松平信康の育て方の失敗から学んだ徳川家康の子育て術
徳川家康は、側室も多く子宝にも恵まれた人物でした。
長男・信康は、わがままに育ってしまい後に信康事件で切腹をします。
次男・結城秀康は母の身分が低い事で養子(事実上人質)として、三男・秀忠は関ヶ原の戦いで大遅刻をするなど、子育てに関する悩みは尽きなかったようです。
最終的には、徳川家康が天下を統一し江戸幕府を開きますが、その仕組みは家康の代だけでは完成せずに、次の世代・秀忠に引き継がれました。
2代目・秀忠は、家康の期待通りの働きにより3代目・家光の代になると、徳川幕府の体制が完成したのである。
今回は家康が信康切腹を教訓に、どのようにして子育て(後継者育成)に励んだのかを紹介して行きたいと思います。
徳川家康の黒歴史・信康事件
1611年天下を統一した家康は、将軍職を秀忠に譲り、駿府の地で大御所として権勢を振るっていました。
そんな時に、三代将軍・家光の乳母・斎藤福(春日局)が家康の元を訪ねてきました。
福は家康に【秀忠とお江が次期将軍に次男・忠長にしようとしている】と訴えてきたのだ。
家康はその事実に驚き、もしそうなれば徳川家は分裂し、内乱や内戦で骨肉の争い起きて幕府が崩壊してしまうかもしれないと危惧しました。
福を乳母に決めたのは家康であった。
家康はすぐに江戸に向かい、秀忠とお江に【長幼の序】を明確にし、厳重注意をしました。
それでも心配だった家康は、お江にあてて【神君御文17条】と呼ばれる子育ての教訓を送ります。
その内容が、家康自らの子育てにおける経験を元にした17条の教訓では…
- 若木のうちに添え木をし、悪い枝を切り取れ
- 子育ては自分に責任がある
- 大切なのは教育 保育の質である
- 多くの人が喜ぶ子育て支援が重要
- 子育てには、親に寄り添う支援策が必要
- 正しい支援策は必ず、成就する
※わかりやすく現代語訳にしています。
と言ったことが書かれていました。
じつは家康、子育てに関しては暗い過去があります。
タイトルにある通り、家康の黒歴史ともいえる【信康・築山事件】でした。
松平信康の時の子育ては自由にさせていた
正室・瀬名との間に生まれた、嫡男・松平信康は、武勇に優れた若者に育ち、戦場でもいくつもの戦功を挙げていきました。
その当時の家康の子育て術は、信康が武田家に長い間人質生活をしていた事から、自由に育てていたようで、そのため信康がわがままに育ってしまったとそうです。
家康は信康のことを
親を尊敬する事は思いよらず、何度言っても聞き入れず、かえって親を恨むようになった
とぼやいていたそうです。
1572年の家康は浜松城に移動するのですが、この時にわがままな信康を岡崎城主に据えて、更に自由にさせてしまった事があの黒歴史の原因となるのでした。当然、わがまま領主を利用して自分の地位や名誉を上げて行こうとする悪い家臣や身内がいても不思議ではありません。
信康自身も武力に自信があった事で、やがて父・家康を追放し、親に代わって自分の政権を作ろうと目論むのも十分にあり得る話です。
それも、母・瀬名が今川家の血を引くのもその後押しをしたのではないかとも言われています。瀬名は織田信長を仇と思っている節があり、その敵と夫が同盟を結んだことに不快感を持っていたようです。
家康は自身の子供時代の苦労を重ねた経験から信康を自由に育てたが、子供にとっては失敗でした。子育て失敗で、岡崎派と浜松派で徳川家は分裂し、一族間で争いが起きてしまいます。
結果的に家康は、正室・瀬名と信康を切腹に命じることで幕引きを図りましたが、くしくも信康が切腹する同年に後の徳川秀忠が誕生しました。
信康事件を機に、家康は同じ過ちを繰り返さないように秀忠にはしっかりした教育を施そうと誓ったのは家康の行動からもうかがえます。
こうして、「若木のように育てよ」という名言が誕生します。
植木の手入れをする時は、長くなった枝があれば切り落とし、弱く曲がってしまうようであれば添え木をしてまっすぐ育つようにする。
と子育ても同様にと家康は考えたのです。
秀忠の2人の教育係
信康の失敗を糧に子育てを決意する家康ですが、常に子育てに参加するのは不可能です。
正室も居なかった家康は子育てを信頼できる人物に任せようと考えます。
そこに白羽の矢が刺さったのが、大姥局(おおうばの局)と大久保忠隣でした。
まず、人間の人格形成に必要な幼少期を任されたのが大姥局で、彼女は今川家の家臣・岡部貞綱の娘で、かつて家康が人質時代に世話役になってくれていた女性です。
彼女は只者ではないエピソードを持っている人物でした。
大姥局は食事の世話をするのが好きで、目下の者たちに対しても自らご飯をよそうことが多かったのだが、ある日それを家康の側近・本多正信が見て、彼女を冷やかしたという。
大姥局は
「私は三河の頃の苦しかった生活を忘れたことはない。食べ物に困らない今の暮らしの有難さが分かるからこそお給仕をする。正信様は、かつては鷹匠だったことを忘れて思い上がってしまわれたのか?」
言い返された本多正信は、ぐうの音も出なかったという。
大姥局は「身分が高くなってもおごることなく謙虚であれ」という考えを大切にしており、生母を幼くして亡くした秀忠を母親代わりとして養育したのでした。
青年期からは、側近の大久保忠隣が教育係としてその任に当たるようなります。
大久保忠世の嫡男で忠誠心の塊のような忠隣は、後の小田原藩・大久保家の藩祖です。
