イギリスvs.フランス!百年戦争の背景をみてみよう
イングランド王ヘンリー2世は婚姻や戦いによって広大な領地を手に入れていましたが、その獲得した領地は代替わりするにつれて多くの地をフランス王国に取り戻されてしまいます。
この領地を巡る小競り合いを英仏間で何度も起こしていたため『百年戦争は領地問題の延長』と捉えたくなりますが、それだけではありませんでした。
この戦いの最も大きな焦点は「フランスの王位継承争い」となっています。
今回は
- どうして正当性をイングランド王が主張できたのか?
- なぜイングランド王がフランス王位を主張するようになっていったのか?
- イングランドとフランスが険悪になっていった理由とは?
なんて疑問を一つ一つまとめていきます。
実際に「どんな人物が活躍したか?」「どんな戦いがあったのか?」は別の記事にまとめる予定です。
イングランド王がフランス王位継承を主張できた理由とは?
百年戦争の発端となる挑戦状をたたきつけたのはイングランド王・エドワード3世です。
エドワード3世は母親がフランス国王フィリップ4世の娘でフランス王朝のカペー朝と非常に近い血縁関係を持っていました(中世イギリス史<プランタジネット朝>や中世フランス史カペー朝参照)。
ということで、彼はフランス王位を主張してもおかしくない立ち位置にいたことになります。その大前提を頭に入れた上で当時の英仏の状況を確認してみます。
当時のフランスの状況は?
実を言うとエドワード3世が即位するよりも10年以上前...1314年にフィリップ4世が亡くなり息子の代になって以降、国王として即位しても国王がすぐに亡くなる事態が何度も続いていました。
フィリップ4世の後に最初に王位についたルイ10世は2年経たずに、その息子のジャンは(父の死後に生まれ)出生と同時に王位につきましたがすぐに死亡。その後を継いだルイの弟達フィリップ5世、シャルル4世も王位につきますが、やはり死亡してしまったのです。
彼らにもそれぞれ男児がいましたが、皆夭逝しており王位を継ぐものがいなくなります。
ルイ10世の娘を王位に...という話もなかったわけではないのですが、
- ルイ10世の妻を含むフィリップ4世の息子達の妻による不倫スキャンダルが明るみに出た辺りの時期に生まれた娘だった
- プランタジネット家(←イングランド王家)をはじめとする他家による干渉を避けたかった
ことなどからフランク王国を治める時から使われていたサリカ法典を拡大解釈して女王および女系の王位継承を禁止するとしたため、フランス王朝を継げる人材がいなくなってしまいました。
こうしてシャルル4世の代でフランス王朝(カペー朝)が断絶してしまったのです。
そこで次の王位候補者として名前が挙がったのがフィリップ4世の弟ヴァロワ伯シャルルの息子で働き盛りの年齢だったフィリップ6世。彼の王位継承を機にヴァロワ朝が誕生しました。
カペー朝が断絶した頃のエドワード3世の状況は??
ヴァロワ朝が誕生した頃のエドワード3世は母とその愛人に実権を握られていたため、自身の王位継承権の正当性を主張しようにも主張が通らないような状況でした。
そのため、フィリップ6世の即位は受け入れざるを得なかったようです。
エドワード3世の父母間の対立
エドワード3世が母達に実権を握られていた経緯は母イザベルが父王エドワード2世と結婚した頃にまで遡ります。
結婚当時には既に父王が幼い頃からの遊び相手であったギャビストンを寵愛しており「輿入れしたばかりなのに蔑ろにされている」と感じて夫と対立したことに端を発していました。
王位に近い人間がなるはずのコーンウォール伯の爵位を与えたり度の過ぎた扱いをし、それを受け入れてきたギャビストンを諸侯達が私刑により斬首。これを機に父王の依存対象がディスペンサー父子に移っていきます。
このディスペンサー父子が台頭し国政を主導していた時期にガスコーニュで百年戦争の前触れでもあるサン=サルド戦争が英仏間に勃発。
『フランスとの戦い』ということで「(イザベルの)所領を通してフランス軍がやってきかねない」という理由からイザベルの領地が没収されてしまいます。
ただでさえ冷えていた夫婦関係と国政を主導していた立場のディスペンサー父子とイザベルの対立は決定的となっていました。
母イザベルのクーデター
このサン=サルド戦争の戦後処理の一環でアキテーヌ領を維持するために渡仏した際、エドワード2世は本人ではなくイザベルを名代として送っています。
この渡仏の際に、イザベルはディスペンサー父子にイングランドを追い出された貴族と愛人関係になり、共にクーデターを起こしました。
なお、イザベルの愛人はエドワード2世に故国を追い出されたイングランド貴族です。互いにエドワード2世に不満を抱いていたこともあって意気投合しています。
このクーデターが1326年の出来事。その翌年には父の廃位と14歳のエドワード3世が正式に即位することが議会で決定しています。上記したヴァロワ朝の誕生は彼の即位の翌年の出来事です。
ということで、エドワード3世はイングランド王となっていたといっても実権を持てるような時期ではなかったようです。また、彼がフランスじゃない場所に住んでいたこともフィリップ6世即位の後押しとなりました。
が、エドワード3世には「自分の方がカペー朝の関係と近い」という言い分を残していくことになります。
エドワード3世の時代に英仏関係が悪化した背景とは?
