平安時代

二条天皇親政派の瓦解

歴ブロ
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平治の乱で後白河院政派の政治の要である信西(藤原通憲)藤原信頼が死亡。元々天皇となるための教育を受けたわけじゃない後白河院は、この二人が亡くなったことで政治力を大きく失います。

そうなれば二条親政派の勝利になるのでは??と思いますが、そう上手く行きません。信西殺害の首謀者として二条親政派の中心人物・大炊御門経宗(二条天皇の伯父)と葉室惟方(母が二条天皇の乳母)の責任を追及されたのです。

実は、この二条親政派の中心人物が逮捕されたのは二条天皇が後白河院や美福門院の怒りに触れたため?・・・と考えられる出来事がありました。

今回は、その『出来事』について触れていきたいと思います。

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先々代の近衛天皇に入内した女性・多子

時は保元の乱以前に遡ります。藤原忠通(兄)と頼長(弟)・忠実(父)による摂関家内部での争いが全盛期の頃です。

待賢門院璋子※1の同母兄・徳大寺実能の孫娘・多子(まさるこ、当時三歳)という女の子を藤原頼長が養女として迎え入れたことに始まります。

歴ぴよ
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※1 たいけんもんいんたまこ・鳥羽天皇の中宮で白河天皇の養女。白河天皇との仲を疑われていた

頼長は兄との権力争いの一手として、11歳の多子を当時12歳になっていた近衛天皇の元に入内させるよう図ります。

もちろん忠実側も適齢の娘を送り込むのですが、頼長と忠実で鳥羽法皇や美福門院に嘆願し多子が近衛天皇の皇后となりました。

ちなみに多子。ものすごい美人だと有名な女性です。これが後々の混乱に繋がります。

そんな中で生来病弱だった近衛天皇は跡継ぎもなく1155年に崩御。この出来事が保元の乱と平治の乱に発展していくのですが、残された多子は近衛河原の御所で太皇太后としてひっそりと暮らしていくことになったのです。

二代の后と呼ばれた藤原多子

月日は過ぎ平治の乱も終結した直後の1160年正月のこと。藤原多子21歳の時「近衛河原の未亡人がすごい美人らしい」と噂を聞いた二条天皇が入内を強く希望。当初、多子は断りますが結局最後には再入内するに至ります。

史上初めて皇后だった女性が別の天皇の元に入内する事態へ(=二代の后)。当然、父親である後白河院は猛反対ですが二条天皇は聞き入れる事はありませんでした。

この時の二条天皇。実は既に姝子(しゅし・よしこ)内親王という奥さんがいました。この女性の母親、なんと美福門院です。

歴ぴよ
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美福門院…鳥羽院の女院で待賢門院璋子とはライバル。鳥羽院の崩御後は遺産の多くを相続し、その後も朝廷内での影響力を保持し続けた。二条帝の養母でもある。

姝子内親王は実母が美福門院ではありますが、鳥羽院(美福門院の亡き夫)と待賢門院の娘・上西門院の猶子になっていることから実は後白河派だったんじゃないの?って疑いのある女性です。実母より育ての母を取ったんじゃ…っていうことですね。

美福門院の実子を待賢門院の猶子としたのには、二人の仲を案じた鳥羽院による融和策の一つと考えられています。

後白河派とくれば父親との仲が良くない二条天皇としては面白いはずもありません。

姝子内親王との夫婦仲は既に良くなかったと言われていますが、二条天皇が天皇になったのは美福門院の後見も大きく裏切り行為のようにうつります。まして多子は美福門院の天敵だった閑院門流藤原家の出身ですから、色々と思うところがあるのではないでしょうか??

本当に美人という理由だけで入内させたのか?

今まで黙ってましたが、二条天皇は賢帝として名高い人物。それが色々反対が出そうな多子を入内させるんだろうか?当然の疑問が出てきます。

もちろん違う意図があったとの指摘もされています。鳥羽・近衛両帝の後継者=二条天皇という図式を作り上げるための政略結婚というものです。と同時に美福門院から少し距離を置こうとしているようにも感じます…

実際にこの辺りの時期に後白河院に対する圧力を二条親政派の中心人物二人がかけていることから、平治の乱が終わった直後は二条親政派が幅を利かせていると分かります。

どんな圧力をかけ、どんな結果になったのか??

後白河院は若い頃から流行歌(今様)を愛し、今様が上手だと聞けばどんな身分の者にも気兼ねなく話していました。天皇や上皇となった後も度々民の様子を垣間見て楽しんでいたようです。

そんな院の様子を見ていた惟方・経宗。「上皇にあるまじき行為」と思ったかは定かじゃありませんが、院が見物していた八条大路での桟敷(さじき)を材木で目隠ししたのです。

これが後白河院の逆鱗に触れました。

もちろん罪状は後白河院の逆鱗に触れた事ではなく信西殺害の首謀者として、です。後白河院が平氏に命じて大炊御門経宗と葉室惟方は逮捕されましたが、それだけでなく拷問(貴族への拷問は免除されるのが通例)を行い、最終的には流刑にまで至ります。

権威の低下した後白河院だけで、ここまでのことが出来たのか?という疑問を個人的には抱いているので、姝子内親王の件もあって美福門院が中心人物二人の逮捕を暗に認めていたのかな?と思っています。

これらの出来事を機に二条天皇と後白河院との仲は決定的に悪くなります。

極めつけには多子の入内した年の末に美福門院が崩御。最後の方の美福門院と二条天皇の間の関係は分かりませんが、それでも長年後見のような存在だった美福門院の死は二条天皇派にとっては影響があったと思われます。

政治力があったと言われる二条天皇でしたが、中心人物の逮捕と流刑、そして美福門院崩御が重なり後白河院政派と拮抗状態に突入することになったのです。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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