オスマン帝国の成立を簡単に詳しく解説!【トルコ各国史】
オスマン帝国が始まる以前、アナトリア半島には11世紀頃に中央アジア~イランに樹立したトルコ系民族によるセルジューク朝が複数の地方政権に分かれ、ルーム=セルジューク朝が誕生していました。
※マリク=シャーはセルジューク朝の勢力を拡大したスルタン(君主/支配者)です
このルーム=セルジューク朝が衰退すると、国内有力者(ベイ)による小さな侯国が生まれ始めます。更に、13世紀になると東からモンゴル帝国、アナトリア半島の西南からマルムーク朝の圧迫が加わり、ルーム=セルジューク朝は侯国を扱いきれなくなるとアナトリア半島版の戦国時代に突入していきました。
そんな侯国の一つがオスマン侯国。
今回は、オスマン帝国がどのように大きくなっていったのかを詳しくまとめていきます。
初代皇帝による帝国の始まり
オスマン1世はオスマン帝国の初代皇帝とされていますが、伝説の部分も多く詳細は知られていません。
ただ、父の死後に跡を継ぎ、トルクメニスタン系遊牧民やムスリム農民で形成された集団(ガーズィー)を率いると、モンゴルから逃れたトルコ系戦死や宗教指導者、ビザンツ帝国の後ろ盾をなくしたキリスト教系の戦士らを吸収しながら勢力を拡大していったとされています。
オスマンの独立に関しては
- ルーム=セルジューク朝に忠誠を誓い、その後継者として独立した
- ルーム=セルジューク朝の権威を認めず強引に独立した
と全く逆の二つの説が伝わっています。
後のオスマン帝国の歴史家たちは前者の説を採用しているようです。
オスマンはルーム=セルジューク朝の旗の元で聖戦を繰り返し、実子のいなかったルーム=セルジューク朝のスルタンに目をかけられ後継者と見做されていたことから独立し、独立国家を築いたとされています。
オスマン帝国の版図拡大したスルタンたちとは?
続く息子のオルハン・孫のムラト1世の時代には、バルカン半島にも版図を広げました。アドリアノープルという地を奪って都とし、エディルネと改称しています。
また、後のオスマン帝国の諸制度の基礎となる習慣が根付き始めたのがこの頃で、国家としての体制が整い始めました。
オスマン帝国がバルカン半島へ向かった理由とは?
オスマン帝国が向かえる方向は主に3つ。イラン・イラクの中東方面と北アフリカ、そしてバルカン半島です。
中東方面と北アフリカにはイスラム教徒が数多くいました。兵士たちも同じイスラム教徒のため、攻め込むなら異教徒の方が大義名分を作りやすかった。その上、バルカン半島ではイスラーム諸王朝で課せられたジズヤと呼ばれる非イスラーム教徒の青年男性に課す人頭税を期待できます。
非ムスリムはジズヤを支払うことで(制限付きですが)庇護民として一定の生命・財産・宗教的自由を保障されていたのです。が、制限は存在していたこともあり、非ムスリムは改宗しないことによる不利益を避けるため改宗を選ぶ者達もいたようです。
そうした理由からオスマン帝国はバルカン半島へ向かったのでした。
なお、バルカン半島へ進出する際に手に入れたキリスト教徒の戦争捕虜たちによってイェニチェリと呼ばれる常備歩兵軍団を組織させています。創設当初は奴隷軍により構成されていましたが、後にキリスト教徒の優秀な子弟を改宗させ、軍人や官僚として養成するデヴシルメ制度によって定期的に人材が送り込まれるように。
このイェニチェリがバルカン半島での戦いに貢献していきます。
バヤズィト1世の治世(在位1389-1402年)
その後を継いだムラト1世の息子・バヤズィト1世の時代には、バルカン半島だけでなく、アナトリア半島方面にも本格的に拡大しました。雷帝とも言われるやり手の皇帝です。
政略結婚を巧みに利用し、アッバース家の末裔からスルタンの称号も獲得しています。
一方で、バヤズィト1世が即位の際に跡目争いを事前に防ぐために行った兄弟殺しが後に慣習化する悪しき先例になってしまいました(流石に残酷すぎるということで後々には皇子の幽閉所が作られています)。
ニコポリスの戦い(1396年)
このバヤズィト1世の勢いは西洋諸国の警戒心を呼び起こしました。バルカン半島のほとんどを征服し、ビザンツ帝国をコンスタンティノープル周辺に閉じ込め何度も包囲していたためです。
そこで度々オスマン帝国に侵入されていたハンガリー王・ジギスムントを中心に西洋諸国の連合軍が集まり、オスマン帝国との戦いを決意。
1396年に起こったこの戦いが、ニコポリスの戦いともニコポリス十字軍とも言われている戦いで、オスマン帝国は勝利するとバルカン半島での勢力を確実なものとしています。
アンカラの戦い(1402年)
北方のヨーロッパとの戦いでは無事勝利したものの、オスマン帝国の東側では大きな勢力が拡大し始めていました。
中央アジアの辺り(現ウズベキスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権ティムール朝です。王朝の始祖・ティムールはチャガタイ=ハン国に仕える部族出身。歴史上、戦闘に秀でたことで有名なトルコ系民族とモンゴル系民族でしたが、この時はモンゴル系に軍配が上がります。
バヤズィト1世はアンカラの戦いで大敗、捕虜となり、幽閉中に没しました。以前からかかっていた病気の悪化とも、持参していた毒をあおったからとも言われています。
後継者争いの勃発
既に、父やそれ以前の王達の活躍によってオスマン一族の手により国家の体を成すようになっていましたが、父の死により一気に大ピンチに陥ります。
ビザンツ帝国をはじめとする周辺諸国にとっても、勢力拡大していたオスマン朝の挫折は大チャンス。干渉を強めていきました。この時期は空位時代と呼ばれています。
こうして、周辺諸国の思惑も絡みながら錯綜した末にメフメト1世がスルタンとなり、混乱した国家を立て直し再建させたのでした。
続く後継者のムラト2世が失った領土を回復。いよいよビザンツ帝国を滅ぼしたメフメト2世が登場することとなります。
次回以降は、有名なスルタンたちの紹介と共にオスマン帝国の最盛期についてまとめる予定です。