ちょっと詳しい中世イタリア史【各国史】<11〜13世紀>
中世の西ヨーロッパ諸国で十字軍遠征の失敗後、教会の権威は揺らぎはじめ国王の権威が強くなり始めた一方で、遠征時の輸送によりイタリア周辺の諸都市は大いに繁栄していました。
商業が発達し貨幣経済の広がりからイタリアも大きく変化するようになってきます。
中世イタリアはバラバラだった??
イタリアは北部、中部、南部で全く違う様相を呈していました。
- 北部:都市国家が乱立
- ヴェネツィア共和国
- ジェノヴァ共和国
- ミラノ共和国
- フィレンツェ共和国など
- 中部:教皇領(ローマ教皇の領土)
- 南部:アラブ人(イスラーム教徒)支配からノルマン人支配へ変化
- ナポリ王国
- シチリア王国
それぞれの地域にどんな特色があったのか見ていこうと思います。
【イタリア北部】都市国家はどうやってできたの?
イタリア北部の都市国家は11世紀以降、地中海貿易で経済力を付けて発言力を増していた商工業者をはじめとする都市の市民たちにより始まりました。
封建社会から抜け出そうと自分たちで統治体制を整え、兵を雇い、自治権を勝ち取っていったのです。こうした都市市民たちによる自治共同体はコムーネと呼ばれます。
執政官(コンソリ)を市民が選び、集会や評議会の主催に加え、軍事・外交まで行い、まさに国家と呼ばれるような共同体となっています。
豊かで他の地域との繋がりを持ちやすい交易が主体のイタリア半島でしたから当時の「農業経済前提の国家体制」よりも動きやすい形だったのでしょう。
【イタリア中部】ローマ教皇領ができたきっかけとは?
ローマ教皇領ができた経緯を見るには少し時を遡る必要があるので、ちょっとだけ解説していきましょう。
古くからイタリアにあったローマ帝国はゲルマン民族の大移動をきっかけに分裂、以降、多くのゲルマン人国家が誕生しました。その中で頭角を表したのがキリスト教の主流派をいち早く取り入れて統治したフランク王国です。
フランク王国が力を増すようになって来た頃、東側ではイスラム教が誕生し、イスラム教は発展。フランク王国も度々侵入されたのですがトゥール=ポワティエの戦いで撃退しています。
この時、イスラム勢力を撃退したフランク王国の英雄の息子が当時のフランク王国の王位を簒奪するのですが、そのまま簒奪したのでは色々言われかねず協力を仰いだのがローマ教皇でした。
その見返りとしてイタリアにあるゲルマン国家・ランゴバルド王国の土地を送ったことで(ピピンの寄進)イタリアの中部にはローマ教皇領が誕生します。
※ローマ教皇がトップのローマ教会。元々はビザンツ帝国の庇護下にいたのですがイスラム帝国の勢力拡大により西側にまで目が行き届かず、ローマがランゴバルド王国に取り込まれそうになってフランク王国から守ってもらったという繋がりもありました
このローマ教皇領が11世紀以降にも存在したままになります。下の地図でいう斜線部ですね。
やがてフランク王国がゲルマン民族の伝統である分割相続などが原因で混乱、分裂。
このうち現在のイタリアに位置するのが中部フランク王国であり、フランク王国の王家カロリング家が最も早くに断絶しました。
他の『フランク王国』の名がついていた国もフランス王国、神聖ローマ帝国と新たな政体へと移り変わっていくことになります。
【中部・北部】神聖ローマ帝国とイタリアの関係とは?