関ヶ原以前は、三河一向一揆や三方ヶ原の戦い、伊賀越えなどの家康三大危機にも決して家康のそばを離れなかった人物でした。
こうした、忠義に厚い(すこしお堅いイメージ)の熱血指導のおかげで、秀忠は父を尊敬する息子となり、信康のように家康に逆らう事はありませんでした。
こうして、2人の教育係によって秀忠を「若木のように管理して育てる」ことに成功し後の江戸幕府の礎を築く人物までに成長するのでした。
天下統一までは評価がいまいちだった秀忠
結果的に、2代目将軍として父のやり残したことをしっかりと勤め上げ、次の世代で幕府の体制を完成される道筋を作った秀忠ですが、幕府が成立するまで周りからの評価はいまいちでした。
家康の子育て術で【親の言う事をよく聞いて間違いの犯さない子】いわゆる箱入り息子として育ったわけですが、これが皮肉にも秀忠の評価は良く割りませんでした。
争いの多い戦国時代では【凡庸で覇気のない二代目】と評価されてしまいます。
こうした周りからの評価は家康自身も良くわかっていて、関ヶ原の戦いでは秀忠を関が原に向かう徳川本隊38000の総大将に抜擢し、その周りには歴戦の将を配置しました。そこにはあの四天王榊原康政の姿がありました。
これまで、秀忠はほぼ戦場経験は無く、言わばこれが初陣でした。そこで、家康は中山道から真田の上田城を落としてから、関が原に来るようにと命じたのでした。しかし、戦った相手が悪く、以前徳川軍を圧倒した真田昌幸・信繁親子の方が一枚上手で、秀忠軍は大苦戦します。
結局、かなりの足止めを喰らってしまい、関が原に到着したのは始まって5日後のことでした。こうして、父の天下分け目の大勝負【関ヶ原の戦い】に秀忠は本隊を大遅刻させてしまう失態を犯してしまうのでした。
さすがの家康も【信康が生きていたら…】と愚痴をこぼしていたとか…
徳川家康の後継者は誰に??
秀忠のお坊ちゃん脱却作戦も裏目に出て、周囲からはすっかりお坊ちゃん・箱入り息子のレッテルを張られてしまった秀忠ですが、最終的には家康の後継者として指名されます。
当時の徳川家には後継者候補として秀忠の他に結城秀康と松平忠吉が居ました。
秀康は武勇に優れ多く手柄を上げていましたが、実母の身分が低い事を理由※に結城家に養子に出されていました。
※諸説ありますが、双子生まれてきて、当時双子は不吉とされていたために冷遇されて養子に出されたとも言われています。
そして、松平忠吉も武勇に優れ関ヶ原の戦いでは一番槍をつけています。
この状況で、関が原に遅参した秀忠を家康が推しても、家臣達や兄弟間でしこりを残すことになると考えた家康は重臣たちを集めて、自身の後継者には誰が良いかを尋ねることしました。
家康の思った通り重臣たちの間で秀康・忠吉で意見が割れて、関が原に大遅参した秀忠を推す者は少なかった。
しかし、少なかったと言うだけでゼロではないのは家康は安堵した事でしょう。
数少ない秀忠派で最も強く推していたのが、教育係だった大久保忠隣でした。
教育係だったから当然かともう人も多い中、忠隣は教育係だったから推すのではないと前置きした後に、【秀忠様は謙虚な性格で親孝行の気持ちが強く、文徳と知勇を兼ね備え、人を説得する能力の長けている】と訴えたのです。
さらに続けて【知性溢れる人物になったのは家康様の子育ての方針によるもの】【秀忠様はどんな相手でも話をちゃんと聞く】と言いました。
確かに秀忠は、他の2人の息子より相手の話を聞く力を持っていたのは周知の事実。
もはや争いごとの無い世の中になり、文治政治の時代へと変わっていく事を考えたら、多くの人の話を聞き入れる秀忠様しかいないと重臣たちは納得したのでした。
こうして、家康と大久保忠隣の思惑通りに徳川秀忠が後継者になる事が賛同され、1605年に二代目・征夷大将軍として権勢を振るう事になります。
やっぱり親は子を思う
1605年に二代目将軍に就任した秀忠のために家康は御伽衆制度を設けました。
以前、記事にした事がるので詳細は省きますが、簡単に言えば将軍直属の御意見番のような役職で、メンバーには関ヶ原で家康と戦った大名なども含め、多様な経歴の者たちが集められました。
秀忠が将軍になっても【人の話を聞くことをわすれないように】と制度まで設けたのは家康の親心そのものでしょう。
とは言うものの、秀忠も人間。こんな逸話も残されています。
ある時、秀忠のもとに太田某(なにがし)という者が仕官して来た。
秀忠は500石で召し抱えようと太田に紙を渡しました。すると、その内容を見て太田は怒り出し、500石と書かれた紙を丸めて秀忠に投げ返し、その場から立ち去ってしまいます。
秀忠は思わずカッとなって「死罪にする!」と言ったが、側近が止めて【まずは大御所様にご報告を】と家康にお伺いを立てることなりました。
すると家康は【確かに太田某の行いは良くなかった。だが太田ほどの人物に500石はないだろう。それを命がけで諫言してくれたのだから有難いと思わなければ】と諭しました。
家康の教えに秀忠は納得し、結局は3000石で召し抱えることにしたといいます。
ところで、家康の子育て論を記載した【神君御文17条】は、大名や旗本を中心に子育ての指針として多くの写本が作られたそうです。
幕末には寺子屋でも使われており、庶民の間でも広く親しまれるようになりました。家康の「若木のように育てよ」という子育て論は広まり、人々の子育ての指針となっていったのでした。