2023年NHK大河ドラマ主人公・徳川家康の生涯【幼少期~長篠の戦まで】
最終的に天下統一を果たし、その後太平の世にする礎を作った徳川家康。忍耐の人というイメージの家康がどんな人生を送ったのかを調べていきたいと思います。
2023年の大河ドラマの【どうする家康】の題材にもなった徳川家康。江戸幕府を開いた本人である上に、信長・秀吉などの英雄たちと同じ時代を生きた人なので、とても内容の濃い大河ドラマとなる事でしょう。
この記事でも、幼少期から江戸幕府設立・大坂の陣頃までの波乱に満ちた時代を書いて行くので、いくつか分けて書いて行きたいと思います。
苦難の連続だった幼少期
徳川家康は幼名を竹千代と言い、1543年1月31日に父・松平広忠と母・於大の方の間に岡崎城で生誕しますが、竹千代が生まれる前から松平家は大混乱の真っただ中でした。
竹千代の祖父の清康が全盛期の時代に三河の大部分を統一するも、近隣の織田家としのぎを削る中で死去します。
当時、幼かった竹千代の父・広忠は松平家の老臣に連れられ逃亡、放浪の末に今川家の助力を受けて岡崎城へ戻ります。これを機に松平家は今川家の影響下に入りました。
そんな中で尾張と三河の間の辺りを支配する水野家の娘・於大の方を娶り竹千代(家康)が生まれたのですが、信定陣営(松平家宗家の敵対勢力)が尾張の織田家と繋がっている疑いが出たほど内部では裏切りが続出していました(下は1543年頃の地図)。
さらに水野家を於大の方(竹千代の母)の兄が継ぐと方針転換。水野家が織田家を重視したことから、父・広忠は今川家との関係を優先させて於大の方と離縁し、竹千代は3歳で実の母と生き別れます。
水野家との縁が切れたことは松平家vs.織田家の最前線に立つことを意味します。父・広忠は度重なる戦いで劣勢に立たされ、今川義元に救援を要請。
その対価として要求されたのが当時6歳の竹千代でした。
しかし、再び松平家の家臣が広忠を裏切り、今川家の元に行くはずだった竹千代は織田家へ送り込まれ、2年程織田家で人質生活を送ります。この時に、織田信長と出会ったとされています。
竹千代が人質生活中に父親の広忠が死去。松平の当主になるはずの竹千代が織田に捉われているため、松平の家臣たちが織田に服属するかもしれないと危惧した今川義元が自身の腹心を岡崎城へ送り込み、名実ともに三河の松平は今川義元の支配下に置かれました。
結局、今川が織田との戦いで織田家の庶子を捕虜にして、その織田家庶子との人質交換により竹千代は今川家に引き取られ、1555年に今川義元が烏帽子親となって元服、名前も義元から一字もらって元信と名乗るようになります(臣下にするため、教育もしっかりしてもらっている)。更に1557年に義元の姪(築山殿)を娶ると、その二年後には信康が、その翌年には亀姫が生まれています。
以上のように家康が義元に優遇されていただろう点が何点かあがりましたが、もちろん優遇だけではありませんでした。
家康は婚姻の前年に織田との戦いで初陣を飾っていますが、その褒美として贈られたのは元領地の一部のみ。家康個人に対しては良い扱いをしている様に見えますが、やはり領土を…となると警戒されているのが分かりますね。
この一件で家康含む松平関係者は歯がゆい思いをしたのではないでしょうか。
家康、独立のチャンスを得る
1560年、家康陣営にとっては独立する決定的なチャンスが訪れます。
主君の今川義元が織田信長に討たれた 桶狭間の戦い です。
桶狭間の戦いでは家康も今川陣営として出陣し、兵糧攻めにあっていた今川方の城に物資を届ける任務を遂行していました。
その城に留まる中で届いた主君の凶報。事実かどうか見定めた後、父の代まで松平支配下にあった岡崎城に入り独自の軍事行動を開始。ちなみに岡崎城の城代は義元の死をキッカケに既に退却しているので、割と簡単に手に入れられています。
桶狭間に出陣していた家康は家族を今川領に置いて戦に望んでいる状況でしたから、駿府(今川領・駿河)で生まれた家康の娘・亀姫と長男の信康は事実上今川家の人質となるはめに。今川はその弱みに付け込み、再三にわたって味方になるよう促しますが家康はこれを拒否しています。
