フランク王国の発展と分裂【フランス・ドイツ・イタリア】
ゲルマン民族の大移動を経て複数の国家が誕生していた中、その多くは短命政権に終わったにもかかわらず生き残っていったのがフランク王国です。
フランク王国は、後のフランス王国・神聖ローマ帝国・イタリア王国の中核となって、中世ヨーロッパに残っていくこととなります。現在でいうフランス・ドイツ・イタリアなので力のある国だろうと何となく想像がつきますね。
今回まとめたフランク王国もひとつの王朝のみによる統治ではなく王朝の交代もありましたので、いつものように大まかな経緯をまとめつつ別の記事でそれぞれの治世について詳細をまとめていこうと思います。
フランク王国のはじまり
フランク人はライン川の東側にいたサリー・リブアリー・上フランクの3つの勢力に分かれたゲルマン人一派です。彼らは5世紀頃にローマ帝国でガリアと呼ばれた地域の北側に移住しています。
なお、ガリアとはケルト人の一派であるガリア人が住んでいたとされる地域。現在でいえばフランス・ベルギー・スイス・オランダ・ドイツの一部を含んでいます。
フランク王国が長期政権となった背景とは?
今にも言えることですが、フランスは西ヨーロッパ最大の農業国で農地用面積はEU(27か国)の中で全体の16%を占め(農林水産省、フランスの農林水産業概況参考)中でも小麦は世界でも第5位の生産量となっています。
- 小麦生産量ランキング
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1~4位まで大きな領地を持っている国が続きます(領地面積中国4位、インドは7位、ロシア1位、アメリカ3位)。フランスは領地面積で言うと48位になるので大健闘です(世界の面積ランキングー世界経済のネタ帳よりー)。
順位 国名 生産量(1000トン) 1 中華人民共和国(中国) 133,596 2 インド 103,596 3 ロシア 74,453 4 アメリカ合衆国(米国) 52,258 5 フランス 40,605 6 カナダ 32,348 7 ウクライナ 28,370 8 パキスタン 24,349 9 ドイツ 23,063 10 アルゼンチン 19,460 もちろん農業における技術革新や当時開拓できなかった地域を開拓したことで生産量が大幅に増えた地域、干ばつや塩害により生産量が大幅に減った地域などもあるため、この順位がそのままということはありえません。
が、フランク王国が残った理由の一つに『豊かな土地』だったことが指摘されていたので参考までに載せておきます。
農業生産量が豊かな場所は古い時代なら尚更国力に直結します。
こういった地理的な特性がゲルマン民族による国の多くが短命政権となるものが多い中で生き残った理由の一つと考えられています。
他にも原住地から近く、力を失わないまま侵入できた説なんかもあるようです。
フランク王国の誕生
これらをサリー人のクローヴィスが統一、フランク王国を作りました。フランク王国に統一後、すぐにクローヴィスは隣のシャグリウス(シアグリウスとも)王国にあるローマ人統治領・パリ地方を征服(486年)しています。
続けて、クローヴィスはアレマン人・ブルグンド人・西ゴート人を破り(西ゴートはピレネー山脈以北まで)東ゴート王国の王族と妹の結婚を通じて同盟を結んだほか、自身もブルグンド王国の王女との結婚で足元も強化させていきます。
メロヴィング朝の名前の由来は、クローヴィスの祖父メロヴィクスです。このメロヴィクスを始祖としてメロヴィング家が生まれ、栄えていくことになります。
さらに征服後に行ったのが、カトリックの基礎教義として確立されていたアタナシウス派への改宗でした(496年)。
ガリアの征服・・・ということで、元々はローマ人が多くいた場所。
キリスト教の教義の違いで異端とされローマを追放されたアリウス派が主流派のゲルマン人たちが新しい国を作っている中でフランク王国のみがローマ人の主流・アタナシウス派へと改宗したとなると、それだけで現地の人は新たな支配を受け入れやすくなります。
※フランク人はもともとは自然の神を崇拝していたようです。アタナシウス派とアリウス派については『ローマが後世に残した最大の遺産とは?【キリスト教の成立と発展】』の記事をご覧ください
