世界史

【古代ローマ】内乱の一世紀

ポエニ戦争以降、社会が混乱したのは共和政ローマを見てみようでお伝えした通りです。長く続く戦乱と安い小麦がイタリア半島に出回るようになったことでイタリア半島内の農民たちが疲弊していました。

有力者たちが、そういったローマの没落した農民たちの反乱をあの手この手で押さえていましたが、最終的に紀元前2~前1世紀の間に内乱が続く事態へと陥ります。

今回は、そんな ローマの内乱 ユリウス=カエサル が混乱を納めるまでの一連の経緯を見ていこうと思います。

 

内乱の背景とは??

ローマで内乱が発生したのは、長く続く戦争とそれに伴う社会変化が関係しています。共和政ローマの記事とかぶる部分もありますが、もう一度改めて内乱の背景を見ていくことにしましょう。

ポエニ戦争

共和政ローマは紀元前3世紀後半に差し掛かる頃、現在のローマ周辺だけの領土をイタリア半島全域にまで広げていました。元々イタリア半島…特に南部はギリシアと同じような土壌が多く、イタリア半島全域に暮らす人々の人口を賄うだけの小麦が不足しがちに

当時のローマ戦争時の略奪を兵(兵役はローマ市民の義務)の権利として認めていましたし、兵として戦争に参加すれば日給も出てましたから、小麦が不足しがちになるほどローマ市民の意識は戦争に向かうことになります。まして小麦が取れそうな場所があるとなれば奪わない手はありません。

イタリア地理的特徴

イタリア周辺の地理を見ると分かりますが、イタリア半島全域を支配した後はアルプス山脈を越えた先にある大陸か地中海の先にしか相手はいません

アルプス山脈を越えた先は非常に広く兵站もしっかりしていることでしょう。また、アルプス山脈の北側は一度攻め込むとイタリア半島に戻るのが難しく、背水の陣(背後は川じゃないけど)で臨まなきゃなりません。

そんな理由から交易などで勝手知ったる地中海の方が攻め込みやすいと踏んだのではないでしょうか?

小麦の収穫が期待できるイタリア半島南西に位置するシチリア島とその背後にいるカルタゴをターゲットとしたポエニ戦争が始まります。

最終的にローマカルタゴに勝利シチリアカルタゴの領地も手に入れることとなりました。なお、ローマカルタゴと同盟関係にあったアンティゴノス朝マケドニアともポエニ戦争と同時進行で戦って勝利しているので、ギリシアも支配下に置くようになっています。

 

戦後の混乱

ローマは、本来の目的であったシチリア島を戦争初期の時点で手に入れることに成功。

戦争が続くうちに自給自足に近い生活を送っていた兵として参加したローマ市民の農地が荒れがちになります。荒れがちになった農地から取れる農作物では食糧が足りるとは思えませんね。兵として稼いだ給与から安いシチリア産の小麦を購入して生活が成り立つようになります。

兵として働いた農民の農地は、兵役の義務を行使するだけで安い食糧を手に入れられるようになったために荒れ果て、イタリア半島内で農業一本で食べていた層も安い小麦の流入によって小麦の市場価格が暴落して食べるのに苦労するようになります。

ポエニ戦争後はイタリア半島の農民たちが疲弊しはじめたのです。

戦時中は多くのローマ市民たちの収入源が確保できたのですが、戦争が終結すると残ったのは疲弊した農民たちと荒れ果てた農地だけ。土地を持たない無産階級が増加したことが内乱に続く第一段階となります。

 

ローマ内に出来上がった貧富の格差

ポエニ戦争が終わったことによる変化は農民の疲弊だけに留まりませんでした。大人数のカルタゴの捕虜が奴隷として売り出され、ローマ奴隷制が一気に加速したのです。

多くの荒れ果てた農地と安い奴隷。

既に経済的に豊かな人たちは農地と奴隷を手に入れ、奴隷による広い農地での農業を行うようになっていきました(ラティフンディア)。

パンと見世物

ローマの剣闘士

広大な属州を手に入れたローマには一部の層に多くの富が集まりました。一部の層とは、ラティフンディアを営んでいる層や為政者たちのことです。貧富の差の拡大はいずれ治安の悪化に繋がります。

そこで富裕層が行ったのが

  • 食糧(パン)
  • 娯楽(競馬・闘技場での剣闘士の試合など)