さらに今川と同盟を結んでいる領主たち(甲相駿同盟の武田と北条)がそれぞれ自国のトラブルに対応している隙に、家康は今川の拠点や遠江や駿河以外の今川縁者の領土を攻撃。その前後に当時の将軍・足利義輝に駿馬を献上するなどして今川家からの独立を明らかにさせていきます。
そうは言っても今川方は強大です。その同盟国も武田や北条といった名だたる大名達ばかり。松平だけで抵抗するのは困難を極めました。
松平家の転機・清洲同盟の締結
松平が拠点とした三河の近所には今川だけではなく、勢いのある織田も存在しています。松平がさんざん煮え湯を飲まされてきた背後には織田の影が必ずのようにありましたが、味方になればこれほど心強い味方もいないでしょう。
しかも織田の場合は(嬉しい過去ではないでしょうが)元家臣や親戚縁者、家康の幼い頃の知り合いなど…松平家との接点は幾らでも見つけられます。
その中で頼ったのが母方の伯父・水野信元。松平は対今川対策のため、そして織田は美濃の斎藤対策(斎藤道三死後、織田と斎藤は敵対関係になっていた)のため両者の思惑が一致し同盟の話を進めていきます。
ところが、長年の敵対関係から互いの家臣達の中には相手に対して不信感を持つ者達が多数いたこともあって、なかなか同盟は結ばれません。結局、同盟が結ばれたのは桶狭間から2年経った1562年となりました。
三河一向一揆の発生
織田信長との清洲同盟が結ばれ、いよいよ本来の目的の今川家へ攻め込もう!!・・・とはなりませんでした。清洲同盟の翌年、1563年から統治下の三河で一向一揆が起こったためです。
不入の権利(寺社領や荘園立ち入り禁止の権利、税収確保の立ち入り検査をすることができなかった)を主張する三河の三ヶ寺に対し、寺の利権をどうにか確保したい家康。
室町時代が多少安定している時には
幕府が不入特権を与えることで守護の領地に治外法権の土地ができる
= 守護の力を抑えられ、不入権を受ける側の幕府への依存度を高めていく
という構図があったのですが、幕府の権威が低下するに従って治外法権の土地を廃止する守護大名が現われはじめました。
家康も『治外法権の土地を廃止しよう』と動いたのですが、当然利権を侵害される側は黙っていることはできません。反家康派だけでなく家臣の中にいる浄土真宗本願寺(一向宗)の門徒達も一向宗側につくなど内紛に近い状況になっています。
反家康派の中には家康の祖父時代から松平宗家を狙っていた庶流家の者達や今川との関係が深い吉良氏も含まれており、この人達が一向宗側につくのは理解できるのですが...後々「忠実」と評価されるようになる三河家臣団の半分近くが門徒方に回ったとも言われています。
本願寺と仲の悪い寺院が家康側についたものの家康にとっては非常にやりにくかったことでしょう(家臣も次第に忠誠心と信仰心の板挟みになって一揆から離脱)。三河一向一揆は家康の三大危機として伝えられるほど苦しい戦いだったようです。
苦難の末、優位に立った家康はどうにか和議に持ち込みます。この時、間に入ってくれたのは織田方にいる叔父の水野信元でした。清洲同盟の締結といい、信元さん良い仕事してくれます。
最終的にはタヌキ親父の片鱗を見せてこんな感じで和睦を結び、
改宗を拒んだ場合は壊すような形で三河一向一揆を収束させています。
家康、今川領・遠江へ侵攻する
三河の一向一揆が終わると名前を『徳川家康』に改姓。1566年のことですが、流れには関係ないので端折ります。それよりも周囲の戦国大名たちの関係が代わり、一気に情勢が変わりそうな状況を説明していきましょう。
まず家康にとって肝になるのが清洲同盟。
信長との同盟で家康にとっては今川を攻めるために必要不可欠な関係です。
この家康と今川との関係を見越して武田信玄が接触してきたのが1568年。
信玄は既に今川義元が生きている時代から武田-今川-北条間で甲相駿三国同盟を築いています。この頃の信玄は信濃平定を目指しており、信濃の北に位置する手強い上杉との対立していたためです。
