てていると言う状態でした。そのため、産業の育成に投資する事が出来ずに、大航海事業を維持する事も難しくなっていました。
また、造船に使う木材をライバルであるオランダを頼っていたので、スペインが集めた銀がオランダに流れ、ますますオランダが豊かになっていくのでした。
こうして、オランダは17世紀に海運業の黄金期を迎え重要な地位を築きました。オランダの商業的な成功は経済的な力だけでなく、文化的・知識的な発展にも寄与し、その影響は世界各地に広がりました。
イギリスとオランダの対立
オランダ独立戦争が起こるとイギリスは味方し、両国は友好的な関係を築いて居ました。
やがて、オランダがアジア市場に乗り出すと、その主導権を巡ってイギリスと対立することになります。
1623年に香辛料の産地だったモルッカ諸島からイギリス勢力を追い出す事件※が起こると、イギリスは東南アジアから撤退を余儀なくされ、インド支配に専念せざる得なくなりました。
この事件により、イギリスの香辛料貿易は頓挫しオランダが同島の権益を独占した。
これに対して、イギリスはオランダを排除しようと1651年に【イギリスに物産を運ぶときはイギリス船ないし当事国の船を使う法律】を定めます。
これまでオランダが海運業で覇権を握れたのは、圧倒的な商船数でした。このイギリスの法律でオランダ船を排除することによって、その勢いを削ぎ落そうとしたのです。
当然オランダは反発。こうして、オランダとイギリスは三度にわたる英蘭戦争(イギリス・オランダ戦争)が発せしました。しかし、オランダは勝つことが出来ず世界の海上覇権は、イギリスに移っていくのでした。
日本のシーパワー国家の可能性
ヨーロッパ各国によるアジア進出は当然日本にも向けられていました。
17世紀初頭は徳川家康が江戸幕府を開いた頃で、家康は海外貿易に積極的でした。特に、スペインが開拓した太平洋航路を活用して、メキシコとの交易を画策していたほどです。
しかし、スペイン・ポルトガルとの交易については、キリスト教の布教がセットになっており、【布教=侵略】の恐れがあり警戒していました。一方でオランダは、布教を必要としないプロテスタントだったので日本は積極的に交易を続けます。
日本はオランダから、生糸や絹織物を仕入れ、石見銀山からとれた銀を提供しました。
幕府は、日本の商人に対して朱印状を与えて海外進出の後押しをして東南アジア各国に日本町が作られるようになります。
ところが、貿易によって西国の大名が力を持つことを恐れた幕府は、最終的には鎖国体制を選択することになります。地理的優位性を考えると、日本がこのまま交易を東南アジアで交易を続けていれば日本が強力なシーパワー国家になりえた可能性が十分あったと考えられます。
イギリス一強時代とロシアの南下政策
オランダから海上覇権を奪取したイギリスは、巨額の富を取得します。
さらにその富を産業に投資して産業革命の起爆剤になりました。また、フランスとの植民地争奪競争にも勝ちイギリスの一強時代が誕生しました。
一方で、19世紀から現代にかけてのキー国家であるアメリカやロシアが誕生し台頭してくる時代でもあります。
フランスとの争いに勝利したイギリスは、戦後処理でアフリカ大陸からアメリカ大陸への黒人奴隷のアシエイト(奴隷供給契約件)を譲渡され、ジブラルタル、北米のニューファンドランドやハドソン湾を獲得しました。
こうして、海洋帝国なるべく足掛かりを得たイギリスは、黒人奴隷を西アフリカから西インド諸島やアメリカ大陸へ運び、砂糖やたばこ、綿花、コーヒーなどを栽培させるプランテーション農場で働かせました。
そして、その農産品を母国へ持ち帰り諸外国へ輸出。さらに、イギリス国内で製品にして綿織物などをアフリカへ輸出し、こうした大西洋三角貿易によって膨大な利益を得ることになりました。
この三角貿易から得た資金が、産業革命の投資資金となり、綿織物の機械の発明にも一役買っています。その背景には、アフリカ大陸における綿織物の莫大な需要がありました。
こうした意味でも大英帝国の繁栄は、黒人奴隷貿易から始まったとも言えるでしょう。
フランスがイギリスに負けた地政学的理由
フランスはヨーロッパ最大の軍事国家だったので、他国に後れを取るわけにもいかず当然海洋進出にも力を注いでいました。
そのため、北米やインドでイギリスとたびたび衝突をしていました。
しかし、結果的にフランスが敗れてしまうのですが、それには地政学的ハンデがあったからだと言われています。
フランスは、大西洋と地中海に面するシーパワー国家の半面、プロイセンやオーストリア、スペインに囲まれているランドパワーの側面もあります。地政学の基礎知識の記事でも述べたように、シーパワーとランドパワーの両立は難しく、膨大なコストがかかります。
一方でイギリスは、隣国から直接侵略を受けにくいゴリゴリのシーパワー国家です。
海洋進出だけに全振りできるイギリスとのハンデがあり、それが如実に出たのがフランスがオーストリアに味方して戦った7年戦争でした。この時、イギリスはプロイセンに財政支援をするだけで兵を出さずに、北米での戦いに集中していました。
一方フランスは、本土を防衛する必要から、戦力を二分せざる得なかった。その結果、イギリス側が勝利しました。
こうして、フランスに勝ったイギリスは、北米とインドの支配権を確固たるものとするのですが、北米についてはやがて手放さざる得なくなります。北米植民地への課税強化をしたことで、不満が爆発しアメリカの独立戦争の引き金となったのです。
1873年、アメリカの独立がなし遂げられ、その後の覇権国アメリカ合衆国が生まれるのでした。
ロシアの南下政策
ランドパワー国家・ロシアが不凍港を求め海を意識し始めました。
18世紀にイギリスやオランダの海洋進出によって国が発展していく様をみていたロシアは、バルト海や黒海への進出を目指します。そして、北方戦争でスウェーデンに勝利してバルト海の制海権を確保しました。
次に目標としてたのが、不凍港である黒海でした。
当時この地域を支配していたオスマン帝国で、黒海沿岸を巡り両国の争いが何度も起きていました。そして、この時期からロシアの南下をいかに防ぐかがヨーロッパ諸国の大きなテーマとなっていくのです。
17世紀~18世紀にかけてオランダ→イギリスと海の覇権が移り、イギリスが巨万の富を持つことになって産業革命が起こります。そこにロシアが凍らない港【不凍港】を求め南下政策を始めてきます。
19世紀になると、フランス革命後に頭角を現したナポレオンによってヨーロッパ全土をほぼ治める時代になるのですが、これはまた次の機会に紹介しましょう。