これまでは人間関係を中心に見てきましたが、この章では国際関係も見ていくことにしましょう。
百年戦争が始まる前の段階で英仏間の戦争が何度も発生してくるようになっていた理由は、当時の社会環境によって新たな問題が生じてきたためです。
そんな新たな問題が『フランドル問題』を含む英仏両国のトラブルでした。この問題はイングランド王がエドワード3世の祖父エドワード1世とフランス国王がフィリップ4世の時代に表面化しています。
フランスとの領地問題『フランドル問題』とは?
当時のフランスでは、十字軍遠征により商業が活発化。フランドル地方は商業が活発化した地域の中でもヨーロッパ経済の中心として栄えた場所の一つまで成長しています。
フランドル地方の中心産業と言えば毛織物。毛織物の材料と言えば羊毛です。
※ちょうど14世紀は寒冷化が始まったとされているので、暖かい衣類を作る需要が高まっていた
羊毛はイングランドが一大産地。英仏の最短距離にあたるドーヴァー海峡を挟んだ位置にあるフランドル地方は羊毛の仕入れに事欠かないという背景もあって毛織物が盛んとなったわけですね。とにかく、イングランドとは切っても切れない関係でした。
経済的に非常に豊かな土地でしたから、フランス王・フィリップ4世はフランドルの完全支配を狙いはじめます。その際、フランドルの都市同盟はイングランドと結んで対抗したため戦争に発展するようなこともありました。
そんな中でもフランドルは独立を何とか保っていたのですが、エドワード3世が即位する3年前に親フランス派のフランドル伯が誕生しています。
フランドルのトップが親フランス、都市の市民が親イングランドという捩じれ構造が生まれてしまったのです。
スコットランドとの問題
一方、エドワード2世の代で一旦なぁなぁになっていたスコットランドへの侵攻政策(エドワード2世も攻め込みましたが1314年に敗れスコットランドは独立したままでした)をイギリス統一に向けて再開したエドワード3世。
この統一運動再開に焦ったのはスコットランドでした。この時追い込まれてフランスへ亡命しています。
イギリスを構成する地図を見ると分かりやすいですが、北側にスコットランド、南にイングランド、更に海を隔てた南にフランス…という位置関係のためスコットランドがフランスと結ぶことでイングランドに圧力をかけることが出来ました。
イングランドとしては
「スコットランド王を引き渡せ!」
となりますが、逆にフランスとしては
「スコットランドと同盟結べばイングランドを挟み撃ち出来るのに引き渡せるか」
となったため、フランス国王となっていたフィリップ6世はスコットランド王を匿い続けました。この件が両国の関係を決定的に悪化させています。
フィリップ6世はローマ教皇にイギリスとの仲介を試みますが、エドワード3世を代表とするプランタジネット家は対決姿勢を崩しませんでした。
ギュイエンヌを介して臣従関係にあったためフランスはエドワード3世の領地没収を決断しますが無論イギリスはこれを拒否。
むしろエドワード3世は「自分の方がフランス国王に相応しい」と自身がフランス国王であることを宣言、ヴァロワ朝に対して挑戦状を叩きつけます。
フィリップ6世は最初は軽く考えていたようでしたが、初期に行われた海戦での大敗で現実味を帯びるようになり百年戦争は泥沼にはまっていくことになります。