しかし、1561年の大規模な戦(第4次川中島の戦い)で北信濃も安定して治められそうな算段が付いたことと1560年の桶狭間の戦いで父・義元が討たれ氏真統治下の駿河・遠江の混乱ぶりを見て外交方針を転換。今川を攻める方向に舵を切ります。既に1565年には信長と信玄の間に甲尾同盟を結んでおり、今川と武田の間の同盟関係は殆ど形骸化しているような状況でした。
武田は北条氏康・氏政父子にも駿河への侵攻の意図を伝え今川の分割を提案しましたが、北条は拒絶。家康にも話が回って遠江への侵攻を持ちかけられたのです。駿河を武田が、遠江を家康が統治する協定が結ばれます。
信玄側は既に今川への調略を完了しており、あっという間に駿府まで入り込みました。武田に城が落とされる際に北条氏の娘で氏真の正室が徒歩で逃げるほど窮地だったそうで、この娘の屈辱的な状況に激怒したのが北条氏康でした。今川への援軍を氏真からの援軍要請を受けて既に送っていますが、援軍を送るだけでなく信玄との同盟破棄を決定させます。
一方の家康は信玄が駿府を落とした同日に遠江へ侵攻を始めますが、信濃から武田軍が遠江にもやってきて家康と交戦するはめになり、家康は「話が違う!」となった結果、徳川・武田間は微妙な関係に。家康は武田との関係改善を模索するも、猜疑心にかられ元に戻ることはできず、同盟関係を打ち切ることに。
徳川と武田に亀裂が入ったのをキッカケに上杉や北条との連携を探り始めた家康。その連携に北条も乗ったため挟撃を仕掛けることに成功します。さらに武田は兵糧も少なくなったことで一旦駿河から退却(第一次駿河侵攻)。
武田軍が引いた中、家康は遠江の掛川城に籠城していた今川氏真を包囲すると北条氏の仲介により今川と和睦します。
こんな感じの条件と家臣の命を引き換えに無血開城に成功したのです。もちろん家康が氏真に駿河を返すことはありませんでした。
今川氏真は北条氏政を頼り伊豆へ行き、氏政の嫡男を氏真の養子として駿河・遠江の支配権を譲りました。ここで戦国大名として今川は終わりを告げます。
実質的に今回の武田による第一次駿河侵攻では今川領の遠江部分は家康が、駿河を北条が割譲するような形で第一次駿河侵攻は決着がつきました。この後、武田と北条の争いが激化し1570年には信玄が駿河を支配下に置いています。
信長包囲網と武田氏との亀裂
1571年末、北条氏康が死去すると北条と武田が甲相同盟を復活させています。両者が敵対している状況は上杉が利することに他ならないためです。
これを機に武田が駿河領土を完全に確保。北条の方針転換により命を狙われた氏真は家康の庇護下に入ります。家康にとって元遠江の国主を保護したことは遠江支配の正当性を裏付けるものとなりました。
さて、信玄による駿河統治から時を遡りましょう。1567年、家康と清洲同盟を結んでいた織田信長は将軍・足利義昭を奉じての上洛に成功していましたが、次第に将軍をコントロール下に置きたい信長とそれを嫌う将軍との間が険悪になっていきます。
その状況を脱出したい将軍・義昭は密かに反信長勢力を集結させていました。いわゆる信長包囲網です。
1572年にはこの反信長勢力の中に武田もしっかり入っていました。この時、徳川ー武田間の同盟は駿河侵攻で破棄されていますが、織田―武田間の同盟は破棄されていません。つい3年前には信長の嫡男と信玄の娘との婚約をし、同盟関係を続ける意図が確認されていたにも拘わらず武田は同盟の約束を反故にしたのです。
信玄の方でも家康や信長が上杉と同盟を結んだり望んだりしたため【お前ら武田に圧力をかけただろ】とか【家康を何とかしないからだ】など言い分があるらしいのですが、実際に軍を動かし完全に同盟をなしにしたのは信玄。信長に【二度と武田とは手を結ばない】とまで言わせています。
こうして信長は義昭の元に集った多くの戦国大名と対峙する羽目になり、家康もまた武田との戦いが避けられない状況になったのです。
そんな経緯からはじまった争いの中でも最も家康が苦労したのが
三方ヶ原の戦いです。
30000人もの武田軍に対して織田からの援軍3000人含めても11000人(人数はハッキリしていないが徳川軍が劣勢なのは間違いない)とも言われており、最初から戦力差の大きな戦いで、家康は大惨敗という結果に。