ピピンの寄進後というものフランク王国はローマ教会に足りない軍事面を担い、ローマ教会が国王の権威を保障する(多数の部族が集まった地域も統治していたため共通の価値観を持っていた方が統治しやすい)という関係が出来上がっていたのですが…
分裂後ローマ教会は庇護してくれる国を失うことになってしまいます。
そこでフランク王国の代わりに庇護してくれる国として上がったのが神聖ローマ帝国です。東フランク王国の国王・オットー1世の功績を認めてローマ教皇がローマ皇帝の冠を授けたことから始まりました。
当時の価値観として「ローマ帝国の継承者である」ことが非常に大切だったので、ローマ皇帝として戴冠されることはものすごく名誉なことでもあります。
が、神聖ローマ帝国とは名ばかりで肝心要のローマを領地に組み込んではいません。とにかく「まとまり」がなく、ローマ教会を押さえておきたい神聖ローマ帝国はイタリアに遠征し完全な自国とすることで名実ともに『ローマ皇帝』による統治を望んでいました。
それに対抗しようとイタリア北部の都市国家がロンバルディア同盟(1167年〜およそ20年、間を開けて1226年〜50年)を結びます。神聖ローマの方も色々あって皇帝と教皇が仲違い。コムーネの住人たちは教皇との結びつきを強めていくことになりました。
こうした同盟による連携は軍事面だけに留まらず経済的な結びつきも強くします。経済発展で自治都市を発展させながらの対抗になった結果、とうとう神聖ローマ帝国に自分たちの都市の自治を認めさせるにまで至ったのです。
【イタリア南部】アラブ人支配からノルマン人支配へ
7世紀前半に誕生したイスラーム教。その後イスラーム帝国が生まれて分裂し、さらにはイスラーム勢力の拡大でキリスト教世界にも大きな影響を与えました。
711年にはイベリア半島へを征服、さらに地中海を挟んだ南イタリアやシチリア島にも影響力は及んでいます。当時はまだビザンツ帝国がイタリアを支配していましたが、878年になるとアッバース朝から離れて興ったアグラブ朝がシチリア全島を支配。やがて南イタリアの海岸部も占拠するようになりました。
ところが、さらに時が経つと今度は北欧からヴァイキングの活動が活発になり始めます。
※両シチリア王国の名称は通称のようなもので『シチリア』と『ナポリ王国』二つの国を指しています。参考にした教科書のまま書いた図ですが、本来なら『両シチリア王国』とは1815年にできた国を指すようです。
西フランク王国時代に北欧からの侵攻に悩んだ王様がキリスト教への改宗と西フランク王国への臣従を条件に、ノルマン人の頭領にノルマンディ公の地位と領地(=ノルマンディー公国)を与えました。
その後、キリスト教が浸透すると公国で貴族化したノルマン人達が聖地エルサレムへの巡礼を開始。彼らはビザンツ帝国からの独立を求めるランゴバルド系貴族達の運動に加わります。
実際に独立派はビザンツ帝国に大敗することとなりましたが、ノルマン人の強さがイタリアでも知れ渡りノルマン人を傭兵として雇うのが一般的になっていきました。
こうして南イタリアでノルマン人が頼られるようになり実力をつけるようになると、シチリア島と南イタリアではノルマン人が支配が確立したのでした。
【南部】シチリア王国の誕生(1130年)
やがて敵対する諸侯たちを次々と倒したルッジェーロ2世と呼ばれるノルマン人がローマ教皇アナクレトゥス2世によって認められ、シチリア王国が成立します。
が、当時のローマ教皇は教会内のゴタゴタで教皇派と反教皇派がおり、神聖ローマ帝国(ホーエンシュタウフェン朝)の王位継承争いと結びついて『教皇が2人いる』という訳の分からない状況になっていました。
※現在はシチリア王国の支配権を認めた教皇と対立していたインノケンティウス2世が正式な教皇とされています。
当然、インノケンティウス2世 は ルッジェーロ2世 がシチリアでの影響力を増すことを良しとはせず、神聖ローマ帝国の味方陣営や元々南イタリアを支配していたビザンツ帝国などと手を組んで対抗しました。
これをルッジェーロ2世が押し返し、1139年には完全にイタリア南部の統治を内外に認めさせます。
彼は北アフリカにも軍勢を送り領地を拡大しましたが、ルッジェーロ2世の死を持ってアフリカ大陸での勢力は瓦解。アフリカ西部にあったイスラーム勢力・ムワッヒド朝が北部に進出しています。
シチリア王国はどんな国だったの?
