歌舞伎とはどういうものか??その歴史と有名役者
日本固有の演劇で伝統芸能の一つなのが歌舞伎で、400年を超す歴史があります。
しかし、その始まりや歴史などはあまり知らない人が多いのではないのでしょうか??
今回の記事では、歌舞伎の始まりとその歴史について、時代の代表的な歌舞伎役者などを踏まえて書いて見たいと思います。
歌舞伎の歴史
17世紀初めに出雲阿国と言う女性が阿国歌舞伎を始めました。
これ以降、江戸時代初めころまで女性を担い手とする女歌舞伎の時代が続きます。
江戸幕府による女性歌舞伎は統制を受け、元服前の少年が担い手とする若衆歌舞伎にとって変わりますが、これもまた17世紀中盤に禁止されてしまいます。
その後に野郎歌舞伎と呼ばれる男性が男性役として務め、必要に応じて男性が女性役も演じるようになります。内容も舞踏中心の者から演劇中心のものに変化し、劇場芸術として大成します。
江戸時代後期になると、人形浄瑠璃をしのぎ歌舞伎が全盛期を迎えました。
元禄文化期には歌舞伎人気は低迷しますが、化政文化期になると【恋愛・心中・殺人・怪談】を扱うようになり、幕末には白狼もの(盗賊)と言った新しいジャンルが登場し、再び歌舞伎人気に火が付きました。
ザックリとした歌舞伎の歴史的流れを紹介しましたが、次に時代に合わせて変化してきた歌舞伎を紹介しましょう。
歌舞伎となに??
歌舞伎と言う単語は、後世になってつけられた当て字で、その語源は【傾く(かぶく)】と言う言葉からきています。
その意味は【勝手な振る舞いをする、奇抜な身なりをする】と言う事を指します。桃山時代から江戸時代初期にかけて若者たちが最先端の奇抜な格好で街を歩き、徒党を組んで暴れ回っており、彼らを【傾いている人=傾奇者】と呼ぶようになります。
そんな傾奇者たちは若者のあこがれとなり、彼らが茶屋に通って遊女と戯れている姿は京都の風物詩となりました。
歌舞伎の黎明期【出雲阿国・阿国歌舞伎】
出雲大社の巫女出身である出雲阿国が京都で始めた踊りを阿国歌舞伎と言います。
阿国はこの踊りに能や狂言、当時流行してた念仏踊りも取り入れ、阿国歌舞伎は人々からもてはやされ大ヒットしていきます。ここでは歌舞伎がどういった経過をたどっていったかまとめていきます。
女歌舞伎【徳川秀忠~家光時代】
出雲阿国以来、女性の舞踏を中心に発展したのが【女歌舞伎】でしたが、その担い手の多くが遊女だった事から「風紀が乱れる」と言う理由で幕府により禁止させられます。
若衆歌舞伎【家光時代】
女性歌舞伎の禁止を受けて、女性の代わりにまだ元服前の美少年の若衆が担い手となっていきました。寛永期に【若衆歌舞伎】がはやりますが、またしても「風紀を乱す」という理由で幕府から禁止が通達されることになりました。
野郎歌舞伎【家綱・綱吉時代】
綱吉の時代、元禄期になると、女性・若衆歌舞伎の禁止から男性の歌舞伎役者による【野郎歌舞伎】が出来上がります。
これまでの舞踏がメインだった内容に変化が起き、野郎歌舞伎は演劇中心の者に変わっていき、舞台芸術としての大成を見ます。
野郎歌舞伎に、代表的な役者が3人いるので書いて行きます。
初代・坂田藤十郎
元禄期に活躍した、上方に和事(色男を優美に演出するスタイル)の名手として登場します。藤十郎は、近松門左衛門の脚本を得て大活躍を果たします。
女形の名手・芳沢あやめ
藤十郎に遅れて、上方で女形の名手だった芳沢あやめが人気を博します。女形とは、歌舞伎における女性役を演じる俳優の事を指します。
野郎歌舞伎は、以前の歌舞伎とは異なり、あくまでも演じてが男性であることをアピールしつつ演じられるものでした。こうした制約の中で、男であることを忘れさせずに女らしさを表現するのは、とても難しくあやめは苦労の末に女形芸を大成させました。
初代・市川團十郎
江戸では【荒事】と呼ばれる勇猛な立ち回りの男らしく荒々しい、カッコいいスタイルの歌舞伎として、初代・市川團十郎が登場します。団十郎は浄瑠璃の金平物からヒントを得て、大成したと言われています。
こうして、元禄期には歌舞伎が舞台芸術として大成し、江戸時代後期にはその人気は人形浄瑠璃をしのぎ全盛期を迎えたのでした。
化成期以降の歌舞伎
元禄期と化政期の間は歌舞伎も低迷を見せますが、化成期も本格化すると脚本家の鶴屋南北が生世話物などの新しいジャンルの脚本で人気を博しました。
生世話物とは…恋愛・心中・殺人・怪談などを扱い、とくに写実性の高い、どぎついストーリーのことです。
鶴屋南北の代表的な作品に【東海道四谷怪談】があります。
幕末には、脚本家の河竹黙阿弥が白浪物(盗賊について扱ったもの)で人気を博しました。