こうしてローマ市民との関係を強化しつつローマ教会と連携させることも成功させ、ガリア全域の支配を確実にしたのです。
メロヴィング朝の治世(481~751年)
クローヴィスによりフランク王国が生まれガリア全体は統一されましたが、元々複数部族の集合体だけあって王権はそれほど強くない状態で統治されていました。
それでも一代で非常に広大な領土を治めキリスト教へ改宗したことから、ビザンツ帝国の皇帝アナスタシウス1世から『アウグストゥス』の称号を贈られ、執政官『コンスル』に任命されています。
ローマ帝国の継承者であるビザンツ帝国からフランク王国が正式なガリアの統治者として認められたことを意味します。
※元祖『アウグストゥス』は『【古代ローマ】内乱の一世紀』をご覧ください。なお、『アウグストゥス』は『尊厳者』を意味する言葉です。
そんなクローヴィスも511年には死去。死の直前に公会議を開き、フランク王国でもアリウス派を異端とし対処を話し合いの他、メロヴィング朝での教会制度の組織化についても話し合われたと言われています。
こうしてフランク王国と教会との距離はどんどん近づいていきました。
メロヴィング朝の衰退
フランク族の社会は基本的に分割相続が一般的だったため、割と早い段階で衰退は明らかになっていきます。クローヴィスは名前不詳の女性との間の長男と、王妃との間の息子(4人いたけど、一番上の子は早世したため実質三人)の四人でクローヴィスの領地を分けたのです。
孫の代・ひ孫の代となるにつれて分割すればするほど領地は小さくなって力を失ってしまうのは当然です。ガリアを一人が統一することもありますが、統一の過程で内紛に発展するためメロヴィング朝は衰退していきます。
メロヴィング朝が力を失っていく過程で政権内で実権を持つようになったのが、行政・財政を取り仕切る宮宰(きゅうさい)でした。この宮宰として力を持っていったのがカロリング家です。
イスラム世界・ウマイヤ朝のヨーロッパ進出
メロヴィング朝が力を失い宮宰が力を持つようになってきた頃、フランク王国の南東では古代オリエント世界に変わる新たな世界が誕生しつつありました。
というのも、7世紀初め頃にユダヤ教やキリスト教の影響から新たなイスラム教が生まれ中東地域に浸透しはじめており、そのイスラームによって軍を統制する者がアラブ人から出てきていたためです。
中東は古代文明が生まれた豊かな土地。「肥沃な三日月地帯」の征服活動(ジハード=聖戦)をするようになっていったのです。
こうした戦いの中でササン朝は敗れ、661年にはウマイヤ朝が誕生します。
8世紀までにウマイヤ朝は政治的にも安定するようになり領土を拡大させていきました。東方へは西北インドの辺りまで、西方では北アフリカ、更にはヨーロッパまで進出を開始します。
トゥール・ポワティエ間の戦い(wikipedia)より
ヴェルサイユ宮殿の見どころの一つ『戦史の回廊』に飾られているそうです
イベリア半島では西ゴート王国が711年に滅ぼされ、いよいよピレネー山脈を越えてフランク領内にまで侵入すると、732年にはトゥール・ポワティエ間の戦いが勃発。
この時の宮宰であったカール・マルテルが騎士団を指揮して勝利に導きウマイヤ朝を撃退させています。
この時、カール・マルテルはフランク王国の危機を救っただけでなく、キリスト教の危機をも救ったことになります。結果的にローマ教会や教皇からの支持も得て、いよいよカロリング家の権勢は絶大なものとなりました。
カロリング朝の治世(751年~987年頃)
宮宰カール・マルテルの息子・ピピン3世(小ピピン)が751年ローマ教皇のザカリアス(在位741~752年)の同意のもと、メロヴィング朝・最期の皇帝キルデリク3世(在位742~753年)を廃しました。
そのキルデリク3世を修道院に息子と共に幽閉させ、ピピン3世は自ら王位についたのがカロリング朝の始まりです。
なお、当時のフランク族には姓はなく、カロリング(訳すと「カールの」の意味)の名称は後に出てくる偉大な皇帝『カール大帝』が由来となっています。
ピピンの寄進による教皇領の成立
ピピン3世が王位に自らつく行為は、他の者達からすれば簒奪以外の何者でもありません。つけ入る口実を作ることになりますから少しでも正当性を示したかった。
そこでローマ教皇の同意を得ることにしたのと同時に、息子以降も正当な王位であることを認めさせる儀式を受けています。