地中海にあって往来が多いシチリア島は、とにかく人種・民族が様々でした。また、元々はキリスト教の本場であるローマ帝国に組み込まれていたものの、9世紀頃にはイスラーム勢力も進出していたため多くのムスリム(イスラム教徒)も住んでいました。
シチリア島の場合は全体で見ると最も多くいたのはムスリムで、支配者層に多くいたのはノルマン人です。
そうした他民族の風習が交流することで独自の文化が生まれたようです。
シチリア王国、神聖ローマに組み込まれる
シチリア関係での有名どころだと神聖ローマ帝国・シュタウフェン朝の皇帝フリードリヒ2世(ローマ王在位1196〜1198年、1212〜1250年)が挙げられます。母親がシチリア女王で(ローマ教会と衝突が増えていた神聖ローマ帝国は教皇領を挟む形を作れるイタリア南部を手に入れたいと考えた末の政略結婚)幼少時からシチリアで育ったため特殊な皇帝に成長しました。
父王が早くに亡くなり、王位継承のいざこざから母の母国シチリア島で育ったフリードリヒ2世はイスラム教への造詣も深く言語も堪能。当時キリスト教はイスラム勢力と真っ向から戦う道を選んで十字軍を何度も送っていましたが、彼は外交のみでエルサレムを手に入れています。
「中世で最も先進的な君主」との呼び声が高い彼は、多種多様なシチリアの文化で育ったからこその皇帝だったと言われ、50年以上シチリア王の座について政治制度を整え、シチリアの宮廷文化を開花させました
が、そんな皇帝も1250年に死去。続いて王位についたフリードリヒ2世の本妻の息子コンラート4世も4年で亡くなります。
※ハインリヒ7世はローマ教皇派から唆されて反乱を起こし自死してしまいました
この治世の間にやり手のフリードリヒ2世の穴を埋めることはできず、シュタウフェン朝は急速に衰えていきました。
次に跡を継いだのは孫に当たるコッラディーノですが、当時2歳でシュタウフェン家と対立する者もいたためローマ王を継ぐことはできず、シチリア王のみを継いでいます(この後、神聖ローマ帝国は大空位時代を迎えます)。
当然統治できるはずもなくフリードリヒ2世の庶子・マンフレーディが摂政についたのですが…
シチリア王国、フランスに取り込まれる
シチリア王国で幼い国王が即位した事態に、シュタウフェン家と敵対していたローマ教皇・インノケンティウス4世がフランス国王・ルイ9世の弟シャルル=ダンジューにシチリア王位を持ちかけます。
この時点では戦いに発展することを避けたいルイ9世の反対もあってお断りしたのですが、後に摂政のマンフレディーがシチリア王のコッラディーノの訃報(←誤報だった!)を聞いて喜び勇んでシチリア王位についてしまいます。
マンフレーディを庇いきれないルイ9世は弟のシャルル=ダンジューのイタリア侵攻を認め、マンフレーディは戦死。さらに教皇によって王位を認められることとなると、シチリア王国はフランス王家の流れを汲むシャルル=ダンジューにより統治されたのでした。
シチリアの晩禱
が、このシャルル=ダンジューの統治が良くなかった。シチリア島北西部のパレルモでシャルルの兵による住民女性に暴行をきっかけに、これまでの不満から反乱を起こしフランス人を追い出しました。
これをシチリアの晩禱(ばんとう)と呼んでいます。
以後、シチリア島では前国王のマンフレーディの娘婿でアラゴン王国(イベリア半島の国)のペドロ3世が国王に就任します。一方で追い出されたシャルル=ダンジューは南イタリアの地で「シチリア国王」を名乗るように。
同名の「シチリア王」がいるのは異常事態です。南イタリアの王国は「ナポリ王国」シチリア島の王国は「シチリア王国」と区別されました。
・・・と言うように、イタリアでは北部・中部・南部で様子が大きく異なっていたことに加え、他国の勢力争いにも大きく巻き込まれていました。現在のイタリアでも南北で大きく様子が違っているのは、こうした歴史的背景があるためです。