幕末の雄・長州藩毛利氏と戦国大名毛利元就の台頭
毛利氏の始まり
毛利氏は、源頼朝の側近として鎌倉幕府の政所の初代長官として幕府創設に貢献した大江広元が祖とされています。この多大なる功績を残した広元が得た所領のうち、相模国の毛利荘を息子の季光が毛利と名乗ったことから歴史が始まります。
毛利季光は、承久の乱などで活躍し鎌倉幕府での地位を高め、評定衆として幕政にも従事しました。しかし、妻の実家・三浦泰村と執権・北条時頼が争うと、三浦方に味方をし敗れてしまいました。
毛利季光以下、息子たち広光・光正・泰光・師雄は、北条時頼との争いに敗れ自刃しました。毛利氏で唯一残ったのが越後にいた四男・経光の家系から毛利元就を輩出することになります。
安芸毛利氏
毛利氏が安芸国を拠点とするのは、経光の子の毛利時親の代で、北条宗家との縁を強くした時親は六波羅探題まで出世し、毛利氏の再興を果たしました。六波羅探題の経験をした時親は、西国の情勢に詳しくなり、南北朝の動乱を機に安芸国の吉田荘へ移住したのが、安芸毛利氏の始まりとなります。
一時期は観応の擾乱の余波を受け毛利氏も分裂し争いましたが、時親のひ孫吉川元春が一族をまとめ上げ、吉田盆地一体に勢力を拡大し、安芸毛利氏の礎を築きました。
毛利氏の概要を書いたところで、今日は戦国時代に頭角を現した毛利元就について書いていきたいと思います。
毛利元就の誕生
毛利元就が生まれたのは1497年で、安芸国内の国人領主・毛利弘元の次男として生まれました。国人領主とは、知事クラスの守護とは程遠い、町村レベルの支配領域しか持っていませんでした。
また、次男だったので、この時点では毛利家の相続権はありませんでした。
この頃、中央では日野富子が10代将軍・足利義材を廃し、11代義澄を擁立した【明応の政変】が1493年に起きた時期でもありました。1467年に起きた応仁の乱から続く動乱によって、戦国時代と呼ばれる群雄割拠した時代が幕を開けました。
当時の安芸国では、毛利氏のほかに様々な国人領主がいました。
また、中国地方では大内氏と尼子氏の二大勢力が連ねており、毛利氏は大内氏の勢力下にありました。しかし、明応の政変で大内氏の保護下にあった足利義材と現将軍・義澄との板ばさみになった毛利弘元は、1500年に自身が隠居と言う形を取り、板ばさみ状態を解消しました。
嫡男・興元が毛利氏を継ぐと、元就は父・弘元に連れられて、多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)へと移り住む事となりました。
ここで、元就に試練が訪れます。
1501年、元就の実母が、1506年には父・弘元は酒が原因で死去します。
このとき、後見役であった家臣・井上元盛によって多冶比の領地を横領されて、9歳の幼い身で城を追い出されてしまいます。この窮地を救ったのが、義理の母・杉大方でした。
彼女の家は、安芸国から石見国にかけての有力国人だった高橋氏で、元就の実母が死去した後に弘元の正室になったが、幼少で城を追われた元就をみて不憫に思い、再婚もせず元就を養育しました。
その後は、領地を横領した井上元盛が死去したため、多冶比の地は再び毛利領へ戻り、1511年に滞りなく元就は元服を済ませました。このとき、嫡男が健在だったので、あくまで毛利の分家として多冶比殿と呼ばれていました。
初陣からハードな戦いだった
ここで人生のターニングポイントが訪れます。1516年、兄・毛利興元が父と同じお酒が原因で死去しました。毛利宗家では、興元の嫡男・2歳の幸松丸が家督を継ぎ、叔父の元就が後見役となりました。
こうした毛利家の混乱を察知して、左東銀山城の武田元繁が吉川領に侵攻しました。
政変後、大内氏に臣従していた武田氏ですが、本来は安芸国守護職の名門でした。元繁は、自身の安芸国の権威を回復しようと国内で勢力を図っていました。
これに対抗すべく、元就は毛利宗家の代表として吉川氏の救援へ向かいます。
このとき元就20歳の初陣でした。
西国の桶狭間と呼ばれる有田中井手の戦い
1517年、吉川氏の有田城へ進軍した毛利軍は、武田軍の猛将・熊谷元直を討ち取ると、有田城を包囲中の武田元繁が、主力を毛利・吉川連合軍へ向けました。