その見返りとしてピピン3世はイタリア遠征(754,756年)を行い、ランゴバルドから領土を奪うとラヴェンナ・ペンタポリス地方を教皇に献じました。これが有名な『ピピンの寄進』です。
こうしてイタリアには教皇領が成立し、さらに教会とフランク王国の関係は深まりました。
カール大帝の治世(768~814年)
カロリング朝で特記する人物と言えば、やはりカール大帝(在位768~814年、カール1世、シャルル・マーニュとも呼ばれる)です。
中世ヨーロッパ世界とローマ教会の在り方が大きく変わるキッカケとなった国王(ドイツ・フランスの始祖で英雄的な存在)で、ピピン3世の息子にあたります。
ピピン3世の時代でもフランク族の分割統治は続いており、ピピン3世の死後はカールと弟のカールマンで王国を二分し共同統治していました。なお二人の兄弟仲はあまり良くなかったようです。
フランク王国、最盛期へ
ピピン3世のあとを継いだ兄弟でしたが、弟のカールマンは父の死から約3年後に死亡。(弟の)妻と幼子がランゴバルド王国へ亡命したため、遺領をカールが継ぎフランク王国全域の国王となっています。
この後を継いだカールは非常に強い国王でした。ランゴバルドの征服、ザクセン人の服従だけにとどまらず、アジア系のアヴァール人やイベリア半島のイスラーム勢力も撃退しています。
一方、ちょうど似たような時期にローマ教会やローマ教皇はビザンツ帝国の首都がお膝元のコンスタンティノープル教会と首位性を巡って微妙な関係に陥っていました。
西ローマ帝国が瓦解したことで庇護者不在になっていたローマ教会は、西ヨーロッパが拠点のためローマの継承者であるビザンツ帝国の影響を受けてはいるものの何とかやってきている状態でした。
その中でローマ帝国で異端派とされていたアリウス派が多いゲルマン人による国家が乱立。教会の首位性を訴えるには少々物足りない状況だったため、ローマ教会は庇護者となり得る存在を模索し始めます。そこにカール1世率いるフランク王国がビザンツ帝国と肩を並べるほどの強大国となっていた、と。
フランク王国は元々がローマ人のいる場所に侵入したゲルマン人の諸民族たちが立てた王国を制圧してできた・カロリング朝が前王朝を簒奪してできた王朝だったため、キリスト教会のお墨付きがあれば国のまとめやすさが変わってきます。フランク王国にとっても悪い話ではなかったのです。
ということで、800年。カール1世はローマ教会から(西)ローマ皇帝として戴冠されています。
ローマ教会はフランク王国との関係を強化させ、完全にビザンツ帝国の影響下を抜け出すことに成功。西ヨーロッパにおけるローマ=キリスト教会の存在感を高めていきました。
フランク王国にとってもローマ古来からの文化にキリスト教・ゲルマン人の文化などを融合させた西ヨーロッパ中世世界の世界を作り上げることになり、長い間(フランク王国が亡くなった後までも)その影響力を保ち続けています。
フランク王国の分裂
カール1世がフランク王国の最盛期を築き上げますが、ここでもゲルマン人の慣習が立ちはだかりました。
カール1世の息子達の多くが早世したためルートヴィヒ1世(ルイ)が単独相続したものの、ルイの子どもの代で生前での分割統治が行われたのです。
ルイにはロタール・ピピン・ルートヴィヒ2世の他に2番目の后との間にシャルル(後の禿頭王)も生まれていました。この末っ子シャルルを偏愛したために3人は父に対して反乱をおこします。
こういった混乱がフランク王国内部で起こっている中でピピン・父のルイが相次いで死亡。その後も残った3人やその子どもも含めて争った結果、ヴェルダン条約・メルセン条約が結ばれました。
帝国が3つに分割された
- 中部イタリア(+帝位):ロタール
- 東フランク王国:ルートヴィヒ2世
- 西フランク王国:シャルル2世
ロタールが亡くなり、ロタールの子とルートヴィヒ・シャルルが争って結ばれた条約。
- 東フランク王国
- 西フランク王国
- イタリア王国
中部フランク王国が分割され、北イタリアを除いて東西のフランク王国に併合された。
こういった分裂や統合を繰り返しながらフランス・ドイツ・イタリアの基礎が作り上げられていきました。
分裂後のそれぞれの国で起こった出来事は別記事でまとめていこうと思います。