平安時代

二条天皇親政派の瓦解

歴ブロ

後白河天皇と崇徳上皇の間に起きた皇位継承問題から保元の乱(1156年)に発展し、その戦後処理を巡って起こった平治の乱(1160年)で後白河院政派の政治の要である信西(藤原通憲)藤原信頼が死亡しました。

元々が(後の)二条天皇を即位させるのに「父を差し置いて息子を即位させるのは...」という理由から即位した後白河天皇だったため、天皇となるための教育を受けたわけじゃありません。

繋ぎでしかなかったはずの後白河天皇は信西と信頼の力もあって想像以上に権力をつけていましたが、政治の勉強をしてこなかった後白河天皇に「本当に大丈夫か?」と懐疑的な視点を持ち続けた人たちもいたようです。

そんな彼らが「二条天皇が親政を行う方がよい」と考える二条親政派に流れているような状況のなか、後白河天皇の後ろ盾だった信西と信頼が亡くなり、政治力を大きく失ったのでした。

そうなれば「二条親政派の勝利になるのでは?」と思いますが、そう上手く行きませんでした。信西殺害の首謀者として二条親政派の中心人物・大炊御門経宗(二条天皇の伯父)と葉室惟方(母が二条天皇の乳母)の責任を追及されています。

実は、この二条親政派の中心人物が逮捕されたのは二条天皇が後白河院美福門院の怒りに触れたため?・・・と考えられる出来事がありました。

今回は、その『出来事』について触れていきたいと思います。

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先々代の近衛天皇に入内した女性・多子

時は保元の乱以前に遡ります。藤原忠通(兄)頼長(弟)忠実(父)による摂関家内部での争いが全盛期の頃です。

待賢門院璋子※1の同母兄・徳大寺実能の孫娘・多子(まさるこ、当時三歳)という女の子を藤原頼長が養女として迎え入れたことに始まります。頼長の正妻が実能の娘なので、頼長にとっては姪っ子にもあたる子でした。

れきぴよ
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※1待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)・・・鳥羽天皇の中宮だけど、鳥羽天皇の祖父にあたる白河天皇の養女で白河天皇との仲を疑われていた。

頼長は兄との権力争いの一手として、11歳の多子を当時12歳になっていた近衛天皇の元に入内させるよう図ります(近衛天皇は美福門院の実の息子です)

もちろん忠実側も適齢の娘を送り込むのですが、この時期には頼長の立場の方が忠実よりも上だったようです。頼長と忠実で鳥羽法皇や美福門院に嘆願し多子が近衛天皇の皇后となりました。

ちなみに多子。ものすごい美人だと有名な女性です。これが後々の混乱に繋がります。

そんな中で生来病弱だった近衛天皇は跡継ぎもなく1155年に崩御。この出来事が保元の乱平治の乱に発展していくのですが、残された多子は近衛河原の御所で太皇太后としてひっそりと暮らしていくことになったのです。

二代の后と呼ばれた藤原多子

月日は過ぎ平治の乱も終結した直後の1160年正月のこと。

藤原多子21歳の時「近衛河原の未亡人がすごい美人らしい」と噂を聞いた二条天皇が入内を強く希望。当初、多子は断りますが結局最後には再入内するに至ります。

史上初めて皇后だった女性が別の天皇の元に入内する事態へ(=二代の后)。当然、父親である後白河院は猛反対ですが、二条天皇は聞き入れる事はありませんでした。

この時の二条天皇。実は既に姝子(しゅし・よしこ)内親王という奥さんがいました。この女性の母親、なんと美福門院です。

れきぴよ
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美福門院…鳥羽院の崩御後は遺産の多くを相続し、その後も朝廷内での影響力を保持し続けました。

二条帝の養母であり、多子が最初に嫁いだ近衛天皇の実母でもあります。

姝子内親王は実母が美福門院ではありますが、鳥羽院(美福門院の亡き夫)と待賢門院の娘・上西門院の猶子になっていました。

美福門院の実子を待賢門院の猶子とすることは二人の仲を案じた鳥羽院による融和策の一つと考えられています。そんなややこしい間柄の娘を入内させることに対し、周りはあまり良く思いませんでした。

二条天皇と姝子内親王との夫婦仲は既に良くなかったと言われていますが、二条天皇が天皇になったのは美福門院の後見も大きく、裏切り行為のようにうつります。

本当に美人という理由だけで入内させたのか?

今まで黙ってましたが、二条天皇は賢帝として名高い人物。それが色々反対が出そうな多子を入内させるんだろうか?当然の疑問が出てきます。

もちろん違う意図があったとの指摘もされています。鳥羽・近衛両帝の後継者=二条天皇という図式を作り上げるための政略結婚というものです。と同時に美福門院から少し距離を置こうとしているようにも感じます…

実際にこの辺りの時期に後白河院に対する圧力を二条親政派の中心人物二人がかけていることから、平治の乱が終わった直後は二条親政派が幅を利かせていると分かります。

どんな圧力をかけ、どんな結果になったのか??

後白河院は若い頃から流行歌(今様)を愛し、今様が上手だと聞けばどんな身分の者にも気兼ねなく話していました。天皇や上皇となった後も度々民の様子を垣間見て楽しんでいたようです。

そんな院の様子を見ていた二条天皇親政派の藤原惟方・藤原経宗。「上皇にあるまじき行為」と思ったかは定かじゃありませんが、院が見物していた八条大路での桟敷(さじき)を材木で目隠ししたのです。

これが後白河院の逆鱗に触れました。

もちろん罪状は後白河院の逆鱗に触れた事ではなく信西殺害の首謀者として、です。後白河院が平氏に命じて大炊御門経宗と葉室惟方を逮捕しましたが、それだけでなく拷問(貴族への拷問は免除されるのが通例)を行い、最終的には流刑まで至らせます。

権威の低下した後白河院だけで、ここまでのことが出来たのか?という疑問を個人的には抱いているので、姝子内親王の件もあって美福門院が中心人物二人の逮捕を暗に認めていたのかな?と思っています。

これらの出来事を機に二条天皇と後白河院との仲は決定的に悪くなりました。

極めつけには多子の入内した年の末に美福門院が崩御。最後の方の美福門院と二条天皇の間の関係は分かりませんが、それでも長年後見のような存在だった美福門院の死は二条天皇派にとっては影響があったと思われます。

政治力があったと言われる二条天皇でしたが、中心人物の逮捕と流刑、そして美福門院崩御が重なり後白河院政派と拮抗状態に突入することになったのです。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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