数で不利な毛利・吉川軍は苦戦し、東へ後退しますが、元就は兵を上手く鼓舞して粘りました。そのとき、武田元繁が先陣を切った所を狙い一斉に弓をかけました。これが見事に元繁を貫き討ち取ることに成功します。
桶狭間同様、大将を失った武田軍は総崩れとなり撤退しました。
この有田中井手の戦いは、西国の桶狭間と呼ばれ後世に残る事となりました。この戦いを境に、毛利氏の勢力が大きくなる一方で、安芸守護の武田氏は滅亡の一途をたどる事になります。
大内氏と尼子氏と挟まれていた毛利氏は…
武田氏との戦いを制した元就は、主君を大内氏から尼子氏に鞍替えをし、地道に安芸周辺の領地を拡大していきました。毛利氏の本拠地は、瀬戸内海と日本海の丁度間の山間部にあり、大内氏と尼子氏との【国境線】として決定権を握っていました。
鏡山城攻略戦では、大内氏の将を寝返らせ、尼子軍を手引きさせる戦功を挙げます。しかし、論功で尼子経久が寝返った将を処刑した上に、元就に恩賞も与えないことから不信感を募らせました。逆に尼子経久は元就の知略に警戒をするようになりました。
この戦い後、甥の毛利家当主・幸松丸が9歳で亡くなってしまいます。
この時、重臣たちの満場一致で27歳の元就が毛利宗家を継ぐことになりました。この際に、元就の才を恐れた尼子経久が、元就の異母兄弟・相合元綱を擁立を画策するも失敗に終わります。
経久の介入事件から尼子氏との不和が決定的となり、元就は再び大内氏の配下となりました。
毛利元就の子供
元就には優秀な5人の子供に恵まれました。
- 生年不明 長女
- 1523年 嫡男 毛利隆元
- 1525年 次女 五龍局
- 1530年 次男 吉川元春
- 1533年 三男 小早川隆景
正室・妙玖との仲はとても良く、1545年に亡くなるまで元就は側室を置かなかったそうです。
子宝に恵まれた元就は、大内氏の傘下で安芸国内で勢力拡大に全力を注ぎました。
1529年、家督相続の際に尼子氏と共に画策した高橋氏を討伐します。元々、亡き甥の母方の実家でしたが、実力で奪い取り安芸から石見にかけての広大な領地を手に入れました。
1535年には、備後の多賀山氏を攻め臣従させています。
戦で勢力を拡大する一方で、婚姻関係で周囲との結びつきを強めていくのも元就のやり方でもありました。以前から、争いが絶えなかった宍戸氏に対しては、次女を嫁がせて友好関係を構築し、後述しますが吉川家・小早川家にそれぞれ息子を送り込み取り込みに成功しています。
こうして安芸の国人領主たちとの友好な関係を築いていく傍ら、大内氏の推挙で官位を授かる一方で、長男・隆元を人質に差出し関係を作りまいた。
安芸での勢力が拡大したとはいえ周囲の大名に比べて、まだまだ弱小国家だった毛利氏でした。そんな折、1540年に尼子晴久が3万の軍勢を率いてやってきました。
元就の代表的な戦いのひとつ【吉田郡山城の戦い】です。
このときわずか3000人の兵と共に篭城をおり、毛利家存続の危機に陥ってました。
しかし、宍戸氏の協力や大内義隆の援軍により尼子晴久を追い返し、その勢いで安芸守護の武田氏を滅亡の止めを刺し安芸の権力を手中に収めます。
吉川元春と小早川隆景
毛利元就の安芸の国人領主たちの掌握は、息子たちを送り込むことで毛利氏の傘下に置くことができました。次男・元春を吉川氏に、三男・隆景を小早川氏に婿入りすることによって、支配力を及ぼしていきました。
1542年から大内義隆を総大将として、第一次月山富田城の戦いが始まり、毛利元就はそれに従軍します。このとき、毛利軍は同盟国であったはずの吉川興経の裏切りにより大敗を喫し、命からがら吉田郡山へ帰還します。
1544年には、跡取りが不在となった小早川氏から養子の話を受け三男・隆景が小早川家へ差し出されました。さらに、元就自身が突然の隠居を宣言して嫡男・隆元に家督を譲りますが、これは表面上の隠居で、実権は元就が握ったままでした。
1547年には、なんと月山富田城の戦いの際に裏切られた吉川氏の下へ次男・元春を養子に出したのです。
このとき、毛利氏と吉川氏との間で何が起きたのでしょうか??