の提供です。支配者の責務として考えられていた節もあります。

生きられるだけの食料を楽に確保しながら毎日行われる競馬や剣闘士の試合を見て楽しむ生活は一部の者にとっては居心地の良いものとなりました。

逆に支配者層にとっては、日々の生活で楽しみを享受させることで政治への関心を低下させると共に多くの支持者を取り込むことにも繋がっていきます。

この状況をある詩人が『パンと見世物』『パンとサーカス』と風刺し、現代にまで伝わる言葉として残しています。

一方で、その生活を良しとしない者達は富を求めて働きました。こうして貧富の差はさらに拡大していったのです。

内乱のはじまり

こうした社会矛盾が重なって、市民の平等が原則だったローマ社会は変質していきます。

政治家も

  • 閥族派:元老院の伝統的支配を守ろうとする派閥
  • 平民派:無産市民や騎士が支持する派閥

の二つに分かれ争うようになりました。

グラックス兄弟の大改革

こうした状況に危機感を抱いたのがグラックス兄弟。農民の疲弊は諸にローマの軍事力低下に繋がるためです。

共和政ローマの政治体制

元老院やコンスルに口出しできる護民官にグラックス兄弟は相次いで就き、大土地所有者の土地を没収し無産市民へ分配する改革を行おうとします。

が、大地主の大反対により失敗。殺される or 自殺という最期を迎えてしまいます。

改革失敗によるローマへの影響とは??

この改革以降、有力政治家たちは自分の支持者を保護下に置き(=庇護民)、配下として抱えるようになります。次第にその対立はエスカレート。配下を使って互いに暴力で解決しようと躍起となりました。

前1世紀に入ってからは有力者が無産市民を私兵として集めるようになり、

  • 平民派『マリウス』 v.s. 閥族派『スラ』の戦い

が起こっただけでなく、そういった治安の悪化に乗じて

  • イタリア半島の同盟市ではローマ市民権を求めた反乱
  • 剣闘士スパルタクスによる大反乱

なども起こるようになり、内乱は頂点に達します。

剣闘士奴隷は、互いに決闘したりライオンや牛などと戦わさせられたり…と、ローマ市民の娯楽のため、見世物とされるために生死を委ねられた人々。見世物になることを嫌った剣闘士が試合当日に衝撃的な方法で自死する話は多数残っています。過酷な環境に置かれ、限界が来たのでしょう。

内乱の終結

以上のような大混乱を収めたのが

  • ポンペイウス
  • カエサル
  • クラッスス

の3名でした。前60年、3人で私的に政治同盟を結んで元老院と閥族派に対抗。第一回三頭政治(前60~前53年)の時代に突入します。

第一回三頭政治

その中でカエサルがガリア(現在のフランス)遠征で頭角を現し主導権を握ると、紀元前46年に政敵のポンペイウスを倒してローマ全土を平定。

コンスルから一名選ばれる独裁官にカエサルは連続して就任すると、社会の安定に務めました。民衆にはカリスマ的人気があり「王になるんじゃ・・・?」という程の勢力となったため、元老院共和派でありながらカエサルの友人でもあったブルートゥスに暗殺され再び政治は混乱に陥ります。

この時のカエサルの放ったと言われている言葉が

「ブルートゥス、お前もか」

という有名な文言です。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の一場面としても有名ですね。

第二回三頭政治

カエサルが暗殺された翌年

  • アントニウス(カエサルの部下)
  • レピドゥス(カエサルの部下)
  • オクタウィアヌス(カエサルの養子)

の3人が再度起きた政治的混乱を納めるため、改めて私的な政治同盟を結びます。これが第二回三頭政治と呼ばれているものです。

一人が頭角を現し政敵が倒される構図は、第一回三頭政治の時と同様でした。

第二回三頭政治ではカエサルの養子オクタウィアヌスが頭角を現し、アントニウスが共和政ローマの支配下にあったエジプトのプレトマイオス朝クレオパトラと結んでオクタウィアヌスを倒そうと画策しますが、失敗。

プレトマイオス朝が滅びたと同時にオクタウィアヌス内乱を平定させたのです。

ローマ帝国の誕生

オクタウィアヌス がローマを平定したのが前27年

元老院から アウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられると共に帝政ローマの時代が始まります。

カエサルは元老院などの共和政の制度を軽視する傾向にありましたが、オクタウィアヌスは共和政の制度を尊重し市民の中の第一人者・プリンケプスを自称することに。とは言え、それは表面上の話で実際には要職をほとんど兼任し、政治権力を手中に収めています。

この政治を元首政(プリンキパトゥス)と呼び、事実上オクタウィアヌスは皇帝となり独裁を始めたのです。

この前27年に帝政ローマが始まって以降、約200年もの間はローマの平和(パクス・ロマーナ)と呼ばれるほど繁栄の時代を迎えることとなります。

 

 

ABOUT ME
miumaga
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。