数多く伝わる家康の話の中でも「なんで、そんな話伝わったの?」っていうしょうもない逸話が残ってます。武田から追い詰められ過ぎて漏らしながら逃げた時に「クソじゃなくてミソ」と無理のある言い訳をしたなんて話も。
家康は多くの家臣を亡くし命からがら何とか生き延びましたが、遠江の北部は武田領になってしまいました。
信玄の死
手痛い敗戦後も武田軍による侵攻(西上作戦)は止まりません。ところが三河へ入ると武田軍は突然謎の動きをし始めます。浜名湖周辺で時間を置いて(わざわざ年を越してから)三河に侵攻したり、時間のかかる方法で城攻めをはじめたり。それでも流石は武田軍。三河の野田城を落とし城主は武田軍に拘束されたのですが…
その野田城を放棄し既に武田支配下になっていた長篠城へ退却します。
何の前触れもない突然の退却に家康は『信玄死去』の疑惑を抱き、駿河国への侵攻・放火や長篠城に攻撃。反撃らしい反撃もないことから信玄の死を確信し、長篠城を奪還。城を拡張し、武田の再侵攻に備えます。
実際に家康の疑惑は大当たりで武田信玄は1573年4月に亡くなっていました。
信長も信玄の動きに疑惑を持ち、反攻に転じ包囲網の一角・六角義賢を落とします。信玄の死により清洲同盟組の徳川と織田は最大の脅威から逃れましたが、今度は足利義昭自身が挙兵。この挙兵騒動で信長は足利義昭を追放し、1573年に室町幕府は滅亡します。
室町幕府の滅亡で反信長連合が動揺している隙をつき信長は畿内の反信長勢力を一掃させ地域を安定させていきました。
信長の方に余裕ができ援軍も期待できそうな状況だと士気も上がりますし、武田軍が後退している中で家康も態勢を整えることが出来ました。家康たちは態勢を整えると長篠城よりも更に北東へ侵攻していき、いよいよ駿河の武田領を攻め込むか?という位置まで巻き返しています。
長篠の戦いと武田氏の滅亡
もちろん信玄の後継者の勝頼もやられるだけではなく、一進一退を繰り返したのですが、1575年に武田にとって進退が決まる一戦が始まります。
長篠の戦いです。
信長が関わった戦いで3000丁の鉄砲による三弾撃ち(現在、三弾撃ちは否定されている)として有名ですが、開戦理由は信長の都合ではなく『徳川への義理』といった側面が強かったようです。
はじめは家康と勝頼が一進一退の攻防戦の一つでした。同盟相手の信長からの30000人もの援軍(徳川軍の戦力が8000人)が主力に躍り出た少々変わった戦いです。ちなみに武田軍は15000人でした。
結果、多くの鉄砲を取り入れた徳川・織田軍の圧勝。武田は大惨敗、武田四天王と呼ばれた重臣たちのうち3人をはじめ多くの重臣や指揮官が長篠の戦いで討ち死に。兵の被害も尋常じゃなく武田の犠牲者は1万名とも言われています。複数の重臣達の討ち死にと人を集めるのが難しい土地柄(山に囲まれている)、この大敗で武田は大きく動揺し、外交関係を新たに模索し始めることに。
家康は長篠の戦いを機に三河の実権を完全に取り戻すことができ、遠江の重要拠点も奪うことに成功。武田に対して優位に立つことができました。
長篠の戦いが終わった後も、織田・上杉・北条・武田・関東勢力、さらに追放された足利義昭、それぞれが思惑を持ち、同盟を結んだりあるいは同盟を破棄したりしながら互いを牽制し合う状況が続いていきます。
そんな中、力関係が変わりそうな出来事が発生します。1578年、軍神と呼ばれた上杉謙信が死去したのです。子がいなかったため越後では後継者争いが発生し、武田と結んだ謙信の甥が北条出身の姪婿を敗死させたことで甲相同盟が破綻します。そこで北条から家康に同盟の話が出てきたため、家康はその同盟に乗ることに。
一方の武田。北条との関係悪化から信長との和睦を模索し始め人質としてとっていた信長の息子・勝長を返還していますがこれを無視し、1582年、信長と家康によって武田領へ総攻撃。勝頼は同年3月に自害し、戦国時代の一大勢力である武田が滅亡したのです。
この戦いにより家康は駿河国を与えられ、他の武田領は織田領となりました。