まず、吉川氏は元就の妻の実家でした。でもそれだけでは、元就は大切な息子を養子になんて出すわけがありません。
これには、吉川氏の内部争いが要因となっていました。
第一次月山富田城の戦いで元就を裏切った吉川興経は、この事で一族内で総スカンを食らっていました。そこで、反興経派が吉川家の血を引く元春を養子にと申し出たのです。
元就はこのチャンスを無駄にはせず、次男・元春を吉川氏へ養子へ送り込むことにしました。養子を迎えた吉川氏は反興経派のクーデターにより吉川興経が強制的に隠居させられ、その息子と共に暗殺され吉川元春の当主基盤を固めました。
こうして反乱因子を排除した吉川家は、完全に毛利氏のものとなり、次は小早川氏にターゲットを絞りました。小早川家は安芸東部の名門でしたが、竹原小早川氏と沼田小早川氏に分かれていました。隆景が送り込まれたのは、竹原小早川氏でした。
沼田小早川氏の当主は、第一次月山富田城の戦いで戦死し、小早川繁平が跡を継いでいましたが、幼少かつ病弱であったため尼子氏の侵攻に耐えられないと、大内義隆が判断していまいた。そこで、繁平に尼子との内通疑惑をかけて追放すると、竹原小早川氏当主・隆景を繁平の妹と結婚させて両小早川家を合併させ、隆景を当主としたのです。
これにより、小早川氏と吉川氏の領土が毛利氏のものとなりましたが、これにはおまけが付いてきました。小早川の安芸東部には、村上水軍で有名な瀬戸内海の島々が浮かぶ海もあり、毛利氏には無かった水軍も手に入れることができたのでした。
陶晴賢のクーデターと毛利元就
1551年、中国地方の覇者であった大内義隆が家臣・陶晴賢に殺害されました。
元就は、このクーデターを前もって知っていたようで、君主の死で大内家内で【大寧寺の変】がおきると、元武田氏の領土、左東郡を奪取します。そして、大内派の平賀氏の当主をすげ替えて毛利傘下に収め、領土が広島湾に面したところまで所有した事で毛利水軍が強化されました。
この動きに懸念を抱いたのが、大内氏の実権を握った陶晴賢で、ドサクサで奪った大内氏の領土の返還を要求しますが、もちろん元就は拒否します。こうして、両者の対立がくすぶっていきますが、大内氏の配下の吉見氏が陶晴賢に反旗を翻した事で、両者の決裂が決定的になりました。
吉見氏の謀反により陶晴賢は、安芸の国人衆に【吉見氏を鎮圧せよ】と頭ごなしに出陣命令を出したのです。この行動が、【毛利元就が安芸国人衆のまとめ役である】と言う約束に反しており、毛利氏と陶氏(大内氏)の同盟に終止符が打たれることになりました。
とは言うものの、当時の実情は陶晴賢の動因兵数3万に対し、毛利元就は最大で5千で全うにやりあっても勝てる相手ではありませんでした。そこで、元就は策略を用いて陶(大内)を内部から崩していくことにしました。
まず元就は、陶晴賢の家臣・江良房栄に内応の約束をさせましたが、折りが合わずに交渉が不成立なりました。しかし、元就はこの交渉を逆手にとって、陶晴賢に交渉が合った事をリークして陶自身に江良を粛清させました。
厳島の戦い
1555年、陶晴賢は自ら大軍を率いて毛利氏の交通の要所【厳島】宮尾城の攻略に出陣しました。 厳島は周防から安芸への水運の要衝ともみなされており、1554年5月に厳島を占領した元就は、宮尾城を補修しそこに兵を置きました。
厳島の合戦に先立ち、陶軍が宮尾城を攻めますが攻略できず、家臣が進言してきたのが厳島への上陸作戦でした。陶晴賢は、宮尾城の水源を絶ち、堀も埋め、あとは攻撃をするだけでしたが、日柄が悪いと総攻撃を延期していました。
そのころ、4000の毛利軍は厳島へ渡る準備をしていました。その時、天気が崩れて暴風になると、悪天候の中で夕闇と嵐に紛れて島の東岸・包ヶ浦に上陸、村上水軍を沖合に留まらせて開戦を待ちました。
翌朝、毛利軍は陶軍に奇襲攻撃を開始!!
主力が陶軍の背後から襲いかかり、別働隊と宮尾城の兵が陶本陣に攻め挟み撃ち。海上では、村上水軍が陶水軍を焼き払いました。圧倒的な大軍と、暴風で油断していた陶軍は、狭い島で逃げも攻めも出来ず総崩れとなり、陶晴賢は自刃して果てました。
この厳島の戦いを機に、毛利氏の勢力が一気に拡大していくのでした。
大内氏・尼子氏の滅亡
陶晴賢が自刃したのち、大内氏の内紛に乗じて当主・大内義長を討ち戦国大名大内氏を滅亡させ、周防・長門国を手に入れた元就は、尼子氏と肩を並べるほどの大名まで成長しました。
1560年に、尼子晴久が急死すると、1562年に出雲へ侵攻を開始し月山富田城を攻撃します。対する尼子義久は、難攻不落のこの城で篭城戦で対抗しました。
元就は、以前大内氏との第一次月山富田城の戦いの教訓を生かし、無理に攻めようとはせずに策をめぐらせジワジワと兵糧攻めを開始します。同時に、尼子の内部崩壊を誘う策を巡らせて義久を疑心暗鬼にさせることに成功しています。
これにより、重臣を自ら殺害する事件が尼子内部で起き、義久の信用が無くなっていき城の内部から崩壊が始まりました。この頃から、投降者が続出し1566年には、篭城が維持できなくなり、義久は投降を余儀なくされました。
これにより、戦国大名としての尼子氏は滅亡し、石見・出雲・隠岐・伯耆を収めることになり、元就は中国地方8カ国の大大名になりました。
しかし、尼子氏との戦いの間に嫡男・隆元が亡くなると言う悲劇が起きています。
そのため、自分の臨終の際3人の息子を呼んだ【三本の矢】の逸話は史実ではなくあくまでも作り話だったと言うことがわかります。とは言うものの、兄弟とその息子(輝元)と協力して国を維持したのは変わりないので、三本の矢は創作なれど元就の教えはキッチリ守られてました。
尼子氏を滅ぼした後も、山中鹿之助率いる尼子の残党が毛利に抵抗を続け手を焼きました。さらに、九州では豊後の大友宗麟と北九州地方の支配権をめぐり激しく争いました。
大友宗麟は大内の残党を支援し長門へ攻め込ませたりしますが、博多湾の支配権を大友氏へ渡すことを条件に大友氏とは和睦し、元就は尼子氏残党の処理に専念します。
そして元就は、1571年に吉田郡山城で死去します。
この時代としては75歳の大往生で、父・兄もアル中で短命で、さらに祖父もお酒で33歳の若さで亡くなっており、アルコールに弱い体質だったのかもしれません。それもあってか、元就自身は酒を断ち、身内にもお酒は程ほどにと説いています。それが長生きの秘訣だったのかもしれません。
嫡男・隆元が既に亡くなっていた事から、元就の孫である・輝元が家督を継ぎ豊臣政権、関が原を経て江戸時代へと入っていきます…
元就の死後の毛利氏
元就のあとを継いだ輝元は、勢力を拡大しつつあった織田信長と争い、信長の死後はその家臣であった羽柴秀吉に従うことになります。豊臣政権下では、徳川家康と並ぶ五大老としての高待遇を受け、1600年の関が原の戦いでは打倒家康を目指す西軍の総大将となりました。
しかし、関が原の西軍の敗北により領国を周防・長門の2国に減封されることになります。
江戸時代になると、長門国阿武郡萩の指月山に居を構え、毛利氏長州藩(萩)の拠点となりました。輝元の跡を継いだ秀就は、徳川家康の孫娘を正室に迎え、松平姓を与えられるなど、徳川家との関係修復に成功しました。
この頃になると、藩政も安定し毛利氏は長門・周防36万石を有する西国の大藩・長州(萩)藩として260年間続くことになります。
幕末の動乱期の1853年における黒船来航は、江戸幕府に少なからず動揺をもたら巣事になります。この事件をきっかけに、外様大名であった長州藩毛利氏も中央政界の動向に関与するようになります。
しかし、開国による国内の混乱が強まると、強固な攘夷論に転換し、1864年の8月18日の政変や、1865年の禁門の変によって幕府や会津藩などの幕府を支持する勢力から排除されることになります。
幕府による2度の攻撃を耐え抜いた長州藩は、倒幕に転じた薩摩藩と同盟を結び、岩倉具視等の急進派の公家たちと組んで倒幕の密勅を手に入れ、倒幕を図りました。
その後の戊辰戦争で倒幕を実現した長州藩は、明治維新改革の中軸を担う人材を輩出することになり、最後の藩主・毛利元徳も華族制度の最高位である公爵の地位を授けられました。